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エピローグ
三
しおりを挟むどれだけ歩いてもバクバクと騒ぐ鼓動が収まることはない。姿を見て、声を聞いて、その身体に触れた。それが、どれだけ奇跡みたいなものか。本当はあのまま捕まえてしまいたかった。でも、春日井さんの意思に賭けたのだ。そんな風に思いながらも、後悔や不安が私を押し潰そうとする。
十数分歩くと、再び海が見えて来た。
あの日、二人で日が沈んでいくのを見た。その時二人で腰を下ろしたのと同じ場所に座る。穏やかな海を目の前にただじっと待った。
少し冷たく感じる海風が、私の髪を揺らして顔にかかる。太陽が少しずつ位置を変えて、空の色も変化させていく。膝を立て顔を突っ伏した。目を閉じれば、先ほど見た春日井さんの顔が浮かぶ。驚いたような表情、そして、次の瞬間には私から顔を逸らした横顔。会えて嬉しいのは私だけなのかもしれない。でも、ここが本当の別れの場になったとしてもどうしても春日井さんに伝えたい。もう、今となってはそれだけが私を支えていた。吹き付ける風が頬と肩を冷やしていく。思わず震えた肩を自分の両腕で抱きしめる。太陽が少しずつ海に隠れて行く。あの日見たのと同じ、綺麗な夕焼けが目に沁みて、本当に涙が出てしまいそうだ。その時、海から吹く風に乗って来たかのように、声が耳に届いた。
「――こんなところでいつまでも待っていたら、風邪をひくよ」
勢いよくその声の方に顔を向ける。そこには、泣いているわけでもないのに泣いているような表情をした春日井さんが立っていた。
「春日井さん……っ」
すぐに立ち上がる。春日井さんは来てくれた。
私たちの間には、やっぱり距離がある。その距離が私たちの現在の距離なのだと思えて怯んでしまいそうになる。でも、こうして会えた。この二年の想いを全部伝えたい。
「来てくれて、ありがとうございます」
風に揺れるスカートをぎゅっと握りしめながら声を上げる。それ以上近付いて来ようとしない春日井さんに聞こえるように。
「……どうして僕を探したりした? 新しい道を歩いてほしいって言ったはずだ。二年前、僕が隠していたことも全部君に話した。君はもう僕と関わってはいけないんだよ」
「そのことを謝りたかった。春日井さんのことを図書館に密告したのは樹だと聞きました。私のせいで、あなたの人生を変えてしまった。謝って済むことじゃないことは分かっています。でも、本当にごめんなさい」
勢いよく頭を下げる。
「そんなことのために、二年も僕を探していたのか? 君は何も悪くないし僕たちはもう無関係だ。君に責任を感じてほしいなんて思ってない。そんなこと望んでいない――」
「違うんです!」
どうしたら分かってもらえるのか。自分の言葉の無力さに挫けそうになるけれど、言葉を尽くさなければと春日井さんを真っ直ぐに見た。
「春日井さんを探していたのは、謝りたいからだけじゃない。どうしても伝えたいことがあったから」
私を見ても、もう以前のようには笑ってくれない。ただその表情を険しくするだけだ。でも、私の気持ちが百パーセント伝わるように春日井さんに向き合う。
「ずっと、春日井さんに言いたかったことがありました。言えないままに別れてしまったから、こうして伝えられる日を待ってた」
一瞬息を止め、心を決める。
「私は、春日井さんのことが好きなんです。春日井さんが家を出て行った時には、もう既にあなたのことが好きでした」
波の音が私たちの間を抜けて行く。春日井さんは言葉を失ったまま、私を見ていた。
「……君は、一体、何を言ってる?」
ようやく吐き出された言葉は、今にもどこかに吹き飛ばされそうな小さなものだった。
「春日井さんのことが好きです。だから、一緒にいたい」
一番言いたかったことだ。それでも春日井さんは、私から顔を逸らし頭を横に振る。
「君は……僕の抱える事情を知って、気の毒に思ったんだ。ずっと一人で生きて来た僕を一人にしたくないって思った。君は優しいから。図書館に密告されて僕が職を失ったことにも責任を感じて心を痛めた。だからそんなことを言うんだろう。でも、君は何も分かっていない!」
取り乱したように捲し立てる春日井さんを見れば、胸がひりひりとして痛い。たまらなくなって身体が勝手に動いていた。
「春日井さんはそう言うだろうと思いました。だから、私の気持ちを春日井さんに納得させるためには時間が必要なんだと思った」
