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《その後》二人で見た海であなたを待つ
君との未来 2
しおりを挟むようやく夜の十時を時計の針が指した。会社勤めをしている未雨さんは、帰る時間が一定ではない。この時間ならと、毎日十時に電話をかけるようにしているのだ。
「もしもし、春日井です」
2コールほどで、その電話が繋がった。
(――こちらも、春日井です)
そう言って、未雨さんが笑う。
「なに、それ」
いつもと返ってくる言葉が違って、僕は慌てた。
(だって、本当のことです。私も春日井だもの)
その声も、笑う声も、僕の胸を素手で触れたみたいに直接響く。
「そうだったね……」
未雨さんが、僕と形だけの結婚を解消してもなお、名字を「春日井」のままにしていること。彼女の気持ちがどれほど大きなものか、分かっていた。分かっていたつもりでも、本当の意味で向き合っていなかった。
(そうですよ)
「……だったら」
(なんですか?)
僕も、たまには未雨さんを困らせよう。
「君も”春日井”なのに、僕を春日井と呼び続けるのはどうなの?」
(そ、それは……)
自分のことは、まるで意識がなかったということか。
「君がそう言ったんだよ? そろそろ君も、僕の呼び方を考えて」
(……はい)
「やけに素直だね」
素直な返事に、つい笑ってしまう。
(だって、同じことを春日井さんに言っておいて、出来ないとは言えません)
「”春日井さん”は、もうダメだよ」
(分かってます!)
彼女の少し荒げた声さえ可愛く思える。
(あの……今週は、私がそっちに行ってもいいですか?)
その声のトーンが変わった。
(送ってくれた写真を見たら、行きたくなりました)
「もちろんいいよ。いつ、来られる?」
(今週の金曜日は同僚の送別会があるので、土曜日に行きます)
――送別会。
電話で聞いた男の声――田中という男もその席にはいるのだろう――。
(……春日井さん?)
「ああ、うん。いいよ。土曜日だね。待ってる」
(早く、会いたいな)
余計なことを考える必要はない。彼女も僕と、同じ気持ちでいてくれている。
「うん、僕も、君に早く会いたい」
あと数日もすれば、彼女の笑顔に会える。
週の半ば、仕事を終え帰ろうとしていた時だった。
「春日井さん、ちょっと飲みに行かないか。付き合えよ」
「いや、でも――」
「まだ早い時間だ。いいだろ? つべこべ言わずに、ほら、行くぞ」
気付けばもう、北川さんは勝手に前を歩き出している。仕方なくその後に続いた。北川さんは、僕の一番近い上司という立場の人だ。ここの正職員でもある。
ここでも変わらず僕は、人とは必要以上の関係を築くことはしていない。でもなぜかこの人は、構わず人の懐に入り込んでくるところがある。断っているつもりなのに、何故か、こちらの意に反して応じている形になる――そんな人だった。こんな風に連れ出されるのは、これが三度めだ。
図書館から最寄りの駅に向かう途中にある、昔ながらの居酒屋に入る。中年の店主とその奥さん、一人のバイトで営んでいる、こじんまりとした店だ。メニューも特徴のないいたってオーソドックスなもので、古い店内には、いつもテレビ番組が流れていた。
「とりあえず、お疲れ」
瓶ビールと焼き鳥を頼み、ジョッキを合わせる。
「だんだん、朝方が寒くなって来たよな……」
そんなことを言う北川さんに、この誘いが特に用件があってのことではないのだと知る。こうして誰かと個人的な時間を過ごすのは、僕にとっては気がすすまないものだったが、この日だけは、自分の中の気持ちが少し違っていた。ちょうど良かったとさえ思う。
「――あの」
「ん?」
自分から、話を切り出す。
「この先、うちの図書館で、正職員採用の予定はありますか?」
「正職員、か?」
一人で生きて行くなら、仕事の形態がどうであろうと関係なかった。むしろ、何か起きた時にすぐに辞められる、身軽さを求めてもいた。二年前のように――正社員の立場で突然やめるような、職場に迷惑をかけることはもうしたくないと思っていた。でも、今の僕には、未雨さんがいる。
「はい。もし募集があるなら、応募したいと思いまして」
「なんだ、なんだ? 女でも出来たか?」
「……は?」
ニヤニヤとした北川さんの表情に、思わず身を引く。
「最近、変わったもんなぁ、おまえ」
誰かにも似たようなことを言われた記憶がある。
そんなに、顔や態度に出ているのか――?
