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第十二章 報い
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しおりを挟むタクシーに乗り込み家へと戻る。余計なことを考えないようにと、必死に自分に言い聞かせた。
淡々と義務を果たすように、和樹さんの衣類や洗面道具を準備する。
翌日もその翌日も、和樹さんのそばにはお姉さんがいた。
それからすぐ、ICUを出て一般病棟へと移る日がやって来た。頭に怪我はしたが、幸いにも脳に損傷はなかったようだ。あとは骨折と、内臓の損傷。その治療が続くと聞いている。
一般病棟では必要になるものも増える。それらを準備して病室に向かった。
「あ、柚季さん……」
和樹さんの個室から、お母様が一人で出て来た。
「和樹さんの必要なもの、持って来たんですが」
「一般病棟に移ってから、理桜が和樹さんから離れようとしないの。二人だけにしてほしいって喚き立てて。いくら個室だからって、もう困り果ててる」
心底困ったように、ため息を吐いていた。
「でもね、あの子の精神状態、今、普通じゃないらしいのよ。なるべく本人の気の済むようにと、お医者様から言われてるの。だから、ごめんなさいね」
つまり、このまま帰ってほしいということ。お姉さんを刺激したくないのだ。その表情は、どこか葛藤しているようで。お母様は和樹さんのことをあまり良く思っていないというのは聞いている。本当なら、こんなことをさせたくないのだろうけれど、お姉さんの心のほうが大事だという判断だ。
「……分かりました。じゃあ、この荷物、お預けします」
胸の奥の痛みを隠し、バッグを渡した。
「和樹さん、まだ話すのもままならないみたいで、ほとんど眠っている状態なの。でも、もう少し状態が安定したら理桜も安心できると思うから、それまで待っていてもらえるかしら」
「はい」
一歩、後ろへと下がる。その時、病室の扉のスリットガラスから、ベッドが見えた。和樹さんの眠るベッドに理桜さんが寄り添い、突っ伏していた。その光景から、そっと視線を逸らす。
和樹さんに会いたい。一言でいい。言葉を交わしたい――。
その感情全部を押しとどめる。和樹さんが無事だった。それだけで十分だ。
最寄り駅まで来てパスケースをバッグから出す時、一枚の白黒写真が落ちた。拾いあげると、それは事故の日に健診でもらった超音波写真だった。
これまで、全然泣けなかったのに、不意に涙が込み上げる。人ごみの中で、慌てて目を擦った。
――お姉さんの精神状態が普通ではない。
そうなってしまうのも、容易に理解できた。
信頼していた人間が、自分の好きな人との子を妊娠していた。そして、好きな人を奪いそのまま逃げて。挙句の果てに幸せに生きている。
そんな事実を知って、見て。恨みを募らせて、お姉さんは私を車道に突き飛ばそうとした。
突き飛ばそうとしている時点で、既にまともな精神状態ではなかったはずだ。
それだけでなく、自分の行動が、誰より大切な和樹さんの命を奪うことになるかもしれなかった。正常でいられるはずがない。
今、お姉さんにとって一番心の負担になることは、私に会うこと。それを知るのは、おそらく私だけ。
私に死んでほしいと思った――。
私に対して、それだけの憎悪を募らせた。
恐ろしいほどの恐怖が襲って来る。病院には行けても、どうしてもその扉を開けることが出来なかった。
温かくて明るい。和樹さんがいて、心落ち着くはずの場所だった二人の部屋で、一人になった。
違う、一人じゃない――。
私のお腹には、大切な存在がいる。私と和樹さんとの、大切な大切なこどもだ。今、私しか、守れる人間はいない。私がしっかりしなければ、この子に示しがつかない。
ごめんね。ちゃんと生活するから――。
この先、和樹さんとの未来がどうなるにしても、私にはこの子がいる。
和樹さんと過ごして来たこの部屋で、弱くて押し潰されてしまいそうな自分を奮い立たせる。
和樹さんの治療は順調に進んでいるようだった。
主治医の説明には、ご両親とお姉さんが対応している。妻の最低限の勤めとして、着替えなんかを持って来ていたけれど、今ではすべてお姉さんが用意しているのだとお母様から聞いた。だから、もう私が来る必要もなくなっていた。
それから少しして、和樹さんが言葉を交わせるまでに回復した。
「和樹、本当に良かった」
「心配したんだぞ」
お姉さんが涙ながらに和樹さんの手を握り、その隣でお父様が心から安堵したように大きく息を吐いていた。
「……死なずに済んで、良かった」
和樹さんが、途切れ途切れに、でもしっかりした声でそう言った。
これまで、ほとんど病室に入ったことはなかった。和樹さんの体に繋がれていた管もかなり減り、安心できる状況になって、ようやく部屋に入るように言われたのだ。
本当は、お姉さんと同じ空間にいることも怖かったけれど、さすがに妻としてそこにいないのはおかしい。せめて、お姉さんの視界に入らないようにと、ご家族から一歩下がったところで立っていた。
久しぶりに和樹さんの姿を見て、そして、声を聞いて。心からホッとする。近づけなくても、それだけで十分だ。
「……柚季。柚季は?」
和樹さんの視線が部屋を彷徨うように動く。
「は、はい、ここにいます。和樹さん、順調に回復して良かったです……」
この声が強張る。
「柚季、僕は――」
和樹さんが再び口を開くいたと同時に、お姉さんが私に振り向いた。
「――あ、飲み物でも買って来ますね。気が利かなくてすみません」
お姉さんの視線から逃げるように部屋を出る。
どうしても、お姉さんと向かい合うことができない。激しく鼓動する胸を押さえ、患者の家族のための休憩室に向かった。その通り道にある給湯室から、不意に声が聞こえて来る。
「――隣の病室の伊藤さんなんだけど」
和樹さんのことだろうか。
「あのご家族、ちょっと不思議なの」
「何が?」
「奥様はほとんど病室にいなくて、お姉さんがつきっきりでそばにいるみたい」
思わず立ち止まってしまう。
「なんで? 確か、事故に遭われたって話だったよね? 夫婦仲、冷めきってるのかな」
「そうなのかも。お姉さんがまた、とんでもない美人で見惚れちゃったわよ」
そんな話、なんでもないことだ。こんな状況なのだから、他人からそう見えても何ら不思議はない。止めてしまった足を前に進める。
自販機の前で三本のお茶を買い、そのままベンチに座る。腹部が急に固くなった。お腹の張りだ。最近、よくあることだった。
この子が教えてくれているのかもしれない。ちゃんと自分の心と身体を気遣えと。
私は、自分だけのものではないこの身体をちゃんと守らなきゃ――。
少し休んだあと病室に戻り飲み物を置くと、すぐに病室を出た。
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