537 / 893
日常
第五百七話 カツオのたたき
しおりを挟む
朝課外も終わり、朝のホームルームがちょっと早めに始まった。
「職場体験についてなんですが、行き先が決まりました」
先生のその言葉に教室がざわつく。他の教室もなんだか騒がしいあたり、同じようなことが告げられたのだろう。先生は声を荒らげるでもなく「はーい、静かにー」と言って、手元にある小さな紙の束をくねくねさせて開いた。
「それじゃ、出席番号順に前に来てください。行き先が書いてある紙を渡しまーす」
さて、俺はどこになったかな……
「はい、一条」
「うっす」
「頑張れよー」
教育系かあ、えーっと……
「う、えっ?」
予想外の行き先に思わず声が出る。パッと口に手を当て周囲を見渡すが、みんな自分のことでいっぱいいっぱいのようで、気にしていない。
そのことにほっとしつつ、席に着く。
いやいや、うーん……俺、ここ行って大丈夫かなあ。え、先生ほんとに? 誰かと間違ってない? というか、俺、希望に入れてましたか?
「よかったー、第一希望のとこになって」
ホームルームが終わり、中村が振り返って笑った。
「しかもまかないがうまいって評判のとこ。ラッキーだ」
「……そうか」
「一条は? どこになった?」
配られた紙に印刷された文字を三度確認し、間違いがないことを噛みしめて、答えた。
「……幼稚園」
七時間目は行き先ごとに集合して、顔合わせとか段取りとかの確認をする。誰だろうなあ、相手。三人で行くんだったよな、確か。
「えーっと、社会科室……」
お、まだ誰も集まってない。一番乗りだ。何人か集まった中に入るの、ちょっと緊張するんだよなあ。
暖房がついてすぐで、ひんやりした教室で待つ。一列に三人座れる長机の席の、壁際に座っておくことにする。
教室が暖まるにつれて人も増えてきた。といっても、一番人数の多い接客系のやつらと比べたら、片手で足りるくらいだ。接客系の次に多い、小学校、中学校に行く奴らはまた別に集まってるらしいからなあ。
「おー、春都ぉ」
「勇樹。お前もか」
どうやら一人は勇樹のようだ。勇樹は隣に座り、ぼやいた。
「俺なんで幼稚園になったんだろ。子ども苦手っつーか、どうやって相手すればいいか分かんねえし、そもそも希望に入れてねえしよぉ……」
いや、これはぼやきというより、嘆きに近いかもしれない。勇樹はきょろきょろとあたりを見回した。
「もう一人は?」
「まだ」
授業が始まる三分前になって、そいつは来た。ゆったりのんびりマイペースに、こちらの席にやってきたのは、咲良だ。制服のポケットに手を突っ込み、鼻歌なんぞ歌いながら、軽い足取りでやってくる。
「あれ? お前らなんだ、一緒に行くの」
「なんだ、お前か、咲良」
「うん。いやー、でも、お前らが幼稚園の先生ねえ……」
咲良はじろじろと、俺と勇樹を眺めると、笑って言い放った。
「似合わねぇ~!」
似合うと言われても複雑だが、なんか、腹立つな。
「お前もだろうが。人のこと言えねえだろ」
咲良はケラケラ笑いながら、通路側の席に座った。
「いやいや、俺はどこででも輝けるからな」
「その自信はいったいどこから……」
「でも意外だったなー、春都も咲良も。希望してたのか?」
勇樹に聞かれ、首を横に振る。
「いや、覚えがない。希望してない」
「実は俺もなんだよねぇ」
と、咲良がのんきに言う。
「何でだろ、希望してない三人が幼稚園に行かされるって」
「……あ、そういえば」
勇樹が手招きをする。三人近寄ったところで、勇樹は声を潜めて話し始めた。
「先輩がなんか話してたのを思い出したんだけど、職場体験先にも当たりはずれがあるらしくて」
