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七粒目 野茨闇 ~『落花流水の情』の巻~
その六 蘭玲姉様、深緑が参りましたよ! しっかりなさってくださいませ!
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その晩、皇帝は、朝まで天藍宮で過ごした。
付き添ってきた女官たちは、寝室の控えの間で寝ずの番をしていたようだ。
実は、涛超さんとわたしも、こっそり様子を見に行っていたのだが、寝室から漏れてくる小さな笑い声に、女官たちは頬を赤らめていた。
たぶん、二人は前世の思い出を懐かしく語り合ったり、可愛い皇子のことを話したりして笑っていただけだと思うのだけど、それって恥ずかしいことなのかしら――。
日が昇る前、皇帝は、たいそう満足した様子で、女官たちとともに坤祥殿へ帰って行った。
見送りに出たわたしに、皇帝は他の人に気づかれないように目配せした。
約束通り、今日中に蘭玲姉様に会わせるという意味だと思う。
「湯浴みと身支度は、涛超と深緑に頼むから、おまえたちは朝餉の準備をしておくれ」
貞海様は、寝室へ入ろうとした天藍宮付きの女官たちにそう命じて、自分のそばへ寄せ付けなかった。
女官たちは不服そうだったが、主の命令に背くことはできない。
黙ってお辞儀をすると、言いつけ通り後宮の厨へ向かった。
湯殿で、貞海様の湯浴みを手伝いながら、涛超さんがわたしに囁いた。
「女官たちは、昨夜お二人がどのようにお過ごしになったのか、知りたかったのでしょうね。お二人の魂は親子なのですから、そのようなことにはならないと思いますが――。この先のことを考えると、すでにそのような間柄になったとしておいた方が上計といえるかもしれません」
「どのように? そのような? は、はあ……?」
あれっ?! こっちを見た涛超さんの目! どう見ても、わたしを「お子ちゃま」視してた!
だいたいこの子は天女だものね! こういうことは、きっとわかってもらえないのね――、という目!
「深緑さん、侍従や女官が、お二人のことを聞いてきたら、あなたは恥ずかしそうにうつむいて、『わたくしは存じません』と言うだけにしてください。しつこく聞いてくるようなら、わたしを呼んでくださいね!」
「は、はい……」
それがいい。そうしてもらえればありがたい。
また、うっかり口を滑らして、余計なことを言ってしまうと大変だもの……。
◇ ◇ ◇
朝餉が終わってしばらくすると、迎えの女官たちがやって来た。
彼女らと翡翠宮の入り口へ行き待っていると、医師や薬師と思しき人々とともに、女官たちに囲まれて皇帝がやって来た。
「先ほど目を覚ましました。薄い粥を少し口にし、薬師殿がご用意くださった薬湯を飲みました。相変わらず、声が上手く出せないようです。いまだに、何があったのか聞き出せないでおります」
入り口で待っていた翡翠宮付きの女官が、皇帝に耳打ちするのが聞こえてきた。
蘭玲姉様のことを言っているに違いない。どうやら、具合は良くないようだ。早く快癒水を飲ませてあげなくては!
一番後方からついて行こうとしていたら、隣に立った若い女官に腕を叩かれた。
「あなた、杜貴人の侍女の方ですわよね?」
「は、はい。そうですが……」
「あの、昨夜、陛下がそちらにお渡りになりましたでしょう? それで、朝までお戻りにならなかったというのは……、確かなことですの?」
「……」
「ですからね……、その、お二人は、仲睦まじくお過ごしになったのかと――」
これね、涛超さんが言っていたのは――。
わたしは、うつむきながら、こっそり頬をこすって赤くした。そして、小さな声で恥ずかしそうに言ってみた。
「わたくしは、……存じません!」
「あら、まあ……、そ、そういうことですの。ホホホッ、わ、わかりましたわ!」
彼女は、そそくさとわたしから離れ、別の女官に近づき内緒話をしていた。
う~ん……、こんな感じでいいのかしらね? 少しは役に立ったかな?
