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一章
序
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書類を確認する。書類にサインをする。書類に訂正を入れる。基本、日々はその繰り返しだ。文机、床、床の間。あたり一面、紙、もしくは紙の山で埋めつくされていく。ただ黙々と端から片づける。苦ではない。それが生まれながらに決められた道であり、選び、奪いとった「当り前」である。あえて言うならば、薄墨は文句をつけられやすいので墨がなくなれば硯を研ぐ、その時間が惜しく、また、手首が痛くて面倒くさい。
くあ、と威は大きくあくびをする。最後に寝たのがいつなのか、もはや憶えていない。現在、日がいったいどれほどの高さなのかもわからなかった。障子から透けてくる光の明るさで夜ではないことはわかるが、それ以上は判然としない。
さすがに朦朧としつつある頭でも、文字を認識し、理解し、目の前の書類を処理していくくらいならば他愛ないことだ。内容を脳にたたきこみ、了承をすればサインをし、床に放り投げていく。
「威さま」
襖の向こうから呼びかけられる。威は業務を続けながら入れ、と応える。なめらかに襖が開かれると、声で判断したとおりの人物が片膝を立てていた。瑞矢だ。
「失礼いたします。今期締めの分を持ってまいりました」
ああ、と威は筆を置く。自然と口角が持ちあがった。このばかばかしくなるほど押し寄せてくる仕事のなかで、威がもっとも愉悦としている内容。
そんな威を見て、瑞矢の左瞼がぴくりと痙攣した。ますます威の双眸が唇とともに弧を描く。
「うん。瑞矢、ここに」
短い返事を発し、瑞矢は見渡すかぎり散らばった紙を避けながら威に近寄る。いつものことなので、足取りに戸惑いはない。
瑞矢から紙の束を受けとると、威は着物の衿を正した。用紙には、氏名、その人物の特徴、所在、家族構成、職業、そして借金の額が記載されている。右目を覆うように巻かれた包帯をさすり、反対の手でぱらぱらとめくっていく。
「こいつ、前々期に多額を借り入れていなかったっけ?」
返済額と借入額のバランスが悪い。調査員からの報告には「前期よりも太っている」と補足がある。はなから祇矩藤の金をあてにしているようにしか見えなかった。
素早く瑞矢が資料を広げ、前々期の貸付額を告げる。
「日がな賭場に繰り出し、最近では大儲けした様子が見受けられます。職は辞めたようです」
「隠す気なしか。いい度胸してる」
咽喉の奥を鳴らして嘲笑ったあと、威はすっと真顔に戻る。個人の感情と祇矩藤家当主としての対応を混ぜたりはしない。
「貸付は停止。来期締めまでに半額以上を返済できないのであれば利子を増やせ。金がないと駄々をこねるようなら奉公先を紹介してやればいい」
まじめに働き、こつこつと返している場合は利子を減らしたり、どうにも返済が追いつかないようであれば新たな職を紹介したり、金額や相手の態度によって言い渡す内容は異なる。基本は催促よりも様子見と相談だ。借入れ理由として多いのは稼ぎ手が病や怪我で倒れてしまった場合で、威は嘆息しながら「恩情ある決断」を下していく。
「やはり四区がもっとも手がかかる。僕としては愉快だけど」
祇矩藤家が治めるここ春嵐は、居住地が四区画に分けられている。祇矩藤の屋敷を兼ねた〔春日〕がすぐ側にある一区、二区は威厳が絶大、三区は〔春日〕が遠くとも外部と唯一の出入り口になっている門を構えているため影響著しいが、四区は三区と同じく〔春日〕が遠いことに加えて門もない。祇矩藤の権力を他と比べると実感しづらいところがあった。
瑞矢は威の言葉には反応せず、黒目を伏せて唇を一文字に結んでいた。なぜ愉快なのか、その理由を理解しているために。
次の書類に目を通す。狄塚克登、と書かれている。もはや見慣れた名前だ。始めのうちは借入と返済を繰り返していたが、徐々に額が大きくなり、返済と釣り合わなくなっていた。それでも本人のつよい希望と、かつてのまじめな返済態度により、貸付を続けていた、のだが。
「額が膨大になりすぎているね」
はたしてほんとうに完済できるのか、怪しい金額だ。少なくとも春嵐では賭場で大穴を当て続けないかぎりは無理だろうと思われた。一生かけて休みなしに働いたとしても、威が把握しているかぎりではどの職についても不可能だ。いや、たったひとつだけあるにはある。ただ、克登本人では就けない。
あるいは外部、つまり春嵐の外に出て別の町であれば何か稼げる方法があるのかもしれないが、そのまま逃亡されては祇矩藤にとっても大損だ。認めることはできない。
「現在、狄塚克登、そしてその妻である早彰は、二人そろって外部に出ています。借入れ理由でもあった医療研究がうまくいったようで、目的地は高瀬と報告されています」
「高瀬か。あそこは医学に特化した町だからな」
それならばこれまでの態度を見ても、おそらく狄塚はきちんと返済してくるだろう。この先まだ返済をしないまま借入を申しこんでくるようであれば貸付を打ち止めにする程度で問題ない。威は怠惰な気持ちで文面を眺める。娘が春嵐に残っているうえ、目的地と不在期間をきちんと提出されている以上、現在は帰りを待つしかない。
娘。
補足の部分を目にして、威は姿勢を正した。
