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第二章
07 〈無限の回廊の世界〉
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憂鬱な日曜日から、早くも約一週間が経過した。
舞織と常闇紳士は、異世界デートの前に、舞織の自宅のダイニングルームで紅茶を飲んで寛いでいた。
舞織は、自分がどのような仕事をしているのかを説明したうえで、仕事中に起こったハプニングや、同じ職場の人間たちに関するエピソードを、出来るだけ明るい内容のものを選んで話した。蓮や雪美との顛末を愚痴りたくもあったが、こんな自分に一目惚れしてくれた風変わりな求婚者に、余計な心配や嫌な思いをさせたくなかったので我慢した。
──ただでさえデート前なんだからね。
常闇紳士は、舞織の祖父・真也との交流や、そもそもの出会ったきっかけを語った。真也は口数こそ少なかったが、自由気ままにやって来る常闇紳士を一切拒まず、自ら茶を振る舞ったり、絵画を教える事もあったという。性格の異なる者同士だったが、不思議と馬が合ったようだ。
二人が出会ったのは、真也が画家としての活動を始めてから間もない頃。〈炎の魔女と氷の女王の世界〉で一悶着あった常闇紳士が、逃げるようにして転移して来たのが、昼の時間帯のこの世界だった。
「初めて訪れたんだからね、せっかくだから、あちこち見て回ろうと思ったんだけれど、目立ってしまって。なるべく人気のない場所を選んでうろついていたら、木の下で美しい風景画を描いている男性がいた──それが真也さ」
当初、真也は常闇紳士に興味を示さなかったが、金色の猫の目に気付くと、一体何者なのかと問うてきた。
「〈永遠の夜の世界〉から来た夜魔だと答えたら、何だそりゃ、意味不明だって怪訝な顔をしたから、その場で姿を消したり飛空してみせたんだ。そうしたら、どういう事だと困惑しつつも信用してくれてね」
「普通はそういう反応よ……いやむしろ、冷静な方かもしれないわ」
「舞織も似たような反応だったね」
「うん……そうだった」舞織は苦笑し、紅茶に口を付けた。
「ところで、今日これから向かう世界には、傘か帽子を持ってゆくのもいいかもしれない」
舞織は顔を上げた。「雨降ってるんだ?」
「ああ。基本的に毎日、小雨がね。その名も〈降り止まぬ小雨の世界〉」
「毎日? 小雨とはいえ暮らしにくそうね」
「確かに、我々の感覚だとそうだね。しかし、あの世界の住民にとっては当たり前の事だからね」
「へえ、本当に色々な世界があるのね。あ、それじゃあ、さっき言ってた世界はどんな?」
「さっき……〈炎の魔女と氷の女王の世界〉かな」
「そうそう、それ」
「ああ……うん、あの世界か……あれはねえ……」
常闇紳士は声を沈ませ、表情を曇らせた。彼らしくない珍しい様子に、舞織は不安を掻き立てられた。
「何があったのか……良かったら教えてほしいわ。勿論、無理にとは言わないけど」
「興味あるかい?」
「ええ。あなたから陽気さを奪ってしまうような世界だもの、よっぽど強烈なのかなって」舞織は冗談めかして言うと、優しい口調で付け加えた。「それにほら、話す事で少しはスッキリするかもしれないじゃない?」
「そうか……うん、そうだね」
常闇紳士はマグカップを取り、ゆっくりと口元に運んだ。たったそれだけの所作でも優雅で、舞織は思わず見とれた。
「好奇心を抑え切れなくて、昔から様々な異世界に出向いているけれど」マグカップをテーブルに置くと、常闇紳士は切り出した。「未だに足を運んでいない世界は数多い。そもそも存在すら知らない世界だって、まだまだあるはずだ。真也と出会う前に訪れたのも、そんな世界の一つだった……」
その日、常闇紳士は普段以上にご機嫌だった。
古くからの友人である〝叢雲紳士〟と、その伴侶である〝微睡夫人〟の間に、待望の第一子が誕生したとの知らせを受けたからだ。祝いの品を贈らなくては!