天藍宮に戻ったら、涛超さんに忘れず伝えておこう!
蘭玲姉様がいたのは、翡翠宮の中でも一番奥まったところにある部屋だった。
部屋の中では香が焚かれ、ふくよかな花の香りが漂っていた。
蘭玲姉様は、陶器ように白い顔をして、寝台に横たわっていた。
懐かしさといたわしさで、思わず涙が溢れてきた。
「深緑、こちらへ!」
枕元に立っていた皇帝から手招きされ、わたしは前に進み出た。
「この者は、侍女になる以前、高名な薬師につき学んでいたそうだ。各地を旅して、薬師が調剤した特別な薬水を広めていたこともあるという。蘭玲にも、その薬水を飲ませてみてはどうかと思い連れてきたのだが――」
これは、わたしがここへ来るために用意した話。まんざら嘘でもないのだけど……。
医師や薬師は、しばらく話し合っていたが、皇帝に反対する者はいなかった。
彼らは場所を空け、そこへわたしを呼んだ。
わたしは、背負ってきた行李から、快癒水の瓶と盃を取り出した。
左手に薬水を満たした盃を持ち、右手を蘭玲姉様の背中へ回す。
うっすらと目を開けた姉様は、わたしの顔を見てたいそう驚いていた。
乾いた唇が、「深緑?」という形に動いたので、わたしはうなずき微笑んだ。
半身を起こした姉様は、自ら盃を手に取り、ゆっくりと薬水を飲み干した。
◇ ◇ ◇
快癒水の効果は絶大で、蘭玲姉様は、みるみるうちに回復していった。
翌日、再び翡翠宮を訪ねたのだけど、蘭玲姉様の部屋には、大勢の医師や薬師が集まり、わたしの到着を待っていた。
薬水の製法やわたしの師匠である薬師の名などを聞かれたが、答えられるはずもなく、「これは秘薬でございますので」と言って誤魔化しておいた。
わたしは、昨日と同じように蘭玲姉様に、たっぷり快癒水を飲ませた。
医生や薬師たちが引き上げると、蘭玲姉様は、ゆっくり休みたいと言って女官たちを遠ざけた。
外の物音が絶え、二人きりであることが確かになると、姉様は、待ちかねたようにわたしに問いかけてきた。
「ねぇ、深緑。どうして、あなたがここにいるのか、教えてくれますか?」
わたしは、翠姫様と姉様たちが下天した後、自分のしくじりで天空花園を荒れさせてしまい、人間界へこぼれ落ちて、悪しき質を帯びた種を天へ返すため、下天して夏先生と旅をすることになった顛末を語った。
姉様は、驚いたり笑ったりしながらわたしの話を聞いていたが、最後にはわたしの頭を優しく撫でて、「苦労をしましたね」と言ってくれた。
「苦労なんて……。初めて下天して、いろいろな人に出会って、たくさんのことを知りました。まだまだ、お子ちゃまですけど、ちょっぴり姉様たちに近づけた気がします。それに――」
「それに――、やっと、おぬしが知りたかった『恋情』を、身をもって知ることができたしな! フォッ、フォッ、フォッ!」
「老夏ッ?!」
いつ虫籠から出てきたのか、夏先生が、わたしの衣の襟元に止まって笑っていた。姉様が、「まあ、深緑が?!」と言って頬を染めた。
もう、老夏ときたら! わたしまで、恥ずかしくなってくるじゃないですか!
