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第一章 最推し幸福化計画始動
9.黒狼は外面を取り繕えない(SIDEラスムス)
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「お手!」
甘いリンゴの香りのする姫、リヴシェの声には逆らえない。
嬉々として、ラスムスは右手を差し出した。
「おかわり!」
しゅたっと左手を差し出す。
「ちんちーん!」
前足を曲げて、後ろ足だけで立つ。
さすがにこれは、かなり恥ずかしい。
毎日一度はこうして芸をさせられる。
「お手」と「おかわり」までは良いが、この「ちんちん」だけは抵抗がある。
こんな芸、ノルデンフェルトでは見たことがない。ヴィシェフラドでは普通なのか。
それでも解毒の治療をしてもらった日から、ラスムスは姫の側を離れられないでいる。
一刻も離れたくないのだ。
「おまえ、本当に良い子になったわね。
来た時とは、大違い。
わたくしが何を言っても、つーんとそっぽむいてたのに」
ラスムスの頭を優しく撫でながら、彼女は柔らかく笑う。
心臓がもたない。
姫の優しい手、その指、そしてとどめの笑顔が、ラスムスの心臓をきゅうっと締め上げたから。
ここへ連れてこられた頃つーんとしていたというけれど、それは仕方ない。
なんの前触れもなく、いきなり現れた己が番つがいに平静でいられる狼がいれば見てみたい。
ラスムスは、動揺していたのだ。
気を抜けば姫に襲いかかりそうになる衝動を抑え、それなのに姫は今日のように優しくラスムスの身体を撫でて。
これは拷問かと、冷や汗を流しながら耐えたのだ。
褒めてもらってしかるべきだと、ラスムスは思う。
「いったいどこの子なのかしらね。
この辺りの家には、全部聞いて回ったんだけど、そんな犬知らないって」
当たり前だ。
第一、ラスムスは犬ではない。
どうしたらこの姿が、犬に見えるのだろう。姫に犬と認識されるのは、はなはだ不本意だった。
「おまえ、あんまり食べないんですってね。
ロイヤル〇ナンの缶詰でもあれば良いんだけど……。
鶏のもも肉を蒸したんだけど、これなら口に合うかな」
ロイヤルなんとかとは聞いたこともないが、ヴィシェフラドの犬用の食事か。
いや待て。
今、姫はなんと言った。
蒸した。
もしかしたら手ずからか?
王女が手ずからラスムスの食事を用意した?
くんと鼻先をつけてみると、他の人間の臭いはしない。
間違いない。
姫の手作りだ。
塩気のまるでない鶏を、こんなに美味だと感じたことはない。
まだ温かい鶏モモ肉を、ラスムスはぺろりとたいらげた。
「良かった。
たっくさん食べて、早く元気になるのよ」
嬉しそうな姫の声に、ラスムスは幸せな気分になる。
鶏を食べたくらいで姫が喜ぶのなら、お安いご用だ。
いくらでも食べてやる。
「王都へ戻れば、もう少しおいしいものを用意してあげられるんだけど……。
ごめんね。
今はちょっとマズいのよ。
隣の国から、ラスムスが来るんだって。
お父様、どうやらあの子をラスムスと婚約させたいみたい」
姫の濃い紫の瞳が、憂鬱そうな色に沈んでいる。
あの子とは例の愛妾の娘だろう。
婚約してほしくないのか。
ラスムスは都合の良い期待をしてしまう。
会ったこともない彼に、好意を寄せているはずもないのに。
「わたくしがいたら、何かと言いがかりをつけられそうで。
君子危うきに近寄らずね」
言いがかりをつけるような輩は、喉笛を食い破ってくれるから心配するなと言いたかった。
代わりに鼻先を姫の手に押しつけて、フンと鳴らす。
「あの子、顔はかわいいのよ。
だからラスムスも気に入るはずよ。
あー、いっそもうそのままノルデンフェルトへ連れて帰ってくれないかしら」
連れて帰るのなら、姫、おまえだと言いたい。
そこだけは人である時と同じ、薄い青の目で必死に訴えるが、当然姫には伝わらない。