さて、ではどんなものにしようか。子供用の服や玩具などは、他の友人らが贈るだろうし、ありきたりではつまらない。
考えた末、常闇紳士は〈永遠の夜の世界〉には存在しないものを探しに行こうと決めた。叢雲紳士は異世界の存在を、そして常闇紳士に異世界転移能力がある事を信じており、話を聞かせる度に羨ましがっていた。
せっかくなので、自身も未だ訪れた事のない世界へランダムに移動してみよう。元の世界から離れ過ぎなければ、時間の流れの違いは大きくならないはずだし、危険だと判断したらすぐに去ればいい。
「……そんなわけで最初に訪れたのが〈無限の回廊の世界〉さ。ああ、〈炎の魔女と氷の女王の世界〉は、その後に訪れるんだけれど……少々長くなるから、前者は省略しようか」
「ううん、聞きたい!」
「そうかい? じゃあそちらも話すよ」常闇紳士は嬉しそうに答えると──本当は話したかったのだろう──紅茶の最後の一口を飲み干した。「ごちそうさま」
「おかわりいる?」
「いいや、大丈夫。美味しかったよ、有難う」
常闇紳士がふわりと微笑んでみせると、舞織は、今度は紅茶だけでなく手作り料理を振る舞いたいと強く思った。
「〈無限の回廊の世界〉は、名前の通り、世界そのものが回廊となっていて、何処まで行っても途切れない」
常闇紳士は、舞織が二人分のカップを片付けて戻って来ると再び口を開いた。
「人型の生き物はいたけれど、あれらは間違いなく人間でも夜魔でもなかった。壁の至る所にドアがあって、その中は住居になっているようだったけれど、意味不明な言語やら鳴き声しか聞こえてこなかった」
「だいぶ変わってるわね……」
「しばらく歩き続けてみたけれど、とてもじゃないが出産祝いに適したものなんて見付かりそうにもなかった。しかも途中で、何かに後を尾けられている事にも気付いてね」
「……何か?」舞織は目をパチクリさせた。「誰かじゃなくて?」
「ヒタヒタと足音をさせながら小走りで追って来て、荒い息、時々唸り声。更に舌舐めずりまでするような奴を〝誰か〟だなんて呼びたくないかな、と」
「えと……姿は見なかったの?」
「振り返ったら最後、いやむしろ最期のような気がしてね。歩きながら移動能力を発動させて、その場から退散したんだ。それ以来、あの世界には行っていない。うん、実に多種多様だよね」
「そ、そうね……まあ、少なくともデートには遠慮したい世界だわ」
「それは良かった! 行ってみたいなんて言われたら、どうしようかと」常闇紳士は芝居掛かった大袈裟な動きで胸を撫で下ろした。
「まさか!」
舞織が笑うと、常闇紳士もいたずらっぽく笑ってみせた。
「で、転移した先が〈炎の魔女と氷の女王の世界〉だったわけだけれど」常闇紳士は笑顔を若干強ばらせた。「私個人としてはね、もう一度あの世界に行くくらいなら、〈無限の回廊の世界〉に行く方が多少はマシかなとさえ思っているよ」
舞織と常闇紳士は、異世界デートの前に、舞織の自宅のダイニングルームで紅茶を飲んで寛いでいた。
舞織は、自分がどのような仕事をしているのかを説明したうえで、仕事中に起こったハプニングや、同じ職場の人間たちに関するエピソードを、出来るだけ明るい内容のものを選んで話した。蓮や雪美との顛末を愚痴りたくもあったが、こんな自分に一目惚れしてくれた風変わりな求婚者に、余計な心配や嫌な思いをさせたくなかったので我慢した。
──ただでさえデート前なんだからね。
常闇紳士は、舞織の祖父・真也との交流や、そもそもの出会ったきっかけを語った。真也は口数こそ少なかったが、自由気ままにやって来る常闇紳士を一切拒まず、自ら茶を振る舞ったり、絵画を教える事もあったという。性格の異なる者同士だったが、不思議と馬が合ったようだ。
二人が出会ったのは、真也が画家としての活動を始めてから間もない頃。〈炎の魔女と氷の女王の世界〉で一悶着あった常闇紳士が、逃げるようにして転移して来たのが、昼の時間帯のこの世界だった。
「初めて訪れたんだからね、せっかくだから、あちこち見て回ろうと思ったんだけれど、目立ってしまって。なるべく人気のない場所を選んでうろついていたら、木の下で美しい風景画を描いている男性がいた──それが真也さ」
当初、真也は常闇紳士に興味を示さなかったが、金色の猫の目に気付くと、一体何者なのかと問うてきた。
「〈永遠の夜の世界〉から来た夜魔だと答えたら、何だそりゃ、意味不明だって怪訝な顔をしたから、その場で姿を消したり飛空してみせたんだ。そうしたら、どういう事だと困惑しつつも信用してくれてね」
「普通はそういう反応よ……いやむしろ、冷静な方かもしれないわ」
「舞織も似たような反応だったね」
「うん……そうだった」舞織は苦笑し、紅茶に口を付けた。
