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壱
邂逅
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子どもの世界には何もなかった。
用意された広い屋敷も、自分の世話をする使用人たちも、嘲笑も、侮蔑も、彼にとってどうでもいいものだった。
ただ月に1度、たった数時間だけ自分に会いに来てくれる父親だけが子どもの生きる意味で、存在している証だった。
「雅冬、元気にしていたかい?」
実母に追い出されるように母屋から離れに移され、その中でも一番上等の部屋の上座で自分を抱き上げる人。
雅冬と呼ばれた子どもはにこりと笑うことさえせずにただコクリと頷いた。
その様子に彼を抱き上げて膝に乗せている男が哀しげに眉を下げた。
自分ではもうこの子を救えない。
仕事だのなんだのと言い訳ばかりしてこの子をほったらかしにしていた自分の罪だ。
昔はもっと、表情が豊かだったと思う。
それさえ遠い記憶でひどく曖昧だった。
いつからこうなってしまったのかさえ自分には見当がつかない。
ただ妻が、当てつけのようにこの子の兄ばかりを可愛がりこの子を母屋から追い出した時にはもう手遅れだったのだと思う。
きっとその時にはもう、この子は笑顔など忘れてしまっていたのだろう。
黙って自分の膝に抱きあげられている我が子の頭をひと撫でして男は息子に声をかけた。
「なぁ、雅冬。お前に父上のとっておきをやろうか」
自分はあとどのくらい罪を重ねるのだろう。
あいつは、あの人は、あの子は、きっと私を許さないだろう。
けれど、もうこの子を救うにはこの方法しかないのだ。
あけ放たれた障子の先、覗く庭園のその中で太陽の光を一身に浴びる麗人。
咲き誇る華を愛でるその姿は庭を彩るそれに負けていない。
ずっと眺めていたい。
その感情のまま食い入るようにその光景を見ていた雅冬を父の声が現実に連れ戻した。
「あれだよ。とても綺麗だろう?
――――――紫月」
その声に反応するようにその人は花から視線を自分たちへと移しふわりと微笑んだ。
「お久しぶりにございます。殿」
静かな声だった。
温かくて柔らかくて、でも父のそれとは違う雅冬の知らない種類の声だった。
流れるような動作で文句のつけようのない作法で部屋に上がり対面したのはまだ元服したばかりの少年だった。
いや、男の格好をしているだけで実は女なのかもしれない。
そう思うほどに整った顔立ちの少年だった。
「よく来たね」
「お呼びとあらば、駆けつけぬわけには参りませんから」
丁寧な口調とは裏腹に茶目っ気たっぷりの声に雅冬は目を瞬く。
少なくとも自分は父に対してこんな口のきき方をする者をしらない。
大抵のものは媚びるような態度を取るし、例外である藍堂はいつも怒っている。
「雅冬、これが父上のとっておきだよ」
「はじめまして、若君。
藍堂黎季が長子、紫月と申します」
にっこりと声と同じ柔らかい微笑を浮かべた少年に雅冬は混乱した。
藍堂。
それは父の右腕の姓。
つまり、将来を約束された家の息子。
それがどうして、次期当主である兄ではなく自分のところなんかに?
一体この事にどんな意味がある?
裏に張り巡らされているものは何だ?
ぐるぐると回る思考の海の中で雅冬はただただ綺麗な微笑を見ているしかできなかった。
その様子を笑みを浮かべながらじっと観察していた紫月は非難の視線を雅冬を抱き上げている男へ向ける。
けれどそれに気付いた雅冬がビクリと肩を揺らしたのを見て慌てて視線を雅冬に戻した。
「若君のお名前を教えてはいただけませんか?」
「……しらないのか?」
「若君の口から聞きたいのです」
「まさふゆ、おれは、とうじょうまさふゆ」
感情のこもらない淡々とした声だった。
けれど少年はにっこりと微笑んで返した。
「では雅冬様、今日この時より私が貴方様のお世話をさせていただくことを許してくださいますか?」
その言葉に雅冬は再び混乱の渦の中に落ちた。
「あにうえじゃないのか?」
「はい」
「おれは、ちちうえのあとはつげないぞ?」
「はい」
「おれは、いらないこなのに?」
「雅冬様、私がお仕えしたいのは兄君ではなく貴方様です。
私は、私の主は貴方がいい。
だから、いらないなどと仰らないでください。」
その言葉に無表情だった子どもの顔がくしゃりと歪んだ。
「どう、して……」
だって、母上が俺はいらない子だと言った。
使用人たちだって役立たずの子どもだと言った。
忌み嫌われる存在だと嘲笑っていた。
なのに、どうして目の前の微笑みに陰りがみあたらない?
策略や陰謀の影が見当たらない?
