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第一章 衝動的で切実な提案
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しおりを挟む疲れた顔をして目を閉じている伊藤さんを、ずっと見ていた。
結局、ソファに運んで寝かせた。
夜が明けて、伊藤さんが正気に戻って、私を見て迷惑そうな顔をしたとしてもそれでもいい。
仰向けに眠る前髪が流れて、綺麗な額が露わになる。上がるでもなく下がるでもないまっすぐな眉と二重瞼が、伊藤さんの優し気な雰囲気を作る。そんな柔らかな雰囲気にいつも胸をときめかせて来た。
伊藤さんは、その優しい微笑みの裏で激しい恋をしていた。
”ただそばにいて守りたい”
ある意味、一番純粋で強い愛情なのかもしれない。
――父が外で作った子供が僕だ。僕の本当の母親が病気で死んで、後から伊藤の家に入った。もちろん継母は、父の愛人の子だった僕を良くは思っていない。それは姉も同じはずなのに、孤独な家でいつも僕を励まし支えてくれた。孤独から救ってくれた恩人みたいな人だーー
お姉さんと伊藤さんの間にある愛情は、きっと普通のものとは違う。そんな特別な感情を簡単に捨てられるわけがない。
だんだんと明るくなる空が、広いリビングを照らし始めていた。
「……っ」
結局一睡も出来ないままでソファの近くにいると、伊藤さんから呻き声のようなものが聞こえて来た。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
こめかみを押さえながら、伊藤さんが身体を起こした。
「水、持って来ましょうか?」
「ごめん。迷惑をかけたよね」
やっぱり、気まずそうな顔をさせてしまった。
「この部屋に泊まらせて。どう謝ったらいいか――」
「いいんです。私が勝手にしたことなので」
伊藤さんは、ソファに座り姿勢を正すと私に向き合った。
「途中までしか覚えていないけど、君に変な話を聞かせてしまったと思う。正気でいられなくなるほど飲むなんて、どうかしてた」
おそらく、酔った勢いで私に話してしまったことを後悔しているはずだ。人に話すにはあまりに重過ぎる。
「……お見合い。もう、時間はないんですか?」
ここで、気にしてませんなんて言ったところで、伊藤さんの心は決して楽になんてならないだろう。事実、私は聞いてしまった。
「ああ。それで追い詰められて、酒に逃げるなんてろくでもないだろ」
「本当にお見合いするしかないんですか? そんなこと、本当に出来るんですか? お姉さんは哀しみませんか?」
私は関係ない部外者だ。踏み込むべきじゃない――そう思うけれど、心が急いて仕方ない。居ても立ってもいられない。
「僕には交際相手はいないことになっている。縁談を勧められて断るのは不自然だ。何より、疑われているこの状況で僕が縁談を断れば、認めるようなもの……って、ごめん。君には関係ないのに悩ませてしまって。忘れてくれ。家まで送って行くよ――」
「それなら、私と結婚するというのはどうですか?」
この瞬間に思い付いた。咄嗟に浮かんだことだけれど、それが私にとって一番の願いだという確信だけはあった。
「伊藤さんは秘密を私に言ってしまって、いくら私が黙っていると言ってもこれからずっと不安を抱えるはずです。でも、私と結婚したら、そんな不安はなくなります。まさか、自分の夫のそんな話、人に言うわけないですから」
伊藤さんに否定させたくなくて、間髪入れずに続ける。
「私と結婚すれば、この先ずっと縁談の心配をしなくて済みますよ。私との結婚をカムフラージュにして、これからもお姉さんのそばにいられます」
「……君も、冗談言うんだね」
その涼しげな瞳を少し伏せながら、伊藤さんが笑う。
「冗談じゃないです。思いつきにしては良い提案だって思います」
「思いつきで言うようなことじゃない」
「でも、お互いにとってベターな選択じゃないですか?」
衝動から口走った言葉を、無かったことにするどころか本物にしようと必死になる。
どんな理由でも、馬鹿げたことでも、彼の近くにいられるなら構わない。こんなチャンスもう二度と訪れない。
ただそばにいられるなら――。
その一心だった。
「本気……?」
「本気です」
「そんなことして、君に何のメリットがある?」
「メリットならあります!」
これから私は、人生をかけた嘘をつく。伊藤さんを助けるために。そして何より、伊藤さんのそばにいられるために。
「私も、人に言えない恋をしています。相手は女性なんです……っ!」
「え?」
少しでも躊躇ったら怖気付く。私は喋りまくった。
「男の人を好きになれません。誰にもこんなこと言えませんでした。だから、伊藤さんの話を聞いても気持ち悪いなんて思いません。私もどうせ結婚できない。伊藤さんと形だけの結婚ができたら、この先の人生、生きやすい。親に『結婚はまだ?』なんて言われなくて済みますから。伊藤さんも他に好きな人がいるから、私は自由です。ほら、私にもメリットしかありません!」
一息にそう言った。私の人生で、こんなにも捲し立てたことはない。伊藤さんが顔色をなくし呆然としている。
「……君の相手は? 君が誰かと暮らすのは嫌だろ?」
私の勢いに押されながらも、伊藤さんが私に聞いた。
「恥ずかしながら、私の片想いです。相手はノーマルな人なので、この先も想いを告げるつもりはありません。友情を壊せませんから。あの子です。昨日、一緒にいた」
ごめん、美久ーー。
心の中で詫びる。
「あ、ああ……」
「ですから、お姉さんにも伝えてください。私は男の人がダメな人間ですから、何の心配もする必要ないって。私のような冴えない女だって女は女ですから、お姉さんだっていい気はしないはず。だから私のこと、全部話していいです」
肩で息をして、懸命に呼吸する。
「……君がこんなに喋るのを初めて見たよ」
「はい。私にとって、こんなチャンスはないですから。必死です」
伊藤さんが、私の目を探るように見つめて来る。絶対に逸らさないように、必死に見返した。
「だから、考えてみてください」
衝動からでも。どんな理由であろうとも。決して私のものにはなってくれなくても。伊藤さんの傍にいられるのなら、私はこの道を選ぶ。
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