24 / 44
第三章 マラークの叛乱
24.熾火
しおりを挟む
「いつものとおり処理しております」
旧ヴァスキア領鉱山担当の役人は、木製のクリップで閉じた書類を総督エルケ侯爵に差し出した。
エミール・ド・エルケ侯爵。元のエーミール・フォン・ハーケ、ヴァスキアの宰相だった。
執務机を挟んで手を伸ばし、ハーケは書類を受け取った。
「その……、閣下。大丈夫なのでしょうか。バルト侯爵がお気づきになれば……」
油っ気のないぼさぼさの茶の髪をした青年は、元は宰相ハーケ侯爵の側近だった。主の立場が変わっても、彼は変わらず側にいる。不本意ながら、今はマラークの禄を食んでいるが。
「なぜ気づく? 鉱石の製錬度がヤツにわかると思うか?」
艶のない灰色の髪をした元宰相は、同じ色の瞳に皮肉な笑いを乗せている。
「エミール・ド・エルケは、バルト侯爵の娘婿だ」
二度も離縁されたバルト侯爵の娘を、ハーケは妻に迎えている。
その際、マラーク風の名と爵位を授けられた。同時に旧ヴァスキア領の総督の地位も。
八年前王太子エカルトの右半身を焼いた時、ハーケは己の自尊心を封印した。
旧ヴァスキアの民から裏切者、恥知らずよと罵られ蔑まれながら、総督を務め酷な税を課してマラークにしっぽを振ってみせている。
マラークの社交界でも評判の良いはずはなく、故国と主人を売って生き延びた卑劣漢よと嘲笑されている。
「わたくしのおかげであなたはマラークでの地位を得たの。あなたにはわたくしを大切に愛する義務があるのよ」
バルト侯爵家から迎えた妻は、まるで王女が降嫁してきたかのように尊大だった。
若く美しい自分が三十過ぎの、敗戦国のおまえに嫁いでやったのだから、ありがたくないはずはない。そう心から信じている。
美食の限りを尽くした身体はまるまると肥えて、控えめに言っても出荷前の豚のようだ。肉に埋もれた目は糸のように細くて、盛り上がった頬はここ数年でたるんで下がりつつある。
この尊大な豚をハーケは週に一度抱く。それはもう、下僕が王女に尽くすようにして。
牙を抜かれた獣のように振る舞って十年余、最初こそ用心していたらしいバルト侯爵も今ではすっかりハーケに気を許している。
「あれの我儘が過ぎるようなら、私が許す。女を作るといい」
本気で言っているらしい。その後何度も、候補の貴婦人を紹介された。
そろそろか。
ハーケは隠した牙を研ぎ始める。
ノルリアンに逃れた太王太后エドラからの密偵は、ハーケの判断に任せると言ってきていた。
アングラード侯爵によるマラーク王権奪取の工作も順調で、配下の騎士団は王太子エカルトが掌握したという。
友ドナウアーが命がけで逃がした王太子エカルトは、立派に成長してくれた。
後は託せる。ヴァスキアの全権を、正当な継承者に戻す時機だ。
「おまえは気にせずともよい。すべての責任は私にあるのだから」
長く仕えてくれる青年に、ハーケは微笑んでみせる。
鉄鉱石から銑鉄を作り、さらに鋼を作る。その設備も技術者もすべて旧ヴァスキアの財産だ。
敗戦国の詳細、その調査すら適当に済ませたツケを、マラークは支払うと良い。
出荷された鋼の精度など、愚かなやつらにわかるものか。
目利きの商会はすべて抱きこんである。
マラークの騎士の持つ剣も槍も弓も、すべて粗悪品だ。十年かけて、そうしてやった。
馬もしかり。
軍用に使う馬車も、鎧も盾もすべてだ。
11年待った。
食糧も金も、マラークの目をかすめて貯めに貯めた。
ヴァスキアの民に恨まれながら、彼らに雑穀の粥を食させてそれを冷たい顔で眺めながらだ。
ようやく戦に耐える兵站が整った。
赤毛の友の顔が眼裏に浮かぶ。
「約束を果たす時がきた」
友の浅黒い顔が、にかりと笑ったような気がした。
同じころ、マラークの王妃宮でラウラは備蓄の食糧を作っていた。
戦時に騎士に持たせる携帯食だ。
大豆を炒った粉に砂糖と炒った麦の粉、それに豆の油を少量入れて団子にする。その後蒸して乾燥させる。
およそ王妃のする仕事ではないが、ラウラにはごく普通の作業だった。