娘、狄塚仄羽。桃色の髪に黒目、と記載されている。なんということだろう。その一文は体中の血が熱を持ったがごとく、威を興奮させた。数年ぶりの感覚だ。主人の変化を感じとった瑞矢が薄く眉間に皺を寄せる。
「瑞矢」
まったく無邪気に、威は紅い瞳を細めて微笑んだ。
「この娘、手に入れるぞ」
くあ、と威は大きくあくびをする。最後に寝たのがいつなのか、もはや憶えていない。現在、日がいったいどれほどの高さなのかもわからなかった。障子から透けてくる光の明るさで夜ではないことはわかるが、それ以上は判然としない。
さすがに朦朧としつつある頭でも、文字を認識し、理解し、目の前の書類を処理していくくらいならば他愛ないことだ。内容を脳にたたきこみ、了承をすればサインをし、床に放り投げていく。
「威さま」
襖の向こうから呼びかけられる。威は業務を続けながら入れ、と応える。なめらかに襖が開かれると、声で判断したとおりの人物が片膝を立てていた。瑞矢だ。
「失礼いたします。今期締めの分を持ってまいりました」
ああ、と威は筆を置く。自然と口角が持ちあがった。このばかばかしくなるほど押し寄せてくる仕事のなかで、威がもっとも愉悦としている内容。
そんな威を見て、瑞矢の左瞼がぴくりと痙攣した。ますます威の双眸が唇とともに弧を描く。
「うん。瑞矢、ここに」
短い返事を発し、瑞矢は見渡すかぎり散らばった紙を避けながら威に近寄る。いつものことなので、足取りに戸惑いはない。
瑞矢から紙の束を受けとると、威は着物の衿を正した。用紙には、氏名、その人物の特徴、所在、家族構成、職業、そして借金の額が記載されている。右目を覆うように巻かれた包帯をさすり、反対の手でぱらぱらとめくっていく。
「こいつ、前々期に多額を借り入れていなかったっけ?」
返済額と借入額のバランスが悪い。調査員からの報告には「前期よりも太っている」と補足がある。はなから祇矩藤の金をあてにしているようにしか見えなかった。
素早く瑞矢が資料を広げ、前々期の貸付額を告げる。
「日がな賭場に繰り出し、最近では大儲けした様子が見受けられます。職は辞めたようです」
「隠す気なしか。いい度胸してる」
咽喉の奥を鳴らして嘲笑ったあと、威はすっと真顔に戻る。個人の感情と祇矩藤家当主としての対応を混ぜたりはしない。
「貸付は停止。来期締めまでに半額以上を返済できないのであれば利子を増やせ。金がないと駄々をこねるようなら奉公先を紹介してやればいい」
まじめに働き、こつこつと返している場合は利子を減らしたり、どうにも返済が追いつかないようであれば新たな職を紹介したり、金額や相手の態度によって言い渡す内容は異なる。基本は催促よりも様子見と相談だ。借入れ理由として多いのは稼ぎ手が病や怪我で倒れてしまった場合で、威は嘆息しながら「恩情ある決断」を下していく。
「やはり四区がもっとも手がかかる。僕としては愉快だけど」
祇矩藤家が治めるここ春嵐は、居住地が四区画に分けられている。祇矩藤の屋敷を兼ねた〔春日〕がすぐ側にある一区、二区は威厳が絶大、三区は〔春日〕が遠くとも外部と唯一の出入り口になっている門を構えているため影響著しいが、四区は三区と同じく〔春日〕が遠いことに加えて門もない。祇矩藤の権力を他と比べると実感しづらいところがあった。
瑞矢は威の言葉には反応せず、黒目を伏せて唇を一文字に結んでいた。なぜ愉快なのか、その理由を理解しているために。
次の書類に目を通す。狄塚克登、と書かれている。もはや見慣れた名前だ。始めのうちは借入と返済を繰り返していたが、徐々に額が大きくなり、返済と釣り合わなくなっていた。それでも本人のつよい希望と、かつてのまじめな返済態度により、貸付を続けていた、のだが。
「額が膨大になりすぎているね」
はたしてほんとうに完済できるのか、怪しい金額だ。少なくとも春嵐では賭場で大穴を当て続けないかぎりは無理だろうと思われた。一生かけて休みなしに働いたとしても、威が把握しているかぎりではどの職についても不可能だ。いや、たったひとつだけあるにはある。ただ、克登本人では就けない。
あるいは外部、つまり春嵐の外に出て別の町であれば何か稼げる方法があるのかもしれないが、そのまま逃亡されては祇矩藤にとっても大損だ。認めることはできない。
「現在、狄塚克登、そしてその妻である早彰は、二人そろって外部に出ています。借入れ理由でもあった医療研究がうまくいったようで、目的地は高瀬と報告されています」
「高瀬か。あそこは医学に特化した町だからな」
それならばこれまでの態度を見ても、おそらく狄塚はきちんと返済してくるだろう。この先まだ返済をしないまま借入を申しこんでくるようであれば貸付を打ち止めにする程度で問題ない。威は怠惰な気持ちで文面を眺める。娘が春嵐に残っているうえ、目的地と不在期間をきちんと提出されている以上、現在は帰りを待つしかない。
娘。
補足の部分を目にして、威は姿勢を正した。
娘、狄塚仄羽。桃色の髪に黒目、と記載されている。なんということだろう。その一文は体中の血が熱を持ったがごとく、威を興奮させた。数年ぶりの感覚だ。主人の変化を感じとった瑞矢が薄く眉間に皺を寄せる。
「瑞矢」
まったく無邪気に、威は紅い瞳を細めて微笑んだ。
「この娘、手に入れるぞ」
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