「そうしたらわたくしはラーシュと結婚して、四方丸くおさまるんだけどね」
キン……。
心の凍る音を、ラスムスは聞いた。
結婚。
ラーシュと。
つまり姫には、婚約者がいるということか。
そしてその男を、姫は嫌ってはいないと。
ラーシュという名を、この城で聞いたことはない。
おそらくここには来ていないのだろう。
ノルデンフェルトから外交使節が来るとなれば、王族に近い貴族は皆王都に集まっているはずだ。
姫のようにわざわざ王都を離れるなど、よほどの事情がない限りありえない。
ヴィシェフラドの第一王女の婚約者に選ばれるほどの男だ。
間違いなく王族に近い高位の貴族だろう。
早いうちに潰しておかなければ。
王都に行くか。
姫の側を離れるのはつらいが、正式に妻として迎えるためだ。
ここは耐えねばなるまい。
翌朝、ラスムスは後ろ髪をひかれる思いを断ち切って、王都へ向かうノルデンフェルトの使節団に戻った。
「噂どおりだな。
ラスムス殿はお父君によく似ている」
ヴィシェフラド王宮の謁見の間。
玉座の国王は、人のよさそうなやわらかい微笑をラスムスに向けた。
「おそれいります」
膝をついて頭を垂れる。
「楽にされよ。
貴国とは友好国であり、父君と余は友人関係なのだから」
本気でそう思っているとすれば、かなりの阿呆だ。もしそうでなくば、かなりの役者だが。
ラスムスの父、ノルデンフェルトの皇帝は、隙あらばヴィシェフラドを併呑してしまおうと考えている。
女神ヴィシェフラドの血を継ぐ王族を抱きかかえれば、大陸全土に精神的支配が叶う。
そんな男を友人などと、片腹痛い。
「ありがたきお言葉。
父もさぞや喜びましょう」
許されて顔を上げれば、玉座の隣りすぐ傍に、妖艶だがどこか崩れた品のない女が立っている。
さらにその隣には、ラスムスの姫とほぼ同じ年頃の少女。
ふわふわとした金の髪に大きな緑の瞳をした、一般的に言えば美少女だ。
ふんと、内心でラスムスは鼻を鳴らす。
これこそ噂どおりだ。
ヴィシェフラドの国王は、愛妾を玉座近く、しかも壇上に侍らせている。
私的な謁見ではない、公式の場でだ。
「ラスムス皇子殿下は、本当にお噂どおり。
お美しくておいでですのね」
くっきり紅で染めた赤い唇が開いて、壇上の女がラスムスに話しかける。
会場に詰めた貴族達に、控えめな動揺が走った。
咎めないのか、国王は。
しばし国王の表情を観察がてら見ていると、さすがに気づいたらしい。
「控えなさい。
こちらはノルデンフェルトの皇族だ」
愛妾を、他国の皇族より高い位置に置くこと自体、すでにどうかしているのだが。
「これは余の親しい友人でな。
ジェリオ伯爵夫人という。
その隣は、ジェリオ伯爵令嬢の二コラだ。
ラスムス殿、あなたにぜひとも引き合わせたくてな。
ここへ呼んである」
必死だな。
顔を伏せて、ラスムスは苦笑を隠した。
愛妾と私生児を壇上に侍らせたことに、多少の後ろめたさはあると見える。
言い訳がましい言いようが、いっそ憐れだった。
だがこちらから、愛妾と私生児にへりくだる必要はない。
「さようでございますか」
さらりと受け流して、彼女らに声はかけない。
「王妃殿下、それにリヴシェ王女殿下には、お身体の具合がよろしくないとか。
心よりお見舞い申し上げます」
ぎりぎり許されるだろう線の嫌味を、極上の微笑にのせて付け加えると、壇上の女の顔色がさっと変わった。
元は地方の男爵令嬢であったとはいえ、仮にも貴族の端くれであれば、社交の礼儀くらいは教育されているだろうに。
あからさまに表情かおに出すものだ。
ろくに身に着けてこなかったのだろう。
その資格がないと知りながら壇上に登るなら、相応しいふてぶてしさが必要だ。その覚悟もなく、その場所へ立った自分の愚かさに気づくと良い。
わずか10歳の少年に完全に無視されたのだから、愛妾親子の面白かろうはずはないが、これでラスムスがその娘に興味がないことは伝わったはずだ。
まずはこれで良しとする。
それよりも探さねば。
ラーシュ・マティアス・ラチェス。
ラチェス公爵家の次男、当年9歳。
リヴシェ王女の現在の婚約者だという、その少年を。
甘いリンゴの香りのする姫、リヴシェの声には逆らえない。
嬉々として、ラスムスは右手を差し出した。
「おかわり!」
しゅたっと左手を差し出す。
「ちんちーん!」
前足を曲げて、後ろ足だけで立つ。
さすがにこれは、かなり恥ずかしい。
毎日一度はこうして芸をさせられる。
「お手」と「おかわり」までは良いが、この「ちんちん」だけは抵抗がある。
こんな芸、ノルデンフェルトでは見たことがない。ヴィシェフラドでは普通なのか。
それでも解毒の治療をしてもらった日から、ラスムスは姫の側を離れられないでいる。
一刻も離れたくないのだ。
「おまえ、本当に良い子になったわね。
来た時とは、大違い。
わたくしが何を言っても、つーんとそっぽむいてたのに」
ラスムスの頭を優しく撫でながら、彼女は柔らかく笑う。
心臓がもたない。
姫の優しい手、その指、そしてとどめの笑顔が、ラスムスの心臓をきゅうっと締め上げたから。
ここへ連れてこられた頃つーんとしていたというけれど、それは仕方ない。
なんの前触れもなく、いきなり現れた己が番つがいに平静でいられる狼がいれば見てみたい。
ラスムスは、動揺していたのだ。
気を抜けば姫に襲いかかりそうになる衝動を抑え、それなのに姫は今日のように優しくラスムスの身体を撫でて。
これは拷問かと、冷や汗を流しながら耐えたのだ。
褒めてもらってしかるべきだと、ラスムスは思う。
「いったいどこの子なのかしらね。
この辺りの家には、全部聞いて回ったんだけど、そんな犬知らないって」
当たり前だ。
第一、ラスムスは犬ではない。
どうしたらこの姿が、犬に見えるのだろう。姫に犬と認識されるのは、はなはだ不本意だった。
「おまえ、あんまり食べないんですってね。
ロイヤル〇ナンの缶詰でもあれば良いんだけど……。
鶏のもも肉を蒸したんだけど、これなら口に合うかな」
ロイヤルなんとかとは聞いたこともないが、ヴィシェフラドの犬用の食事か。
いや待て。
今、姫はなんと言った。
蒸した。
もしかしたら手ずからか?
王女が手ずからラスムスの食事を用意した?
くんと鼻先をつけてみると、他の人間の臭いはしない。
間違いない。
姫の手作りだ。
塩気のまるでない鶏を、こんなに美味だと感じたことはない。
まだ温かい鶏モモ肉を、ラスムスはぺろりとたいらげた。
「良かった。
たっくさん食べて、早く元気になるのよ」
嬉しそうな姫の声に、ラスムスは幸せな気分になる。
鶏を食べたくらいで姫が喜ぶのなら、お安いご用だ。
いくらでも食べてやる。
「王都へ戻れば、もう少しおいしいものを用意してあげられるんだけど……。
ごめんね。
今はちょっとマズいのよ。
隣の国から、ラスムスが来るんだって。
お父様、どうやらあの子をラスムスと婚約させたいみたい」
姫の濃い紫の瞳が、憂鬱そうな色に沈んでいる。
あの子とは例の愛妾の娘だろう。
婚約してほしくないのか。
ラスムスは都合の良い期待をしてしまう。
会ったこともない彼に、好意を寄せているはずもないのに。
「わたくしがいたら、何かと言いがかりをつけられそうで。
君子危うきに近寄らずね」
言いがかりをつけるような輩は、喉笛を食い破ってくれるから心配するなと言いたかった。
代わりに鼻先を姫の手に押しつけて、フンと鳴らす。
「あの子、顔はかわいいのよ。
だからラスムスも気に入るはずよ。
あー、いっそもうそのままノルデンフェルトへ連れて帰ってくれないかしら」
連れて帰るのなら、姫、おまえだと言いたい。
そこだけは人である時と同じ、薄い青の目で必死に訴えるが、当然姫には伝わらない。
「そうしたらわたくしはラーシュと結婚して、四方丸くおさまるんだけどね」
キン……。
心の凍る音を、ラスムスは聞いた。
結婚。
ラーシュと。
つまり姫には、婚約者がいるということか。
そしてその男を、姫は嫌ってはいないと。
ラーシュという名を、この城で聞いたことはない。
おそらくここには来ていないのだろう。
ノルデンフェルトから外交使節が来るとなれば、王族に近い貴族は皆王都に集まっているはずだ。
姫のようにわざわざ王都を離れるなど、よほどの事情がない限りありえない。
ヴィシェフラドの第一王女の婚約者に選ばれるほどの男だ。
間違いなく王族に近い高位の貴族だろう。
早いうちに潰しておかなければ。
王都に行くか。
姫の側を離れるのはつらいが、正式に妻として迎えるためだ。
ここは耐えねばなるまい。
翌朝、ラスムスは後ろ髪をひかれる思いを断ち切って、王都へ向かうノルデンフェルトの使節団に戻った。
「噂どおりだな。
ラスムス殿はお父君によく似ている」
ヴィシェフラド王宮の謁見の間。
玉座の国王は、人のよさそうなやわらかい微笑をラスムスに向けた。
「おそれいります」
膝をついて頭を垂れる。
「楽にされよ。
貴国とは友好国であり、父君と余は友人関係なのだから」
本気でそう思っているとすれば、かなりの阿呆だ。もしそうでなくば、かなりの役者だが。
ラスムスの父、ノルデンフェルトの皇帝は、隙あらばヴィシェフラドを併呑してしまおうと考えている。
女神ヴィシェフラドの血を継ぐ王族を抱きかかえれば、大陸全土に精神的支配が叶う。
そんな男を友人などと、片腹痛い。
「ありがたきお言葉。
父もさぞや喜びましょう」
許されて顔を上げれば、玉座の隣りすぐ傍に、妖艶だがどこか崩れた品のない女が立っている。
さらにその隣には、ラスムスの姫とほぼ同じ年頃の少女。
ふわふわとした金の髪に大きな緑の瞳をした、一般的に言えば美少女だ。
ふんと、内心でラスムスは鼻を鳴らす。
これこそ噂どおりだ。
ヴィシェフラドの国王は、愛妾を玉座近く、しかも壇上に侍らせている。
私的な謁見ではない、公式の場でだ。
「ラスムス皇子殿下は、本当にお噂どおり。
お美しくておいでですのね」
くっきり紅で染めた赤い唇が開いて、壇上の女がラスムスに話しかける。
会場に詰めた貴族達に、控えめな動揺が走った。
咎めないのか、国王は。
しばし国王の表情を観察がてら見ていると、さすがに気づいたらしい。
「控えなさい。
こちらはノルデンフェルトの皇族だ」
愛妾を、他国の皇族より高い位置に置くこと自体、すでにどうかしているのだが。
「これは余の親しい友人でな。
ジェリオ伯爵夫人という。
その隣は、ジェリオ伯爵令嬢の二コラだ。
ラスムス殿、あなたにぜひとも引き合わせたくてな。
ここへ呼んである」
必死だな。
顔を伏せて、ラスムスは苦笑を隠した。
愛妾と私生児を壇上に侍らせたことに、多少の後ろめたさはあると見える。
言い訳がましい言いようが、いっそ憐れだった。
だがこちらから、愛妾と私生児にへりくだる必要はない。
「さようでございますか」
さらりと受け流して、彼女らに声はかけない。
「王妃殿下、それにリヴシェ王女殿下には、お身体の具合がよろしくないとか。
心よりお見舞い申し上げます」
ぎりぎり許されるだろう線の嫌味を、極上の微笑にのせて付け加えると、壇上の女の顔色がさっと変わった。
元は地方の男爵令嬢であったとはいえ、仮にも貴族の端くれであれば、社交の礼儀くらいは教育されているだろうに。
あからさまに表情かおに出すものだ。
ろくに身に着けてこなかったのだろう。
その資格がないと知りながら壇上に登るなら、相応しいふてぶてしさが必要だ。その覚悟もなく、その場所へ立った自分の愚かさに気づくと良い。
わずか10歳の少年に完全に無視されたのだから、愛妾親子の面白かろうはずはないが、これでラスムスがその娘に興味がないことは伝わったはずだ。
まずはこれで良しとする。
それよりも探さねば。
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