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FILE1『倶楽部』
1・転校生
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しんと静まり返ったこの室内とは対照的に、時折窓の外から聞こえる無邪気な笑い声がやたらと耳に響く。
誰もいなくなったこの教室には西日が差し込み、ぼくの心を焦燥感で募らせる。
夕焼け色に染まった画用紙にぽたりと垂れた一滴の液体は、じわりと緑色に淀み、歪んだ円に色を変えた。
我に返ったぼくは、慌ててティッシュペーパーで絵の具を拭き取ると、後頭部で両手を組んで大きくため息をつく。突然の難題に思わず出たため息だった。
白い画用紙に垂れた一滴の絵の具は、滲んだ程度で済んだ。これから『家族との思い出』を描くにあたって、差し当たり不具合はないように感じる。
絵心のないぼくに、非情な課題を出してくれた川野先生は、すでに職員室に戻っている。終わったら持って来なさいと笑っていたけれど、今日一日で仕上がる気がしなかった。
「そろそろ課題、終わった?」
ふと後方のドアがそっと開いて、静かに声をかけられた。ぼくは声のした方を振り返ってみる。影の薄そうな佇まいの少年が、こちらを見て切れ長の目を静かに瞬きさせていた。
「いや、全然終わってない」
肩を竦めて合図を送ると、一瞬目を丸くした少年は、ぼくの机へと足音を立てずに近付いてきて、白紙の画用紙を見下ろした。忍者のように静かな人だというのが彼に対する第一印象だった。
「本当だ、全然描けてないじゃないか。もう四時だけど、今日中に終わらないようだったら宿題にしてもらうよう先生に掛け合ってくるよ」
大人しそうな顔立ちの男子生徒は、ぼくにそう言うと隣の席に座った。すでに下校時間になっているのに、まだ学校に残っているなんて、奇特な生徒だとぼんやり男子生徒を眺めてみる。
「それはありがたいけど、絵の具を家に持って帰る手間の方が大変だから、ここでやっていくよ。ええと……」
間を置いて男子生徒は口元を少し上げると、静かに笑った。
「俺は柏木 司、図工係。よろしく、大谷 たくみくん」
ぼくは柏木 司の顔を見ながら、慌てて口を開いた。
「悪い、図工係だったのか。おれの課題が終わるまで帰れないんだな。急いで描くよ」
「いや、違うから気にせずゆっくり描けよ。それにしても転校早々図工の課題をやり終えてから帰れなんて、どう考えても無理だよ。俺たちは今週の頭から描き始めていたけど、大谷は今日からだろ?」
「まあね」
ぼくは筆を置きながら一息ついた。思い出らしい思い出といえば、去年行った那須高原への旅行くらいしか思い浮かばないが、その様子を絵に描けと言われても難しい。後は野球観戦だったり、近くの公園で遊んだり、そんな感じの休日を家族とは過ごしているし、やはりここは那須高原旅行のことを絵に描いておきたいところだ。
「え、下書きなしで描くつもり?」
ぼくが置いた筆を見て、驚いたように柏木が言った。ぼくはその柏木の反応に逆に驚く。
「そうだよ。トロトロ下書きなんかしていたら、今日中に提出できないし」
「大物だなあ」
苦笑した柏木に、ぼくは肩を竦めて首を傾げた。大物なんて器ではないし、ただずぼらなだけなのに、そう取ってくれて恐縮だ。大人しいイメージだけれど、ポジティブな思考の持ち主なのだろう。
「参考までに、柏木はどんな題材を絵にしたの?」
「今年、妹が生まれたから、そのことを題材に」
「それはおめでとう。今年ってことは、十一、十二歳くらい離れているんだな。可愛いだろうね」
「それはもう」
穏やかに笑った柏木 司を見て、ぼくも釣られて笑った。
生憎ぼくは図工と理科が大の苦手科目で、絵なんてものはそこらへんの幼稚園児が描いた方が上手なくらいだと自負していた。そんなわけで、物理的に今日中に終わるわけがないのだが、課題期限が今日である手前、とりあえず画用紙と睨めっこくらいはしないと格好がつかない。
