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第八章
第四話 狂気
しおりを挟むじわりと感じる生暖かいものは、血液。皮膚が浅く切れたのだろう。
亮とて、多少は腕に覚えもある。とはいえあくまで護身術の域を大幅に超えるものではなく、月龍とは比較にもならない。
正面切って戦ってすら勝てないというのに、押さえつけられたこの状況を覆す術など、あるはずもなかった。
月龍の、深い湖を思わせる暗い光が、亮を真っ直ぐに射貫いている。
ごくりと、亮は空気を飲み下した。
「おれを――殺すつもりか」
問いかけに、月龍は眉一つ動かさない。本気を示す表情だった。
「なるほど。そうすればおれに蓮を奪われずにすむ。お前にしては考えたものだ」
背中に冷たい汗を滲ませながらも、口の端に笑みを引く。
「――そう言ってやりたいところだが、やはり配慮が足りんな。忘れたのか。あれにとっておれは、大切なお兄さまなのだぞ。それを殺せば、お前は間違いなく恨まれる。ましておれは王子だぞ? 唯一の王位継承者だ。当然、お前も無事ではすむまいな」
掠れた声ながら、発したのは脅迫だった。死の危険にさらされてもなお、月龍に命乞いなどしたくなかった。
もっとも、口にしたのは純然たる事実である。
厳しかった月龍の口元が、ふっと緩んだ。
「覚悟の上だ。お前に――他の男に奪われるくらいならばな。お前を殺して――蓮を道連れに、おれも死ぬ」
静かすぎる月龍の声が、怒鳴られるよりもよほど恐怖心を煽る。
月龍を支配するのは、尋常ならざる決意だった。瞳に宿る暗い輝きは、理性ではあり得ない。ちらちらと、狂気の影が見え隠れしていた。
これが、月龍の蓮に対する愛情の深さ。
――そう見て取れてしまうことが、悔しかった。
「それほどに蓮が好きか」
「好きだ。心の底から愛している」
なにを当然のことを、とでも言いたげな口調だった。不快そうに歪められた月龍の眉が、亮の理性にもひびを入れる。
「愛している、だと?」
はっ、と一声洩らした。
刃を突き立てられた状況も、忘れる。そして、大声を上げて笑い始めた。顔をのけ反らせた拍子に、肌が更に深く傷つく。
それも気にならなかった。
額を片手で押さえ、天を仰いで狂ったように笑う姿に、月龍もさすがにたじろいだのだろう。亮の肩を掴んでいた手を離し、軽く体を起こした。
もっとも、怯んだとはいっても亮を解放したわけではない。未だ、亮に馬乗りのままだった。
わずかに離れた距離をつめたのは、亮の方である。肘を床に突き、微かに背を浮かせた。
「よくものようなことが口にできたな」
ぴたりと哄笑を止める。身を引いた月龍の、喉元に噛みつくような勢いだった。
「ならば何故、他の男に抱かれろなどと言った。それが惚れた女への言葉か」
「だが――あれは蓮と別れるため――彼女のために、やむを得なかった」
「他にいくらでも言葉はあろう。お前は、蓮のすべてを否定したのだぞ」
「そのようなつもりは――」
「お前のつもりなど知らん。少なくとも蓮は、己にはなんの価値もないと、お前の言葉のせいで思いこんだのだぞ。身分と体――あとはおれの身代わりだったか? それだけの価値で、蓮としての人格も存在もすべて意味のないものだとな」
「それは」
「お前に抱かれる度に、道具でしかないことを思い知らされて。どうせ気づいてもいないのだろう、お前は。蓮は毎夜毎晩泣いているのだぞ」
「だがおれも」
「辛かった、か? よくも言えたものだ、お前はただの自業自得ではないか」
月龍に反論も許さず、言い立てる。
「お前には理解できないだろう。あれがどのような想いでおれに抱かれたのか。おれに抱かれながら、蓮は泣いていた」
「――」
「わからんだろうな。おれがどのような想いで蓮を抱いたか。理解できるか? 惚れた女が、他の男を想って腕の中で泣く気持ちが」
「――惚れた女――?」
呆然と月龍が呟く。圧倒され、言われるがままになっていた顔に、驚愕が浮いた。
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