何があっても生き残れるようにと、ばば様からしっかり仕込まれている。長期間保存のきく携帯食も、飢饉の際には必要な備えだ。
食糧自給率100パーセントのマラークでは正直なところほとんど必要のない心配だが、旧ヴァスキア領は違う。平地の少ないあの地では、食糧はほぼマラークからの供給に頼っている。
いったん飢饉が起きればどうなるか。
以前まだ国家としての体裁があった頃なら、国の備蓄を放出してしのぐこともできた。けれど今ではそれもない。マラークの王宮が敗戦国の食糧事情にまで気を遣ってやるとは、とても思えない。
今年は雨が多かった。初夏から秋にかけて、晴れたと言える日は数えるほどだ。おそらく秋の収穫量はひどいものになる。
小麦、トウモロコシ、雑穀に砂糖、赤ん坊のための粉ミルクは、王妃宮の地下に常時備蓄してある。
ラウラが王妃としてマラークへ入ってから、王宮の生活費に使う費用を削減した金の一部で用意したものだ。三年備蓄した後は、ノルリアンの商会へ廉価で譲りヴァスキアへ運び込むつもりだった。
そして新しいものをまた備蓄する。
今年はその備蓄に加えて、携帯食の準備も始めていた。
気象担当の官吏から今年の収穫量予想を聞かされたこともあるが、アングラード侯爵の最近の言動がラウラになにかを直感させたからだ。
(おかしいわ)
極端に王宮へ伺候する頻度が落ちていた。
たまに会うと貼りつけたような微笑で挨拶だけを残し、そそくさと退出する。
そしてルトとテオ、彼らの様子にも違和感があった。
表面上はいつもどおりにしているが、それはいかにも努力してそうしているようで、どこか緊迫している。
(じきになにかある)
ラウラがマラークへ嫁いで、そろそろ三年になろうかという頃。
きなくさい風が吹いていた。
旧ヴァスキア領鉱山担当の役人は、木製のクリップで閉じた書類を総督エルケ侯爵に差し出した。
エミール・ド・エルケ侯爵。元のエーミール・フォン・ハーケ、ヴァスキアの宰相だった。
執務机を挟んで手を伸ばし、ハーケは書類を受け取った。
「その……、閣下。大丈夫なのでしょうか。バルト侯爵がお気づきになれば……」
油っ気のないぼさぼさの茶の髪をした青年は、元は宰相ハーケ侯爵の側近だった。主の立場が変わっても、彼は変わらず側にいる。不本意ながら、今はマラークの禄を食んでいるが。
「なぜ気づく? 鉱石の製錬度がヤツにわかると思うか?」
艶のない灰色の髪をした元宰相は、同じ色の瞳に皮肉な笑いを乗せている。
「エミール・ド・エルケは、バルト侯爵の娘婿だ」
二度も離縁されたバルト侯爵の娘を、ハーケは妻に迎えている。
その際、マラーク風の名と爵位を授けられた。同時に旧ヴァスキア領の総督の地位も。
八年前王太子エカルトの右半身を焼いた時、ハーケは己の自尊心を封印した。
旧ヴァスキアの民から裏切者、恥知らずよと罵られ蔑まれながら、総督を務め酷な税を課してマラークにしっぽを振ってみせている。
マラークの社交界でも評判の良いはずはなく、故国と主人を売って生き延びた卑劣漢よと嘲笑されている。
「わたくしのおかげであなたはマラークでの地位を得たの。あなたにはわたくしを大切に愛する義務があるのよ」
バルト侯爵家から迎えた妻は、まるで王女が降嫁してきたかのように尊大だった。
若く美しい自分が三十過ぎの、敗戦国のおまえに嫁いでやったのだから、ありがたくないはずはない。そう心から信じている。
美食の限りを尽くした身体はまるまると肥えて、控えめに言っても出荷前の豚のようだ。肉に埋もれた目は糸のように細くて、盛り上がった頬はここ数年でたるんで下がりつつある。
この尊大な豚をハーケは週に一度抱く。それはもう、下僕が王女に尽くすようにして。
牙を抜かれた獣のように振る舞って十年余、最初こそ用心していたらしいバルト侯爵も今ではすっかりハーケに気を許している。
「あれの我儘が過ぎるようなら、私が許す。女を作るといい」
本気で言っているらしい。その後何度も、候補の貴婦人を紹介された。
