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第四章 忍び寄る苦しみ

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「柚季……」

こちらに視線を向けた和樹さんの声で、ようやくこのポンコツの脳が動く。

「ご、ごめんなさい! 失礼しました……っ!」

かろうじて声を発することができた。

「待って――」

激しく打ちつける心臓を抱えて、勢いよくドアを閉める。

 こういう時、大人としてどんな対処をすべきかなんて私にわかる筈もない。分かっていたところで、冷静に動けるわけない。
 ただ、目的もなく走った。この目に焼きついた光景も、苛立つほどの動揺も。走ることで全部掻き消したい。ボタンを叩くように押し、開いたエレベーターに飛び乗る。

「――柚季、待って!」
「え……っ?」

閉じて行くドアをこじ開けるように、和樹さんが乗り込んで来た。それと同時に扉が閉まる。少し息を乱して片方の手のひらを壁について立つ和樹さんを、唖然として見た。

「ごめん、柚季」

いきなり頭を下げる和樹さんに慌てる。

「私の方こそ、ホントにごめんなさい――」
「君は何も悪くないだろ? 君を追い出すようなことをしたのは僕だ」
「追い出すなんて、そんな……」

地上へと落ちて行く箱の中で向い合う。

「私が、あ、あれくらいのことで、動揺して飛び出しちゃったのが悪いんですよ。お恥ずかしい話なんですけど、こんな歳になるまで、恋愛経験値ゼロで免疫ないんですよ。びっくりして大人の対応が出来なかっただけで、余計に気を使わせてしまって」

飛び出してしまった自分の心を悟られないように、和樹さんに負い目を感じさせないように、無理矢理喋り倒した。

「あの家は、和樹さんの家なんですから。謝る必要なんてないです」
「君の家でもあるだろ?」

和樹さんの眼差しが私に向けられる。

「違うのか?」

何も言葉を発せられない私に、どこか責めるような視線が注がれてより何も言えなくなった。

「……とにかく、ごめん」

和樹さんがふっと息を吐き、いつもの優しい目に戻る。

「外は寒い。病み上がりの柚季をこの冬空の下歩き回らせられない。すぐに戻ろう」
「でも……っ」
「『でも』も『だって』もないよ。ここは、形式上でも夫の頼みを聞いて欲しい」
 
何故かその笑みが歪んで見えた。

「あの、でも、お姉さんは――」
「僕がこれから家に送り届けるから、君は何も気にする必要はない」

それでも諭すような目に私は頷くしかなかった。

 足取り重く部屋へと戻ると、神妙な顔をしたお姉さんが立っていた。

「本当にごめんなさいね。私ったら、何の配慮もなく……」
「い、いえ。私の方こそ、ごめんなさい」

何と答えるべきか言葉が見つからず、結局謝ることしか出来なかった。

「珍しく和樹の帰宅が早いと聞いて。何も考えずに来てしまったの。今度から気をつけます。柚季さんのご迷惑もちゃんと考えなきゃね」
「迷惑なんかじゃないです!」

お姉さんは和樹さんの大切な人だ。明らかに邪魔したのは私だ。その綺麗な声に、何か別の感情がこもっているような気がして、咄嗟に否定した。

「……じゃあ、お大事にね。失礼します」

たおやかに頭を下げると、私の横を通り過ぎる。お姉さんから香る甘い匂いに、胸が詰まった。

「柚季、ゆっくり休んでおくんだよ」
「はい」

二人の背中が、この部屋から出て行った。一人になった途端に、身体から力が抜ける。

 足を引きずるようにしてキッチンに向かうと、買い物袋がそのままシンクの上に放置されていた。そのビニール袋の中から、生鮮食料品が見える。

和樹さん、冷蔵庫に入れようとしていたのかな――。

このままにしておくと痛んでしまう。迷った後、それを冷蔵庫にしまうことにした。

これ……って。

食材を一つ一つ入れていて、その手が止まる。茶碗蒸しにスポーツドリンク。うどんの生麺に、たくさんの野菜や、豚肉もある。一緒に暮らして来て、和樹さんが調理を必要とする食材を買っているのを見たことがない。和樹さんは、朝食以外この家で食事をしないからだ。

 昨日のうどんを思い出す。

もしかして、今日も私に作ってくれようとしていた……?
だから、いつもより帰宅が早かった。そして、そこにお姉さんが訪ねて来た――。

でも、それは私の妄想でしかない。いつから、そんな自分に都合の良い妄想をするようになったのか。どんどん自分が変わって行くようで怖い。さっき見た二人が重なる光景が脳内にこびりつく。
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