北川さんが、頬杖をつきながらジョッキを持ち口に運ぶ。
「ここで働き始めた頃はさ、何て言うか、能面みたいな顔で一日ただ黙々と仕事して、時間が来たら淡々と帰って行く……みたいな? 笑った顔、見たことなかったしな。とても二十代の男とは思えなかった。それがだ」
そう言うと、僕を指差した。
「ここ一ヶ月くらいか? 顔つきが全然違うだろ。別に、口数が増えたってわけじゃない。でも、雰囲気が柔らかくなったな。それに、仕事を終えたら、機敏な動きで帰って行く。あ、あと、こんな目撃情報も俺のところに入ってるぞ。『春日井さんが、スマホを見ながらニヤニヤしてる』って」
「ぶ――っ」
最初の一杯だけ付き合いで飲むビールを、危うく吹き出しそうになった。
「それで、女じゃなかったら、何だって言うんだよ」
僕が咽ているのにもまったく構わず、北川さんは喋り続けている。
一体、誰がそんなことをこの人に吹き込んだんだ――。
口元を拭い、ジョッキをテーブルに置いた。
「いいなあ、俺も、彼女欲しいなぁ」
本心なのかそうじゃないのか分かりかねる言い方に、僕は溜息を吐く。
「――僕は、いるともいないとも言っていませんけど」
「まあ、いいよ。どうせ、『はい、最近彼女が出来ました!』なんて笑顔で言うタイプでもないだろうからな。とにかく――」
聞いておいて、答えはいらないらしい。
「正職員募集の話は特に聞いてないけど、そんな話があったらすぐに知らせるよ」
「よろしくお願いします」
「もしかして、春日井さんの彼女って――」
頭を下げた僕に、北川さんが顔を近付けて声を潜める。
まだ、その話題を引っ張るのか――?
僕はつい、表情を険しくしてしまう。
「清水さん、じゃないよな……?」
「は――はぁ?」
「大きな声を出すな」
思わず上げてしまった声を慌てて噤むが、その、何をどうしたらそんなことになるのかまったく意味の分からない言葉を、すぐさま否定する。
「違いますよ。どうして、そんな話になるんですか」
「そうなの? だって、彼女もかなり無口だし無愛想だけど、春日井さんの話題になると妙に真剣に聞いてるし。日頃、ほとんど自分から喋らないくせに、ここ最近、よくおまえのこと俺に聞いて来るよ」
「……え?」
「いつから働き出したのか、とか、ここが地元なのか、とか」
何故、そんなことを――。
「だから、俺はてっきり……。でも、まあ、違うならそれはそれでいいか。あんな小さな図書館でいろいろあってもやり辛いだけだしな」
一人納得して、北川さんが残りのビールを飲み干していた。
何か僕のことを、清水さんに感づかれたのか? いや、でも、どうやって――?
身体が強張る。この感覚、いつになっても慣れない。
大丈夫だ。そんな素振りはない。大丈夫。
彼女の振る舞いを見ても、言動を見ても、僕の過去にある事件を知っているようには見えない。固くなる身体を、無意識のうちにさする。
「じゃあ、今度、彼女紹介しろよ」
「嫌です」
「やっぱり、いるんだ」
「――」
苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう僕を見て、北川さんが爆笑する。
「嫌なら、代わりに誰か女の子紹介して。ホント、そろそろ彼女がほしい。結婚を真剣に考える年頃なんだよ」
「北川さんに結婚願望があろうがなかろうが僕には関係ありませんよ。それに、僕にそんな知り合いはいません」
「ちなみに、俺のタイプは――」
人の話を聞いているのいないのか、勝手に話し出す。
「物静かな感じの……そうだな、涼し気げな目元の綺麗系の女が好きだ。でも、笑うとカワイイ、みたいな?」
それ、まるで――。
すぐに浮かんだ顔を吹き消す。
「そんな人、いませんよ」
「何を、怖い顔してるんだよ」
絶対に、何があっても会わせない。
もう、図書館に来させられないな――。
そう思うと、目の前の人に無性に腹が立つ。
「春日井さん。入荷したばかりの本の登録の方法なんですけど」
北川さんの話を聞いてから、清水さんに声を掛けられると身構えてしまう自分がいる。
「あ、ああ、これは……」
茶色い髪を一つに結び、僕を見上げて来る。僕はあまり背が高い方ではないけれど、彼女の背が低いのでこうして見上げて来る形になる。ついその目の奥にある思惑を探ろうとして、視線を逸らした。そして、パソコンの前に座る。
「ここ開いてから、打ち込んで」
キーボードをたたきながら、手短に説明を済ませた。
「――分かりました。ありがとうございます」
座る僕のすぐ横に立つ清水さんが、抑揚のない声でそう言った。
「じゃあ、よろしく」
これまでも今も、なるべく人の目に付かないように、目立たぬよう余計なことを言わぬよう、そうやって生きている。元々の地味な容姿のおかげもあって、誰かに関心をもたれたこともない。関心を持たれた時は、たいていがあの噂が広まる時。そして、その時が、その場所を去る時になる。もう、そんな風に去るようなことはしたくないと、これまで以上に強く願う。
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