そろそろか。
ハーケは隠した牙を研ぎ始める。
ノルリアンに逃れた太王太后エドラからの密偵は、ハーケの判断に任せると言ってきていた。
アングラード侯爵によるマラーク王権奪取の工作も順調で、配下の騎士団は王太子エカルトが掌握したという。
友ドナウアーが命がけで逃がした王太子エカルトは、立派に成長してくれた。
後は託せる。ヴァスキアの全権を、正当な継承者に戻す時機だ。
「おまえは気にせずともよい。すべての責任は私にあるのだから」
長く仕えてくれる青年に、ハーケは微笑んでみせる。
鉄鉱石から銑鉄を作り、さらに鋼を作る。その設備も技術者もすべて旧ヴァスキアの財産だ。
敗戦国の詳細、その調査すら適当に済ませたツケを、マラークは支払うと良い。
出荷された鋼の精度など、愚かなやつらにわかるものか。
目利きの商会はすべて抱きこんである。
マラークの騎士の持つ剣も槍も弓も、すべて粗悪品だ。十年かけて、そうしてやった。
馬もしかり。
軍用に使う馬車も、鎧も盾もすべてだ。
11年待った。
食糧も金も、マラークの目をかすめて貯めに貯めた。
ヴァスキアの民に恨まれながら、彼らに雑穀の粥を食させてそれを冷たい顔で眺めながらだ。
ようやく戦に耐える兵站が整った。
赤毛の友の顔が眼裏に浮かぶ。
「約束を果たす時がきた」
友の浅黒い顔が、にかりと笑ったような気がした。
同じころ、マラークの王妃宮でラウラは備蓄の食糧を作っていた。
戦時に騎士に持たせる携帯食だ。
大豆を炒った粉に砂糖と炒った麦の粉、それに豆の油を少量入れて団子にする。その後蒸して乾燥させる。
およそ王妃のする仕事ではないが、ラウラにはごく普通の作業だった。
何があっても生き残れるようにと、ばば様からしっかり仕込まれている。長期間保存のきく携帯食も、飢饉の際には必要な備えだ。
食糧自給率100パーセントのマラークでは正直なところほとんど必要のない心配だが、旧ヴァスキア領は違う。平地の少ないあの地では、食糧はほぼマラークからの供給に頼っている。
いったん飢饉が起きればどうなるか。
以前まだ国家としての体裁があった頃なら、国の備蓄を放出してしのぐこともできた。けれど今ではそれもない。マラークの王宮が敗戦国の食糧事情にまで気を遣ってやるとは、とても思えない。
今年は雨が多かった。初夏から秋にかけて、晴れたと言える日は数えるほどだ。おそらく秋の収穫量はひどいものになる。
小麦、トウモロコシ、雑穀に砂糖、赤ん坊のための粉ミルクは、王妃宮の地下に常時備蓄してある。
ラウラが王妃としてマラークへ入ってから、王宮の生活費に使う費用を削減した金の一部で用意したものだ。三年備蓄した後は、ノルリアンの商会へ廉価で譲りヴァスキアへ運び込むつもりだった。
そして新しいものをまた備蓄する。
今年はその備蓄に加えて、携帯食の準備も始めていた。
気象担当の官吏から今年の収穫量予想を聞かされたこともあるが、アングラード侯爵の最近の言動がラウラになにかを直感させたからだ。
(おかしいわ)
極端に王宮へ伺候する頻度が落ちていた。
たまに会うと貼りつけたような微笑で挨拶だけを残し、そそくさと退出する。
そしてルトとテオ、彼らの様子にも違和感があった。
表面上はいつもどおりにしているが、それはいかにも努力してそうしているようで、どこか緊迫している。
(じきになにかある)
ラウラがマラークへ嫁いで、そろそろ三年になろうかという頃。
きなくさい風が吹いていた。
10
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
勘違い妻は騎士隊長に愛される。
更紗
恋愛
政略結婚後、退屈な毎日を送っていたレオノーラの前に現れた、旦那様の元カノ。
ああ なるほど、身分違いの恋で引き裂かれたから別れてくれと。よっしゃそんなら離婚して人生軌道修正いたしましょう!とばかりに勢い込んで旦那様に離縁を勧めてみたところ――
あれ?何か怒ってる?