「なんとなく分かるなぁ」
「それで?」
「教育系にもいくつかあって、ヤンチャなやつらが多いとか、問題児の集団とか。そういうとこには、文句言わなさそうなやつらを当ててるって。希望関係なしに。……まあ、噂だけど」
そういう噂って、たいてい、当たっていることが多い。つまり俺たちは、もしかすると、それに該当してしまったのかもしれないというわけか。
衝撃的ではあるがなんとなく納得のいくその話に何も言えないでいると、無情にも、授業開始の鐘が鳴ったのだった。
まあ、決まったもんは仕方がない。腹ぁ括って頑張らないとなあ。
そのためにも今のうちから、しっかり飯を食って元気を付けなければ。
「いただきます」
今日はカツオのたたきだ。これもまた俺の好物である。にんにくが一緒なのがいいが、食べ過ぎると大変なので、加減はしないと。
ポン酢をたっぷりとかけて、にんにくのうっすいひと切れのせて、食べる。
うんまいなあ。香ばしい表面に冷たい生の部分。かつお節のようでいて、刺し身のようでもある。魚の臭みはないが、うま味があって、おいしい。にんにくの風味がまた効いてる。サクサクした食感のにんにくと、もっちりしたような食感のカツオ、食感の相性もまたいいものである。
にんにくは口の中がひりつくような辛さでもある。のせ過ぎないように、うまいと思えるくらい、加減して食べないとな。
がっつり一口で食うのもいいが、細切れにして食うのもまたいい。ポン酢がよく染みる。にんにく付けなくても、カツオのたたきそのものの味がしっかり味わえてうまいんだなあ。
温かいご飯と合わせるとまたいい。にんにくのうま味が際立つようだ。
マヨネーズをつけると魚臭さがもっと消えるらしい。どれどれ……おっ、ほんとだ。魚っぽさがなくなって、なんか、こう……やわらかいかつお節食ってる感じになる。これはこれでまたうまい。
ポン酢とにんにく、これにまた戻る。うん、やっぱうまい。
「そういえば、職場体験先は決まったのか?」
父さんに聞かれ、ハッと思い出す。カツオのたたきがうまくて、すっかり忘れていた。
「決まった」
「どこになった?」
「幼稚園」
それを聞いて、母さんは笑った。
「幼稚園かぁ! え、でも希望してなかったよね?」
「うん、それがさ……」
今日聞いた話を伝えると、父さんも母さんもなんとなく納得したように、薄く笑って頷いた。
「そういうとこあるよねえ……この手の行事って」
「まあ……無理はしないようにな」
少しうなだれていると、母さんが穏やかに笑って言った。
「それじゃあ、元気の出るおいしいご飯を作らないとねぇ」
職場体験は少々……いや、かなり、気が重いが、俺は、その一言で頑張れる。
うまい飯がある。それだけで頑張れるんだ。
……うん、頑張ろう。
「ごちそうさまでした」
「職場体験についてなんですが、行き先が決まりました」
先生のその言葉に教室がざわつく。他の教室もなんだか騒がしいあたり、同じようなことが告げられたのだろう。先生は声を荒らげるでもなく「はーい、静かにー」と言って、手元にある小さな紙の束をくねくねさせて開いた。
「それじゃ、出席番号順に前に来てください。行き先が書いてある紙を渡しまーす」
さて、俺はどこになったかな……
「はい、一条」
「うっす」
「頑張れよー」
教育系かあ、えーっと……
「う、えっ?」
予想外の行き先に思わず声が出る。パッと口に手を当て周囲を見渡すが、みんな自分のことでいっぱいいっぱいのようで、気にしていない。
そのことにほっとしつつ、席に着く。
いやいや、うーん……俺、ここ行って大丈夫かなあ。え、先生ほんとに? 誰かと間違ってない? というか、俺、希望に入れてましたか?
「よかったー、第一希望のとこになって」
ホームルームが終わり、中村が振り返って笑った。
「しかもまかないがうまいって評判のとこ。ラッキーだ」
「……そうか」
「一条は? どこになった?」
配られた紙に印刷された文字を三度確認し、間違いがないことを噛みしめて、答えた。
「……幼稚園」
七時間目は行き先ごとに集合して、顔合わせとか段取りとかの確認をする。誰だろうなあ、相手。三人で行くんだったよな、確か。
「えーっと、社会科室……」
お、まだ誰も集まってない。一番乗りだ。何人か集まった中に入るの、ちょっと緊張するんだよなあ。
暖房がついてすぐで、ひんやりした教室で待つ。一列に三人座れる長机の席の、壁際に座っておくことにする。
教室が暖まるにつれて人も増えてきた。といっても、一番人数の多い接客系のやつらと比べたら、片手で足りるくらいだ。接客系の次に多い、小学校、中学校に行く奴らはまた別に集まってるらしいからなあ。
「おー、春都ぉ」
「勇樹。お前もか」
どうやら一人は勇樹のようだ。勇樹は隣に座り、ぼやいた。
「俺なんで幼稚園になったんだろ。子ども苦手っつーか、どうやって相手すればいいか分かんねえし、そもそも希望に入れてねえしよぉ……」
いや、これはぼやきというより、嘆きに近いかもしれない。勇樹はきょろきょろとあたりを見回した。
「もう一人は?」
「まだ」
授業が始まる三分前になって、そいつは来た。ゆったりのんびりマイペースに、こちらの席にやってきたのは、咲良だ。制服のポケットに手を突っ込み、鼻歌なんぞ歌いながら、軽い足取りでやってくる。
「あれ? お前らなんだ、一緒に行くの」
「なんだ、お前か、咲良」
「うん。いやー、でも、お前らが幼稚園の先生ねえ……」
咲良はじろじろと、俺と勇樹を眺めると、笑って言い放った。
「似合わねぇ~!」
似合うと言われても複雑だが、なんか、腹立つな。
「お前もだろうが。人のこと言えねえだろ」
咲良はケラケラ笑いながら、通路側の席に座った。
「いやいや、俺はどこででも輝けるからな」
「その自信はいったいどこから……」
「でも意外だったなー、春都も咲良も。希望してたのか?」
勇樹に聞かれ、首を横に振る。
「いや、覚えがない。希望してない」
「実は俺もなんだよねぇ」
と、咲良がのんきに言う。
「何でだろ、希望してない三人が幼稚園に行かされるって」
「……あ、そういえば」
勇樹が手招きをする。三人近寄ったところで、勇樹は声を潜めて話し始めた。
「先輩がなんか話してたのを思い出したんだけど、職場体験先にも当たりはずれがあるらしくて」
「なんとなく分かるなぁ」
「それで?」
「教育系にもいくつかあって、ヤンチャなやつらが多いとか、問題児の集団とか。そういうとこには、文句言わなさそうなやつらを当ててるって。希望関係なしに。……まあ、噂だけど」
そういう噂って、たいてい、当たっていることが多い。つまり俺たちは、もしかすると、それに該当してしまったのかもしれないというわけか。
衝撃的ではあるがなんとなく納得のいくその話に何も言えないでいると、無情にも、授業開始の鐘が鳴ったのだった。
まあ、決まったもんは仕方がない。腹ぁ括って頑張らないとなあ。
そのためにも今のうちから、しっかり飯を食って元気を付けなければ。
「いただきます」
今日はカツオのたたきだ。これもまた俺の好物である。にんにくが一緒なのがいいが、食べ過ぎると大変なので、加減はしないと。
ポン酢をたっぷりとかけて、にんにくのうっすいひと切れのせて、食べる。
うんまいなあ。香ばしい表面に冷たい生の部分。かつお節のようでいて、刺し身のようでもある。魚の臭みはないが、うま味があって、おいしい。にんにくの風味がまた効いてる。サクサクした食感のにんにくと、もっちりしたような食感のカツオ、食感の相性もまたいいものである。
にんにくは口の中がひりつくような辛さでもある。のせ過ぎないように、うまいと思えるくらい、加減して食べないとな。
がっつり一口で食うのもいいが、細切れにして食うのもまたいい。ポン酢がよく染みる。にんにく付けなくても、カツオのたたきそのものの味がしっかり味わえてうまいんだなあ。
温かいご飯と合わせるとまたいい。にんにくのうま味が際立つようだ。
マヨネーズをつけると魚臭さがもっと消えるらしい。どれどれ……おっ、ほんとだ。魚っぽさがなくなって、なんか、こう……やわらかいかつお節食ってる感じになる。これはこれでまたうまい。
ポン酢とにんにく、これにまた戻る。うん、やっぱうまい。
「そういえば、職場体験先は決まったのか?」
父さんに聞かれ、ハッと思い出す。カツオのたたきがうまくて、すっかり忘れていた。
「決まった」
「どこになった?」
「幼稚園」
それを聞いて、母さんは笑った。
「幼稚園かぁ! え、でも希望してなかったよね?」
「うん、それがさ……」
今日聞いた話を伝えると、父さんも母さんもなんとなく納得したように、薄く笑って頷いた。
「そういうとこあるよねえ……この手の行事って」
「まあ……無理はしないようにな」
少しうなだれていると、母さんが穏やかに笑って言った。
「それじゃあ、元気の出るおいしいご飯を作らないとねぇ」
職場体験は少々……いや、かなり、気が重いが、俺は、その一言で頑張れる。
うまい飯がある。それだけで頑張れるんだ。
……うん、頑張ろう。
「ごちそうさまでした」
23
あなたにおすすめの小説
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる