雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

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第六章 秋雨

十三

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 どうすることも出来ない現実を抱えたまま、春日井さんと暮らした家に帰って来た。
 始業時間に間に合うわけもなく、会社に電話を入れ休暇を取る。家を飛び出してから丸一日も経っていないのに、それが酷く遠い昔のことに思えた。ドアを開けても家の中に入っても、もう春日井さんはいない。本来の主がいない家は他人の家のようだ。疲れ果てた身体のまま、ダイニングテーブルの椅子に座り込んだ。


 それから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。呼び鈴ががらんとした家に響く。訪ねて来たのは、璃子さんだった。

「太郎君から連絡をもらって。父は仕事ですぐには来られないから、私がとりあえず先に来ました」

彼女の顔を見たら、飛びつくように言っていた。

「春日井さんから、その後何か連絡はありましたか? 今、どこにいるのか、どうしてるのか。電話しても繋がらないんです」
「太郎君から、今回の事情を知らせる電話が来た後は、何もない」
「そうですか……」

璃子さんならと思った微かな望みが絶たれる。もう、私には何のあてもなくなった。

「……大丈夫、ですか?」

私をうかがうように見つめる大きな目は、意外にもどこか優しいものだった。

「無理もないですよね。とりあえず、お邪魔していいですか?」
「あ、はいっ。すみません、どうぞ」

玄関先でずっと立たせたままなことに気付く。

「太郎君の使っていた部屋のものを処分するように頼まれてるから、私、片付て来ます」
「はい……」

そう言って、璃子さんは春日井さんの部屋へと入って行った。

 それを見送っても、何もする気にならず、またダイニングに戻った。春日井さんは、いなくなった後のことを璃子さんに頼んだ。それだけ、春日井さんにとって私は他人だったということだ。こうして離れて思い知る。私と春日井さんを繋ぐものなんて、この紙きれ以外に何もない。春日井さんから手渡されていた離婚届。それ以外に、何もなかったみたいに、春日井さんの痕跡は消えてしまった。

心の中はこんなにも春日井さんでいっぱいなのに、私は一体どうしたらいいの――?

『僕のことは忘れて』

最後の瞬間に言われた言葉を、私は消化できないでいる。

何をどう、忘れたらいいんですか――。

額に置いた手が冷たい。

「――糸原さん」

いつの間にか春日井さんの部屋から出て来ていたのか。その声に振り返ると、璃子さんが立っていた。

「これ、あなたに」

そう言って、璃子さんが私に差し出す。

「何ですか……?」

おそるおそる差し出されたものを手に取る。それは、ひどくしわくちゃでたくさんのセロハンテープで貼り付けられた何枚もの紙。その状態に目を奪われて、それが何なのか想像も出来なかった。

「太郎君はそれを捨てるという判断をしたみたいだけど、私は、やっぱりあなたは読むべきだと思って」

璃子さんが、私を真っ直ぐに見つめた。

「糸原さんって、太郎君のこと好きだよね?」
「……え?」

璃子さんの言葉に戸惑う。

「この前、糸原さんと二人で話した時に何となくわかった。私が『太郎君のこと好き』って言った時のあなたの表情なんかでね。あの時ああ言ったのは、あなたを探るためみたいなもので。言っておくけど、私が太郎君のことを好きだったのは、前のことだから。それに、私はとっくの昔に振られてるしね。『僕には好きな人がいるから』って」

そう言って、璃子さんが寂しそうに笑う。

「――だから、これ読んで。破り捨てられていた紙を執念でくっつけたんだから。何もここまで破らなくてもいいよね。本当に何もかも破り捨てて葬り去ろうとしたんだね。でも、そうはさせませんよ。ゴミ箱なんかに捨てて行くのが悪い!」

璃子さんが明るい口調で言うから、余計にその目が潤んでいることに胸が痛む。私の手の中にあるぐしゃぐしゃの紙の束に、目をやった。その皺だらけの紙には、離婚届に書かれているのと同じ筆跡の字が並んでいた。


 
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