私が一体何をした…っ!?なお話。
有り難い事に書籍化の運びとなりました。これもひとえに読んで下さった方々のお蔭です。本当に有難うございます。
※本編完結後、脇役キャラの外伝を連載しています。本編自体は終わっているので、その都度完結表示になっております。ご了承下さい。
嫌われ皇后は子供が可愛すぎて皇帝陛下に構っている時間なんてありません。
しあ
恋愛
目が覚めるとお腹が痛い!
声が出せないくらいの激痛。
この痛み、覚えがある…!
「ルビア様、赤ちゃんに酸素を送るためにゆっくり呼吸をしてください!もうすぐですよ!」
やっぱり!
忘れてたけど、お産の痛みだ!
だけどどうして…?
私はもう子供が産めないからだだったのに…。
そんなことより、赤ちゃんを無事に産まないと!
指示に従ってやっと生まれた赤ちゃんはすごく可愛い。だけど、どう見ても日本人じゃない。
どうやら私は、わがままで嫌われ者の皇后に憑依転生したようです。だけど、赤ちゃんをお世話するのに忙しいので、構ってもらわなくて結構です。
なのに、どうして私を嫌ってる皇帝が部屋に訪れてくるんですか!?しかも毎回イラッとするとこを言ってくるし…。
本当になんなの!?あなたに構っている時間なんてないんですけど!
※視点がちょくちょく変わります。
ガバガバ設定、なんちゃって知識で書いてます。
エールを送って下さりありがとうございました!
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
(本編完結)無表情の美形王子に婚約解消され、自由の身になりました! なのに、なんで、近づいてくるんですか?
水無月あん
恋愛
本編は完結してます。8/6より、番外編はじめました。よろしくお願いいたします。
私は、公爵令嬢のアリス。ピンク頭の女性を腕にぶら下げたルイス殿下に、婚約解消を告げられました。美形だけれど、無表情の婚約者が苦手だったので、婚約解消はありがたい! はれて自由の身になれて、うれしい! なのに、なぜ、近づいてくるんですか? 私に興味なかったですよね? 無表情すぎる、美形王子の本心は? こじらせ、ヤンデレ、執着っぽいものをつめた、ゆるゆるっとした設定です。お気軽に楽しんでいただければ、嬉しいです。
【完結】王太子妃候補の悪役令嬢は、どうしても野獣辺境伯を手に入れたい
たまこ
恋愛
公爵令嬢のアレクサンドラは優秀な王太子妃候補だと、誰も(一部関係者を除く)が認める完璧な淑女である。
王家が開く祝賀会にて、アレクサンドラは婚約者のクリストファー王太子によって婚約破棄を言い渡される。そして王太子の隣には義妹のマーガレットがにんまりと笑っていた。衆目の下、冤罪により婚約破棄されてしまったアレクサンドラを助けたのは野獣辺境伯の異名を持つアルバートだった。
しかし、この婚約破棄、どうも裏があったようで・・・。
新婚初夜に『白い結婚にしてほしい』と言われたので論理的に詰めたら夫が泣きました
ささい
恋愛
「愛人がいるから、白い結婚にしてほしい」
政略結婚の初夜にそう告げた夫ルーファス。
妻カレンの反応は——
「それ、契約不履行ですよね?」
「あなたの感情論、論理的に破綻してますよ?」
泣き落としは通じない。
そして初夜の翌朝、夫は泣いていた。
逃げ道は全部塞がれ、気づけば毎日論破されていた。
これは、論破され続けた夫がなぜか幸せになる話。
【完結】転生したら悪役継母でした
入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。
その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。
しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。
絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。
記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。
夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。
◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆
*旧題:転生したら悪妻でした
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる