異世界は音楽と共に

第1話 異世界の音色

音には、不思議な力がある──。

伊東奏はそれを幼い頃から知っていた。
母が眠れない夜にそっと部屋で流してくれた静かなピアノ曲。学校の体育館で、友人たちと肩を並べて歌った合唱の力強さ。

雨の日には窓越しに聞こえてくる水滴のリズムに耳を澄ませば、四季を感じることができる。
甲高い金属音や大音量の音は不快感を覚える。

音は目に見えないし形もない。それでも確かに心に触れ、慰め、励まし、そして時には新しい感情を呼び覚ましてくれる。
そして私達は音と共に暮らしている。だからこそ、奏は音楽の魅力に取り憑かれたのだ。

奏とって音楽は「生きる証」だった。

幼い頃の記憶の中で、最初に触れたピアノは祖母の家の片隅に置かれていた古びたアップライトピアノだった。

音が不揃いで、鍵盤のいくつかはもう鳴らない。それでもその響きには、特別な魅力があった。

まだ幼かった奏は、そのピアノに触れることでまるで未知の世界を探る探検家のような気分になった。母が隣で微笑みながら弾いてくれる「エリーゼのために」は、彼にとって最初の音楽の記憶だ。

だが今、その心の奥底で輝いていた「音の力」は、どこか霞み始めていた。


奏は夕焼けに染まる自室で、ピアノの前に座っていた。窓の外にはオレンジ色に染まる雲がゆっくりと流れ、遠くで誰かの笑い声が聞こえる。それでも奏の心は空っぽだった。

鍵盤の上を動く指先は滑らかで、一音も間違えない。けれど、その音はどこか冷たく、乾いた響きに聞こえる。

「…この音、違うな」

そうつぶやきながら、奏は演奏を止めた。

譜面台に置かれた楽譜をじっと見つめても答えは出ない。何が違うのか、自分でもわからない。ただひたすら心に重くのしかかる違和感が、指先を鈍らせていた。

音楽大学に進むことを夢見て、奏はこれまでの人生を音楽に捧げてきた。技術も理論も、誰にも負けないようにと努力してきた。実際、周囲からの評価は高かった。しかし、それが自分自身の心を満たすものではなかった。

「音楽が好きなはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう…」

ピアノの蓋をそっと閉じ、奏はふいに立ち上がった。

気分転換に外へ出ると、街は夕暮れの独特な静けさに包まれていた。通りを行き交う人々の足音がアスファルトに響き、薄暗い空にぼんやりと街灯が灯り始めている。

奏は自分でも理由が分からないまま歩き始めた。心に溜まったモヤモヤを紛らわせたくて、ただ前へ進む。いつもの雑貨屋で買い物を済ませた後、気づけば近くの公園まで足を延ばしていた。

木々に囲まれた静かな公園。誰もいないベンチに腰を下ろす。空気は少し冷たく、冬の訪れを予感させる。

「何かが変わればいいのに…」

呟いた言葉は誰にも届かず、冷たい風にさらわれていった。そのとき、遠くから聴こえてきたのは静かなバイオリンの音だった。