胸の奥がもやもやしかけたが、夏先生はさっさと話題を変えてくれた。
「蘭玲、もしや、おまえがこのようなことになったのも、天空花園からこぼれ落ちた種核に関係があるのではないか?」
夏先生の言葉を聞いた姉様は、しばらく、何かを思い出そうとするように、うつむいて考えていた。
やがて、顔を上げると、夏先生の黒く丸い目を見つめゆっくりと言った。
「そうですね。老夏のお考えの通りだと思います。たぶん、種核は、『凍れる宮』にあるのでしょう。そして、あそこには、ほかにもまだ何か秘密があるような気がします」
「『凍れる宮』?!」
姉様は深くうなずくと、自分がこのようなことに至ったきっかけを話し始めた。
付き添ってきた女官たちは、寝室の控えの間で寝ずの番をしていたようだ。
実は、涛超さんとわたしも、こっそり様子を見に行っていたのだが、寝室から漏れてくる小さな笑い声に、女官たちは頬を赤らめていた。
たぶん、二人は前世の思い出を懐かしく語り合ったり、可愛い皇子のことを話したりして笑っていただけだと思うのだけど、それって恥ずかしいことなのかしら――。
日が昇る前、皇帝は、たいそう満足した様子で、女官たちとともに坤祥殿へ帰って行った。
見送りに出たわたしに、皇帝は他の人に気づかれないように目配せした。
約束通り、今日中に蘭玲姉様に会わせるという意味だと思う。
「湯浴みと身支度は、涛超と深緑に頼むから、おまえたちは朝餉の準備をしておくれ」
貞海様は、寝室へ入ろうとした天藍宮付きの女官たちにそう命じて、自分のそばへ寄せ付けなかった。
女官たちは不服そうだったが、主の命令に背くことはできない。
黙ってお辞儀をすると、言いつけ通り後宮の厨へ向かった。
湯殿で、貞海様の湯浴みを手伝いながら、涛超さんがわたしに囁いた。
「女官たちは、昨夜お二人がどのようにお過ごしになったのか、知りたかったのでしょうね。お二人の魂は親子なのですから、そのようなことにはならないと思いますが――。この先のことを考えると、すでにそのような間柄になったとしておいた方が上計といえるかもしれません」
「どのように? そのような? は、はあ……?」
あれっ?! こっちを見た涛超さんの目! どう見ても、わたしを「お子ちゃま」視してた!
だいたいこの子は天女だものね! こういうことは、きっとわかってもらえないのね――、という目!
「深緑さん、侍従や女官が、お二人のことを聞いてきたら、あなたは恥ずかしそうにうつむいて、『わたくしは存じません』と言うだけにしてください。しつこく聞いてくるようなら、わたしを呼んでくださいね!」
「は、はい……」
それがいい。そうしてもらえればありがたい。
また、うっかり口を滑らして、余計なことを言ってしまうと大変だもの……。
◇ ◇ ◇
朝餉が終わってしばらくすると、迎えの女官たちがやって来た。
彼女らと翡翠宮の入り口へ行き待っていると、医師や薬師と思しき人々とともに、女官たちに囲まれて皇帝がやって来た。
「先ほど目を覚ましました。薄い粥を少し口にし、薬師殿がご用意くださった薬湯を飲みました。相変わらず、声が上手く出せないようです。いまだに、何があったのか聞き出せないでおります」
入り口で待っていた翡翠宮付きの女官が、皇帝に耳打ちするのが聞こえてきた。
蘭玲姉様のことを言っているに違いない。どうやら、具合は良くないようだ。早く快癒水を飲ませてあげなくては!
一番後方からついて行こうとしていたら、隣に立った若い女官に腕を叩かれた。
「あなた、杜貴人の侍女の方ですわよね?」
「は、はい。そうですが……」
「あの、昨夜、陛下がそちらにお渡りになりましたでしょう? それで、朝までお戻りにならなかったというのは……、確かなことですの?」
「……」
「ですからね……、その、お二人は、仲睦まじくお過ごしになったのかと――」
これね、涛超さんが言っていたのは――。
わたしは、うつむきながら、こっそり頬をこすって赤くした。そして、小さな声で恥ずかしそうに言ってみた。
「わたくしは、……存じません!」
「あら、まあ……、そ、そういうことですの。ホホホッ、わ、わかりましたわ!」
彼女は、そそくさとわたしから離れ、別の女官に近づき内緒話をしていた。
う~ん……、こんな感じでいいのかしらね? 少しは役に立ったかな?
天藍宮に戻ったら、涛超さんに忘れず伝えておこう!
