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第六章 秋雨
十一
しおりを挟む「待って!」
閉じられたドアを、追うように開ける。その先に、もう春日井さんの姿はなかった。その代わりに激しい雨だけが降りしきる。近いのか遠いのか、雷の音がけたたましく鳴り響く中を、わき目も振らず走った。
「私、あなたに何も言ってない!」
土砂降りの雨が視界を悪くする。飛び出した路地裏にも、その先の橋にもどこにも、どれだけ目を凝らしてもその姿はない。
「何も、伝えてないよ……っ」
毎日通る橋で、しゃがみ込んだ。いつかも、雨の中ここで泣き崩れた。春日井さんがそっと傘を差し掛けてくれたのだ。春日井さんは、私に辛いことがあった時、いつでも静かに手を差し伸べてくれた。励ましてくれた。それなのに、私は何もできない。
何もできないの――?
ハッとして、腕時計を見る。まだ、夜の七時を回る前だった。何もできないと泣いて時間をやり過ごすことが出来るほど、私はもう冷静じゃない。こんなところで泣いている場合じゃない。私は、まだ春日井太郎の妻だ。すぐに立ち上がり家に戻る。そして傘を差して歩き出した。
「春日井太郎のことで、教えてください」
春日井さんがこの日まで勤めていた図書館に来た。
「え……? あ、あの、そちら様は――」
閉館間際の図書館で、貸出カウンターに向かった。カウンターに座っている職員が私の姿を見て、ギョッとしている。そんなことに構っていられない。
「彼のことで投書があったと聞きました。それは、どなたからですか。どういう内容のものですか?」
「あ、あの、そういうことはお教え出来かねますが――」
「私は、春日井太郎の妻です」
そう伝えると、半信半疑のような目を私に向けながら「少々お待ちください」と言って、裏の方へと消えて行った。閉館のアナウンスが流れる。それに促されて帰ろうとしている来館者が視線を寄こしてくる。
「――お待たせしました。とりあえず、こちらに」
次に出て来た人は、見たことがある人だった。そうだ。何度か、春日井さんと話しているのを見かけた人だ。連れて行かれた別室で、その男性があからさまな視線を私に向けた。
「春日井さんの直属の上司をしておりました、沢田と申します。私は、彼が結婚したとは聞いていません。そちら様が奥様だと証明できるものは何かございますか?」
「え……?」
だって、春日井さんは、『既婚者の肩書』が欲しくて私と偽装結婚したんじゃなかったの――?
訳が分からない。職場で出世するためには信用が必要なのだと言っていた。
それなのに、どうして結婚していることを知らないのか――。
混乱する頭で、免許証を出す。住所も名字も、春日井さんと同じものだ。さすがに信用したのか、「お座りください」とその部屋にあった椅子に腰かけるよう言われた。その向かいに、沢田さんが席に着く。
「失礼ですが、ご結婚されたのはいつ頃ですか?」
「今年の六月です」
「……まったく知りませんでした。まあ、ご主人は、仕事上で必要な時以外、同僚とほとんど関わることはなかったので、伝える必要もないと思っていたのかもしれませんね」
そうひとり言のように言った後、『本題』について教えてくれた。
「ご主人のことで届いた投書について、お知りになりたいんですよね?」
「はい」
「最初に一通の投書がこの図書館宛てに送られてきました。図書館のホームページに一般の方から募る意見箱のようなものがあって、そこにも今朝出勤して来たら大量のメッセージが届いていました。午後には同じような内容の電話も」
「その内容というのは……」
私がそう問うと、沢田さんは何故か押し黙った。
「私は妻です。どんな内容でもきちんと目にすると心を決めてここに来ました。主人の置かれている状況を理解したいんです」
「では――」
躊躇いがちではあったが、送られて来たという投書を持って来てくれた。それは、パソコンか何かで書かれたもののようだった。
”そちらの図書館に、犯罪者の親族が働いている。犯罪、それも、一番罪の重い殺人だ。
そんな職員がいるような図書館は、区民が安心して利用できるはずもない。区民のためにある図書館だ。区民を第一に考えろ。春日井太郎を即刻辞めさせないと、しかるべき手段を取る。”
「これを読んだご主人は、取り乱すでもなく静かに『申し訳ありません』と私たちに謝りました。それからすぐに辞表を持って来ました。私がそんなに急いで結論を出す必要はないと言ったんですが、迷惑をかけるからと。きっと、これまでも似たような経験して来たんでしょうね。ご主人には、この後どういうことが起きてどんな状況になるのか想像出来たのでしょう」
沢田さんの言葉に胸が潰れそうな気持になる。
何度、こんなことがあったのだろう。何度、傷つけられて来たのだろう。何度、こうして生きていた場所を捨てなければならなかったんだろう――。
その次の文章に、息が止まる。
”そいつは、ただの犯罪者の親族だと言うだけではない。犯罪者を家族に持つことを隠して、人の恋人を奪い、他人を不幸に陥れる。自らも最低な人間だ。人間のクズだ。人のものを盗る、その男自身も立派な犯罪者だ”
これ、何――?
恐ろしいほどの震えが私の身体を襲う。
「奥様、大丈夫ですか?」
こんなの、春日井さんの持つ過去と関係ない。
”人の恋人を奪い”
それって――。
たどり着いた先の答えに、身体中の血の気が引いて行った。こんなことを言う人は、一人しかいない。
「こ、れ……主人も、読んだんですよね?」
「え、ええ、そうですが」
春日井さんは、この出元が誰か分かっていた。それなのに――。
『そういうことは、思いもしないところから漏れたりする。そういうものだ。だから、君は気にしないで』
春日井さんは私にそう言った。住む場所も働く場所を失っても、私に一言も言わなかった。それは、私が自分を責めてしまうから。私のせいだと思ってしまうから。
春日井さん、どうして――?
込み上げる涙をこらえる事が出来ない。自分のいる場所がどこだか分かっていても、抑えることなんて出来なかった。哀しくて悔しくて、やりきれない。どうしてもっと深く考えなかったのだろう。どうしてもっと早く、春日井さんから離れなかったのだろう。私の身勝手な感情のせいで、私なんかが春日井さんを好きになってしまったせいで――。これまでずっと一人で、すべての苦しみも辛さも背負って来た春日井さんの平穏な生活を奪ってしまった。
図書館を出て、春日井さんに電話をかける。やはり、その電話は繋がらなかった。
「ごめんなさい……」
苦しくて、スマホを握りしめたまま座り込む。雨の降る夜の公園は誰一人歩いていない。私に再会なんかしなければ、今もこの図書館であの家で、きっと静かに生きていた。
許せない。それは自分に対してか、樹に対してか。悔しくてどうしようもなくて、気づけば走り出していた。それは、もうほとんどただの衝動だ。冷静な判断でも何でもない。ただ突き動かされるように、私は走った。
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