1.続く
誰もいなくなったこの教室には西日が差し込み、ぼくの心を焦燥感で募らせる。
夕焼け色に染まった画用紙にぽたりと垂れた一滴の液体は、じわりと緑色に淀み、歪んだ円に色を変えた。
我に返ったぼくは、慌ててティッシュペーパーで絵の具を拭き取ると、後頭部で両手を組んで大きくため息をつく。突然の難題に思わず出たため息だった。
白い画用紙に垂れた一滴の絵の具は、滲んだ程度で済んだ。これから『家族との思い出』を描くにあたって、差し当たり不具合はないように感じる。
絵心のないぼくに、非情な課題を出してくれた川野先生は、すでに職員室に戻っている。終わったら持って来なさいと笑っていたけれど、今日一日で仕上がる気がしなかった。
「そろそろ課題、終わった?」
ふと後方のドアがそっと開いて、静かに声をかけられた。ぼくは声のした方を振り返ってみる。影の薄そうな佇まいの少年が、こちらを見て切れ長の目を静かに瞬きさせていた。
「いや、全然終わってない」
肩を竦めて合図を送ると、一瞬目を丸くした少年は、ぼくの机へと足音を立てずに近付いてきて、白紙の画用紙を見下ろした。忍者のように静かな人だというのが彼に対する第一印象だった。
「本当だ、全然描けてないじゃないか。もう四時だけど、今日中に終わらないようだったら宿題にしてもらうよう先生に掛け合ってくるよ」
大人しそうな顔立ちの男子生徒は、ぼくにそう言うと隣の席に座った。すでに下校時間になっているのに、まだ学校に残っているなんて、奇特な生徒だとぼんやり男子生徒を眺めてみる。
「それはありがたいけど、絵の具を家に持って帰る手間の方が大変だから、ここでやっていくよ。ええと……」
間を置いて男子生徒は口元を少し上げると、静かに笑った。
「俺は柏木 司、図工係。よろしく、大谷 たくみくん」
ぼくは柏木 司の顔を見ながら、慌てて口を開いた。
「悪い、図工係だったのか。おれの課題が終わるまで帰れないんだな。急いで描くよ」
「いや、違うから気にせずゆっくり描けよ。それにしても転校早々図工の課題をやり終えてから帰れなんて、どう考えても無理だよ。俺たちは今週の頭から描き始めていたけど、大谷は今日からだろ?」
「まあね」
ぼくは筆を置きながら一息ついた。思い出らしい思い出といえば、去年行った那須高原への旅行くらいしか思い浮かばないが、その様子を絵に描けと言われても難しい。後は野球観戦だったり、近くの公園で遊んだり、そんな感じの休日を家族とは過ごしているし、やはりここは那須高原旅行のことを絵に描いておきたいところだ。
「え、下書きなしで描くつもり?」
ぼくが置いた筆を見て、驚いたように柏木が言った。ぼくはその柏木の反応に逆に驚く。
「そうだよ。トロトロ下書きなんかしていたら、今日中に提出できないし」
「大物だなあ」
苦笑した柏木に、ぼくは肩を竦めて首を傾げた。大物なんて器ではないし、ただずぼらなだけなのに、そう取ってくれて恐縮だ。大人しいイメージだけれど、ポジティブな思考の持ち主なのだろう。
「参考までに、柏木はどんな題材を絵にしたの?」
「今年、妹が生まれたから、そのことを題材に」
「それはおめでとう。今年ってことは、十一、十二歳くらい離れているんだな。可愛いだろうね」
「それはもう」
穏やかに笑った柏木 司を見て、ぼくも釣られて笑った。
生憎ぼくは図工と理科が大の苦手科目で、絵なんてものはそこらへんの幼稚園児が描いた方が上手なくらいだと自負していた。そんなわけで、物理的に今日中に終わるわけがないのだが、課題期限が今日である手前、とりあえず画用紙と睨めっこくらいはしないと格好がつかない。
1.続く
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