蘭玲姉様がいたのは、翡翠宮の中でも一番奥まったところにある部屋だった。
部屋の中では香が焚かれ、ふくよかな花の香りが漂っていた。
蘭玲姉様は、陶器ように白い顔をして、寝台に横たわっていた。
懐かしさといたわしさで、思わず涙が溢れてきた。
「深緑、こちらへ!」
枕元に立っていた皇帝から手招きされ、わたしは前に進み出た。
「この者は、侍女になる以前、高名な薬師につき学んでいたそうだ。各地を旅して、薬師が調剤した特別な薬水を広めていたこともあるという。蘭玲にも、その薬水を飲ませてみてはどうかと思い連れてきたのだが――」
これは、わたしがここへ来るために用意した話。まんざら嘘でもないのだけど……。
医師や薬師は、しばらく話し合っていたが、皇帝に反対する者はいなかった。
彼らは場所を空け、そこへわたしを呼んだ。
わたしは、背負ってきた行李から、快癒水の瓶と盃を取り出した。
左手に薬水を満たした盃を持ち、右手を蘭玲姉様の背中へ回す。
うっすらと目を開けた姉様は、わたしの顔を見てたいそう驚いていた。
乾いた唇が、「深緑?」という形に動いたので、わたしはうなずき微笑んだ。
半身を起こした姉様は、自ら盃を手に取り、ゆっくりと薬水を飲み干した。
◇ ◇ ◇
快癒水の効果は絶大で、蘭玲姉様は、みるみるうちに回復していった。
翌日、再び翡翠宮を訪ねたのだけど、蘭玲姉様の部屋には、大勢の医師や薬師が集まり、わたしの到着を待っていた。
薬水の製法やわたしの師匠である薬師の名などを聞かれたが、答えられるはずもなく、「これは秘薬でございますので」と言って誤魔化しておいた。
わたしは、昨日と同じように蘭玲姉様に、たっぷり快癒水を飲ませた。
医生や薬師たちが引き上げると、蘭玲姉様は、ゆっくり休みたいと言って女官たちを遠ざけた。
外の物音が絶え、二人きりであることが確かになると、姉様は、待ちかねたようにわたしに問いかけてきた。
「ねぇ、深緑。どうして、あなたがここにいるのか、教えてくれますか?」
わたしは、翠姫様と姉様たちが下天した後、自分のしくじりで天空花園を荒れさせてしまい、人間界へこぼれ落ちて、悪しき質を帯びた種を天へ返すため、下天して夏先生と旅をすることになった顛末を語った。
姉様は、驚いたり笑ったりしながらわたしの話を聞いていたが、最後にはわたしの頭を優しく撫でて、「苦労をしましたね」と言ってくれた。
「苦労なんて……。初めて下天して、いろいろな人に出会って、たくさんのことを知りました。まだまだ、お子ちゃまですけど、ちょっぴり姉様たちに近づけた気がします。それに――」
「それに――、やっと、おぬしが知りたかった『恋情』を、身をもって知ることができたしな! フォッ、フォッ、フォッ!」
「老夏ッ?!」
いつ虫籠から出てきたのか、夏先生が、わたしの衣の襟元に止まって笑っていた。姉様が、「まあ、深緑が?!」と言って頬を染めた。
もう、老夏ときたら! わたしまで、恥ずかしくなってくるじゃないですか!
胸の奥がもやもやしかけたが、夏先生はさっさと話題を変えてくれた。
「蘭玲、もしや、おまえがこのようなことになったのも、天空花園からこぼれ落ちた種核に関係があるのではないか?」
夏先生の言葉を聞いた姉様は、しばらく、何かを思い出そうとするように、うつむいて考えていた。
やがて、顔を上げると、夏先生の黒く丸い目を見つめゆっくりと言った。
「そうですね。老夏のお考えの通りだと思います。たぶん、種核は、『凍れる宮』にあるのでしょう。そして、あそこには、ほかにもまだ何か秘密があるような気がします」
「『凍れる宮』?!」
姉様は深くうなずくと、自分がこのようなことに至ったきっかけを話し始めた。
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