86 / 154
第六章 秋雨
十三
しおりを挟むどうすることも出来ない現実を抱えたまま、春日井さんと暮らした家に帰って来た。
始業時間に間に合うわけもなく、会社に電話を入れ休暇を取る。家を飛び出してから丸一日も経っていないのに、それが酷く遠い昔のことに思えた。ドアを開けても家の中に入っても、もう春日井さんはいない。本来の主がいない家は他人の家のようだ。疲れ果てた身体のまま、ダイニングテーブルの椅子に座り込んだ。
それから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。呼び鈴ががらんとした家に響く。訪ねて来たのは、璃子さんだった。
「太郎君から連絡をもらって。父は仕事ですぐには来られないから、私がとりあえず先に来ました」
彼女の顔を見たら、飛びつくように言っていた。
「春日井さんから、その後何か連絡はありましたか? 今、どこにいるのか、どうしてるのか。電話しても繋がらないんです」
「太郎君から、今回の事情を知らせる電話が来た後は、何もない」
「そうですか……」
璃子さんならと思った微かな望みが絶たれる。もう、私には何のあてもなくなった。
「……大丈夫、ですか?」
私をうかがうように見つめる大きな目は、意外にもどこか優しいものだった。
「無理もないですよね。とりあえず、お邪魔していいですか?」
「あ、はいっ。すみません、どうぞ」
玄関先でずっと立たせたままなことに気付く。
「太郎君の使っていた部屋のものを処分するように頼まれてるから、私、片付て来ます」
「はい……」
そう言って、璃子さんは春日井さんの部屋へと入って行った。
それを見送っても、何もする気にならず、またダイニングに戻った。春日井さんは、いなくなった後のことを璃子さんに頼んだ。それだけ、春日井さんにとって私は他人だったということだ。こうして離れて思い知る。私と春日井さんを繋ぐものなんて、この紙きれ以外に何もない。春日井さんから手渡されていた離婚届。それ以外に、何もなかったみたいに、春日井さんの痕跡は消えてしまった。
心の中はこんなにも春日井さんでいっぱいなのに、私は一体どうしたらいいの――?
『僕のことは忘れて』
最後の瞬間に言われた言葉を、私は消化できないでいる。
何をどう、忘れたらいいんですか――。
額に置いた手が冷たい。
「――糸原さん」
いつの間にか春日井さんの部屋から出て来ていたのか。その声に振り返ると、璃子さんが立っていた。
「これ、あなたに」
そう言って、璃子さんが私に差し出す。
「何ですか……?」
おそるおそる差し出されたものを手に取る。それは、ひどくしわくちゃでたくさんのセロハンテープで貼り付けられた何枚もの紙。その状態に目を奪われて、それが何なのか想像も出来なかった。
「太郎君はそれを捨てるという判断をしたみたいだけど、私は、やっぱりあなたは読むべきだと思って」
璃子さんが、私を真っ直ぐに見つめた。
「糸原さんって、太郎君のこと好きだよね?」
「……え?」
璃子さんの言葉に戸惑う。
「この前、糸原さんと二人で話した時に何となくわかった。私が『太郎君のこと好き』って言った時のあなたの表情なんかでね。あの時ああ言ったのは、あなたを探るためみたいなもので。言っておくけど、私が太郎君のことを好きだったのは、前のことだから。それに、私はとっくの昔に振られてるしね。『僕には好きな人がいるから』って」
そう言って、璃子さんが寂しそうに笑う。
「――だから、これ読んで。破り捨てられていた紙を執念でくっつけたんだから。何もここまで破らなくてもいいよね。本当に何もかも破り捨てて葬り去ろうとしたんだね。でも、そうはさせませんよ。ゴミ箱なんかに捨てて行くのが悪い!」
璃子さんが明るい口調で言うから、余計にその目が潤んでいることに胸が痛む。私の手の中にあるぐしゃぐしゃの紙の束に、目をやった。その皺だらけの紙には、離婚届に書かれているのと同じ筆跡の字が並んでいた。
0
あなたにおすすめの小説
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
私たちの離婚幸福論
桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる