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第八章
第五話 滴
しおりを挟む「――惚れた女――?」
驚愕のあまりだろうか。見開かれた目で、月龍が呆然と呟く。
まさかと続いた声も、微かな空気の震えにすぎない。
亮の目に、月龍の喉仏が上下するのが見えた。
「お前――蓮を?」
掠れた問いかけに、口元をにやりと歪めて見せる。
「そうだ、おれは蓮を愛している。幼い頃からずっとだ。お前などよりも長い年月、おれは蓮の幸せを願ってきた。――お前は、蓮を不幸にする。任せるわけにはいかない」
「――ふざけるな」
怒りとも焦りともつかぬ表情が、月龍の面を飾る。震えた声に、怯えの色すら見えた。
「なにが愛しているだ。それこそよく言えたものだ。お前がおれと蓮を仲介したのではないか。それを今更――」
「その点については弁明もない。お前に奪われて初めて気づいたのだから、鈍い話だ」
くくっと喉を鳴らす。
「蓮との結婚を渋っていた理由もな。先ほども言ったろう、政略結婚が嫌だったと。おれの后となれば、否応なく道具として政治の世界に巻き込まれる。蓮を、道具になどしたくなかった。――愛する女が身分も与えてくれると浮かれていたどこぞの莫迦とは違うのだ」
「――っ」
「考えてもみろよ、なぁ月龍。確かに今は、蓮の気持ちはお前を向いているかもしれない。だがそれがいつまで続くと思う? このおれが傍に居るのだぞ。誰よりも強い絆で結ばれたこのおれが、だ。想像できないか? おれの横で幸せそうに微笑む、蓮の姿を」
月龍の唇が、微かに震えている。顔色を失い、大きく見開かれた目は、左右に揺れていた。
恐慌状態に陥っているのか、ただただ荒い呼吸をくり返している。
逡巡しているのが見て取れた。
亮の言葉に誘発されて思い描いてしまったのだろう。仲睦まじく暮らす、亮と蓮の姿を。
そこに蓮の幸せがあるのではないかと考えているに違いない。
迷うのは、月龍の気持ちも本物だからだ。
亮に奪われたくない、けれど蓮の幸せも守りたい。
――そこには月龍がいつも抱えている、自己否定が根底にある。
月龍と亮、どちらと共にあるのが幸せかは明白だ。少なくとも月龍は、亮の方が上だと思っている。
――それこそが、蓮の気持ちなど理解できていない証拠だとも知らずに。
はっ、と嘲笑を浴びせる。
「わかったか。ならば潔く身を引け。お前とて蓮を不幸せにはしたくなかろう。安心しろ、おれが必ず――」
「黙れ――!」
混乱の中、叫びを上げた月龍には錯乱の影が見えた。戸惑いも迷いも忘れ去ったか、再び亮を押し倒す。
制止の声を上げる間もなかった。懐剣を持つ左手を高々と掲げて、振り下ろす。
迫りくる刃の煌めきに、目を閉じることさえできなかった。瞳孔を開いたまま、白刃の行方を追う。
頬をかすめ、づか、と刀が突き立ったのは、亮の首から一寸も離れていない床の上だった。
「蓮と共にあるのは――幸せにするのは、おれだ」
突き立てた懐剣の柄を握り直し、月龍が低く呟く。少し傾けられた冷たい刃は、ぴたりと亮の喉に当たっていた。
このまま月龍が体重をかけて一押しすれば、亮の首は切断される。承知の上で覚悟を決め、鼻先で笑って見せる。
「なにを今更――」
戯言を。
続けようとした亮を遮ったのは、冷たい滴だった。
ぽたりと頬に落ちたそれに、眉をひそめる。白刃に向けていた目を月龍へと上げて、愕然とした。
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