「ところで、今日これから向かう世界には、傘か帽子を持ってゆくのもいいかもしれない」
舞織は顔を上げた。「雨降ってるんだ?」
「ああ。基本的に毎日、小雨がね。その名も〈降り止まぬ小雨の世界〉」
「毎日? 小雨とはいえ暮らしにくそうね」
「確かに、我々の感覚だとそうだね。しかし、あの世界の住民にとっては当たり前の事だからね」
「へえ、本当に色々な世界があるのね。あ、それじゃあ、さっき言ってた世界はどんな?」
「さっき……〈炎の魔女と氷の女王の世界〉かな」
「そうそう、それ」
「ああ……うん、あの世界か……あれはねえ……」
常闇紳士は声を沈ませ、表情を曇らせた。彼らしくない珍しい様子に、舞織は不安を掻き立てられた。
「何があったのか……良かったら教えてほしいわ。勿論、無理にとは言わないけど」
「興味あるかい?」
「ええ。あなたから陽気さを奪ってしまうような世界だもの、よっぽど強烈なのかなって」舞織は冗談めかして言うと、優しい口調で付け加えた。「それにほら、話す事で少しはスッキリするかもしれないじゃない?」
「そうか……うん、そうだね」
常闇紳士はマグカップを取り、ゆっくりと口元に運んだ。たったそれだけの所作でも優雅で、舞織は思わず見とれた。
「好奇心を抑え切れなくて、昔から様々な異世界に出向いているけれど」マグカップをテーブルに置くと、常闇紳士は切り出した。「未だに足を運んでいない世界は数多い。そもそも存在すら知らない世界だって、まだまだあるはずだ。真也と出会う前に訪れたのも、そんな世界の一つだった……」
その日、常闇紳士は普段以上にご機嫌だった。
古くからの友人である〝叢雲紳士〟と、その伴侶である〝微睡夫人〟の間に、待望の第一子が誕生したとの知らせを受けたからだ。祝いの品を贈らなくては!
さて、ではどんなものにしようか。子供用の服や玩具などは、他の友人らが贈るだろうし、ありきたりではつまらない。
考えた末、常闇紳士は〈永遠の夜の世界〉には存在しないものを探しに行こうと決めた。叢雲紳士は異世界の存在を、そして常闇紳士に異世界転移能力がある事を信じており、話を聞かせる度に羨ましがっていた。
せっかくなので、自身も未だ訪れた事のない世界へランダムに移動してみよう。元の世界から離れ過ぎなければ、時間の流れの違いは大きくならないはずだし、危険だと判断したらすぐに去ればいい。
「……そんなわけで最初に訪れたのが〈無限の回廊の世界〉さ。ああ、〈炎の魔女と氷の女王の世界〉は、その後に訪れるんだけれど……少々長くなるから、前者は省略しようか」
「ううん、聞きたい!」
「そうかい? じゃあそちらも話すよ」常闇紳士は嬉しそうに答えると──本当は話したかったのだろう──紅茶の最後の一口を飲み干した。「ごちそうさま」
「おかわりいる?」
「いいや、大丈夫。美味しかったよ、有難う」
常闇紳士がふわりと微笑んでみせると、舞織は、今度は紅茶だけでなく手作り料理を振る舞いたいと強く思った。
「〈無限の回廊の世界〉は、名前の通り、世界そのものが回廊となっていて、何処まで行っても途切れない」
常闇紳士は、舞織が二人分のカップを片付けて戻って来ると再び口を開いた。
「人型の生き物はいたけれど、あれらは間違いなく人間でも夜魔でもなかった。壁の至る所にドアがあって、その中は住居になっているようだったけれど、意味不明な言語やら鳴き声しか聞こえてこなかった」
「だいぶ変わってるわね……」
「しばらく歩き続けてみたけれど、とてもじゃないが出産祝いに適したものなんて見付かりそうにもなかった。しかも途中で、何かに後を尾けられている事にも気付いてね」
「……何か?」舞織は目をパチクリさせた。「誰かじゃなくて?」
「ヒタヒタと足音をさせながら小走りで追って来て、荒い息、時々唸り声。更に舌舐めずりまでするような奴を〝誰か〟だなんて呼びたくないかな、と」
「えと……姿は見なかったの?」
「振り返ったら最後、いやむしろ最期のような気がしてね。歩きながら移動能力を発動させて、その場から退散したんだ。それ以来、あの世界には行っていない。うん、実に多種多様だよね」
「そ、そうね……まあ、少なくともデートには遠慮したい世界だわ」
「それは良かった! 行ってみたいなんて言われたら、どうしようかと」常闇紳士は芝居掛かった大袈裟な動きで胸を撫で下ろした。
「まさか!」
舞織が笑うと、常闇紳士もいたずらっぽく笑ってみせた。
「で、転移した先が〈炎の魔女と氷の女王の世界〉だったわけだけれど」常闇紳士は笑顔を若干強ばらせた。「私個人としてはね、もう一度あの世界に行くくらいなら、〈無限の回廊の世界〉に行く方が多少はマシかなとさえ思っているよ」
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