どうして、どうして、どうして、
「よく、頑張られましたね。
これからは紫月も共にその重荷を背負わせてください」
気付けば細くしなやかな指が頭を撫でていて、
父上よりずっと細い体にしがみ付いて声をあげて泣いていた。
用意された広い屋敷も、自分の世話をする使用人たちも、嘲笑も、侮蔑も、彼にとってどうでもいいものだった。
ただ月に1度、たった数時間だけ自分に会いに来てくれる父親だけが子どもの生きる意味で、存在している証だった。
「雅冬、元気にしていたかい?」
実母に追い出されるように母屋から離れに移され、その中でも一番上等の部屋の上座で自分を抱き上げる人。
雅冬と呼ばれた子どもはにこりと笑うことさえせずにただコクリと頷いた。
その様子に彼を抱き上げて膝に乗せている男が哀しげに眉を下げた。
自分ではもうこの子を救えない。
仕事だのなんだのと言い訳ばかりしてこの子をほったらかしにしていた自分の罪だ。
昔はもっと、表情が豊かだったと思う。
それさえ遠い記憶でひどく曖昧だった。
いつからこうなってしまったのかさえ自分には見当がつかない。
ただ妻が、当てつけのようにこの子の兄ばかりを可愛がりこの子を母屋から追い出した時にはもう手遅れだったのだと思う。
きっとその時にはもう、この子は笑顔など忘れてしまっていたのだろう。
黙って自分の膝に抱きあげられている我が子の頭をひと撫でして男は息子に声をかけた。
「なぁ、雅冬。お前に父上のとっておきをやろうか」
自分はあとどのくらい罪を重ねるのだろう。
あいつは、あの人は、あの子は、きっと私を許さないだろう。
けれど、もうこの子を救うにはこの方法しかないのだ。
あけ放たれた障子の先、覗く庭園のその中で太陽の光を一身に浴びる麗人。
咲き誇る華を愛でるその姿は庭を彩るそれに負けていない。
ずっと眺めていたい。
その感情のまま食い入るようにその光景を見ていた雅冬を父の声が現実に連れ戻した。
「あれだよ。とても綺麗だろう?
――――――紫月」
その声に反応するようにその人は花から視線を自分たちへと移しふわりと微笑んだ。
「お久しぶりにございます。殿」
静かな声だった。
温かくて柔らかくて、でも父のそれとは違う雅冬の知らない種類の声だった。
流れるような動作で文句のつけようのない作法で部屋に上がり対面したのはまだ元服したばかりの少年だった。
いや、男の格好をしているだけで実は女なのかもしれない。
そう思うほどに整った顔立ちの少年だった。
「よく来たね」
「お呼びとあらば、駆けつけぬわけには参りませんから」
丁寧な口調とは裏腹に茶目っ気たっぷりの声に雅冬は目を瞬く。
少なくとも自分は父に対してこんな口のきき方をする者をしらない。
大抵のものは媚びるような態度を取るし、例外である藍堂はいつも怒っている。
「雅冬、これが父上のとっておきだよ」
「はじめまして、若君。
藍堂黎季が長子、紫月と申します」
にっこりと声と同じ柔らかい微笑を浮かべた少年に雅冬は混乱した。
藍堂。
それは父の右腕の姓。
つまり、将来を約束された家の息子。
それがどうして、次期当主である兄ではなく自分のところなんかに?
一体この事にどんな意味がある?
裏に張り巡らされているものは何だ?
ぐるぐると回る思考の海の中で雅冬はただただ綺麗な微笑を見ているしかできなかった。
その様子を笑みを浮かべながらじっと観察していた紫月は非難の視線を雅冬を抱き上げている男へ向ける。
けれどそれに気付いた雅冬がビクリと肩を揺らしたのを見て慌てて視線を雅冬に戻した。
「若君のお名前を教えてはいただけませんか?」
「……しらないのか?」
「若君の口から聞きたいのです」
「まさふゆ、おれは、とうじょうまさふゆ」
感情のこもらない淡々とした声だった。
けれど少年はにっこりと微笑んで返した。
「では雅冬様、今日この時より私が貴方様のお世話をさせていただくことを許してくださいますか?」
その言葉に雅冬は再び混乱の渦の中に落ちた。
「あにうえじゃないのか?」
「はい」
「おれは、ちちうえのあとはつげないぞ?」
「はい」
「おれは、いらないこなのに?」
「雅冬様、私がお仕えしたいのは兄君ではなく貴方様です。
私は、私の主は貴方がいい。
だから、いらないなどと仰らないでください。」
その言葉に無表情だった子どもの顔がくしゃりと歪んだ。
「どう、して……」
だって、母上が俺はいらない子だと言った。
使用人たちだって役立たずの子どもだと言った。
忌み嫌われる存在だと嘲笑っていた。
なのに、どうして目の前の微笑みに陰りがみあたらない?
策略や陰謀の影が見当たらない?
どうして、どうして、どうして、
「よく、頑張られましたね。
これからは紫月も共にその重荷を背負わせてください」
気付けば細くしなやかな指が頭を撫でていて、
父上よりずっと細い体にしがみ付いて声をあげて泣いていた。
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