私たちの間に横たわっていた距離を飛び越えて、春日井さんのすぐそばに駆け寄る。
「二年です。勢いや衝動なんかじゃない。春日井さんと離れてからずっと考えて来ました。春日井さんが言ったことがどういうことなのか。でも、どれだけ考えても春日井さんを好きだと想う気持ちは消えなかった。それどころか、あなたに会いたいという気持ちは膨らんでいくばかりだった。会いたくて、夢にばかり見た」
こうして言葉にすれば、この二年焦がれ続けて来た気持ちが溢れ出して来る。
「同情や罪悪感でこんなに胸が苦しくなったりしない。そんな立派な気持ちじゃないの。ただ春日井さんに会いたくて、一緒にいたくて」
一緒に暮らしていた時みたいに、小さな庭を見ながら他愛もない話をして。そんな日々を送れたら。そんな単純で、切実な想いでしかない。
「もっと時間が経っていたら、私の気持ちを信じてくれましたか? でももう耐えられなかったの。あなたに会いたくて会いたくて!」
私を決して見てくれない春日井さんの横顔を必死に見つめる。
「この二年、私は変わりました。以前よりもいろんな人と関わり、話をして、笑い合ったりした。そういうこと、自然に出来るように なりました。春日井さんが背中を押してくれたからです。私は、この二年孤独じゃなかった」
もう以前の私じゃない。孤独や寂しさを埋めるために春日井さんを求めていたわけじゃない。こんなにも純粋に、誰かを想ったのは初めてのことだ。
「誰といてもどこにいても、あなたに会いたい気持ちが常に心の真ん中にあるんです。だから、忘れてくれと言われても無理なの。この気持ちはどうすることもできない――」
「僕は……っ」
春日井さんが、私の言葉を振り切るように背を向けた。
「ずっと想っている人がいる。そう言っただろう? 他に誰も好きになることはない。だから、ごめん――」
私に背を向け、そのまま立ち去ろうとする。
「その人のこと――」
その明らかに震えている背中に声を放った。
「今でも変わらず想っていますか?」
離れて行こうとしていたその背中が止まる。
「……ああ。この先もずっと、この気持ちが変わることはない」
その声も震えていた。そこにある背中は、いろんなものを抱えて、それでも必死に歩いて来た背中だ。
「だったら、なおさら私は諦めるわけにはいきません……っ」
張りつめて傷だらけで、そしてとっても優しい背中。誰かのためなら、自分の感情なんてすぐに投げ出して立ち去ろうとするその背中に手を伸ばしていた。後ろからぎゅっと春日井さんの腕を掴む。頬で触れた背中から本の匂いがした。
「糸原さん、離して――」
春日井さんの身体が強張る。それを感じて、より手のひらに力を込める。もうどこにも行かせたくない。
「――私、読んだんです。春日井さんが書いた手紙、読んでしまいました」
「……手紙?」
「あなたがあの家を出て行くときに書いて破り捨てた手紙です。璃子さんが見つけて、私にくれたんです」
春日井さんの呼吸が一瞬止まるのに気付く。次の瞬間、春日井さんが崩れ落ちるようにその場でしゃがみ込んだ。手のひらで顔を覆い、肩を震わせながら口を開いた。
「僕はどれだけ間抜けなんだ。君の幸せを願いながら、僕は結局、君を縛り付けたのか――」
「勝手に読んでごめんなさい。でも、私は春日井さんの手紙を読んで、あなたの気持ちを知ることができて、本当に良かった」
その弱り切った背中を抱きしめる。足もとに感じる砂をぐっと踏み込んだ。
「春日井さんは私に言ってくれましたね。幸せになってほしいって。だから、私にとっての幸せはなんだろうって考えました。答えは簡単でした。春日井さんのそばにいること、あなたを幸せにすること――」
冷たさを感じた春日井さんの背中が温かくなって行く。だから、力いっぱい抱きしめた。
「それが私の幸せです。だから私の幸せを叶えてください。それとも、私ではあなたを幸せに出来ませんか?」
私の身体に触れる背中が軋む。それと同時に、胸が締め付けられるような声が間近で聞こえた。
「君って人は……」
こちらに身体を向ける。
やっと、私の目を見てくれた――。
すぐ間近にある春日井さんは、哀しそうで苦しそうな笑みを作っていた。目の前にあるその歪んだ笑みに感情が決壊して、それが涙となって言葉となって押し出される。
「好きなの。あなたが好き」
波の音にも吹き付ける風に負けないように、溢れる感情を春日井さんに真っ直ぐに向けた。
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