夢幻の花

喧騒の花婿

文字の大きさ
31 / 42
FILE4『ベートーヴェン・シンドローム』

2・シシリエンヌ

しおりを挟む
「ねえ、聞いてる、司くん? 九回まで投げても息一つ上げないの! 本当、クールでカッコいいんだから!」


「はいはい、聞いてるよ」


「久しぶりにきたわー。あたしの心が滾るような良い男が!」


 家に帰ると、リビングで姉、皐月がジャージを脱ぎっぱなしにして部屋着で寛いでいた。基本だらしない姉だが、最近は野球部員に恋をしたらしく、しきりに俺に報告をしてくる。


「ねえ、司くん。そんなあたしのために恋の歌を弾いて」


 猪突猛進な姉は、リビングに散乱している鞄やお菓子のカスは目に入らず、麗しの野球部員の隠し撮り写真しか見えていないようだ。俺は肩を竦めてリビングに散らかっている小物たちを片付けながら首を振った。


「やだよ。千奈津のために子守唄を弾く」


「司くんの意地悪! 切ないのがいいの。どっぷり浸りたいの」


 わがままに首を横に振っている姉、皐月に、奥で気が遠くなりそうな程細かいジグソーパズルをしていた兄、京悟がボソリと呟いた。


「千奈津は母さんと一緒に、ばあちゃん家に里帰りしたぞ。更年期障害で育児がつらいから、実家でしばらく面倒見てもらうって」


「えっ、聞いてない!」


 皐月が身を乗り出して京悟に向き合った。


「ばあちゃんはまだ六十五歳だから、面倒見てやれるんだとさ。千奈津の面倒を見るって張り切ってたよ」


 ははは、と呑気に笑う京悟は、ピースを一気に二つ入れると、満足そうにため息をついた。


「今日は父さん早く帰ってくるから、弁当でも買ってくるだろ」


 適当に言って、京悟は再びジグソーパズルに没頭した。そういえば母はここ最近つらそうに肩を気にしていたり、頭痛や腹痛がきついと言っていた。とりあえずまだ一歳になっていない千奈津だけ連れて、実家に帰ったのだろう。


 高校生、中学生、小学生の子供が三人もいるのだから、家の機能が滞りなく回ってもおかしくないのかもしれないが、俺たち三人の兄弟は、人のことよりも自分のことに一生懸命で、家事を積極的にしようという人はいなかった。


 もう少し手伝いをしていれば、母の負担を少なく出来たのかもしれないが、俺も『弟』という立場を盾にして甘えていた部分がある。もう少し家の手伝いをした方が良いのかもしれない。千奈津が生まれて、兄になったのだから。


「よし!」


 俺は自分の両頬を気合いを入れて叩き、ランドセルを置いた。


「ど、どうしたの、司くん」


「驚かせるなよ司」


 二人が目を丸くして俺を見ていたが、お構いなしに台所に立った。


「俺は今日から、夕飯を作るよ。母さんがこの家では負担だと感じるから、実家に帰ってしまったんだろうから」


 俺の言葉に、二人とも身を起こして姿勢を正した。


「そうね、確かにお兄ちゃんはパズル、司くんはピアノ、あたしは恋に一生懸命で、家のことを何もしていない。よし、あたしもやるわ。花嫁修業にもなるしね」


「恋に一生懸命ってお前……」


 呆れたような京悟の言葉を無視して、皐月は立ち上がって俺に指を差した。


「っていうか、司くんは料理しちゃ駄目っ。あたしがやるから! 指に怪我をするリスクの少ない洗濯担当! お兄ちゃんは掃除ね」


 洗濯はもう取り込み、畳んでしまった。明日の朝少し早く起きてやることにした。兄はしぶしぶ立ち上がって、ハタキと掃除機を取ってきた。


「俺、今はやることないね。手伝おうか、京兄」


 面倒そうにこちらを向いた京悟は、ひらひらと手を振った。


「いらん。お前は俺たちの耳を肥えさせておけ。アメリカンパトロールかクシコスポストをリクエストしよう。ははは」


 皐月のリクエストからはかけ離れたような曲調を選び、からかうように皐月を見て笑った京悟に、憤慨したようにおたまを振り上げて皐月が怒鳴った。


「絶対駄目! せめて月光か、クロイツェルソナタにしてよ!」


「そんなの弾けないって知ってるだろ……」


 二人が喚いていたので、ピアノ部屋を開けきり、要望を無視して花の歌を弾くことにした。
 右手小指に筋肉痛らしき鈍痛があったため、今年の夏休みは接骨院にかかりきりだった。腱鞘炎にならなかったのは幸いしたけれど、まだ難易度の高い曲を弾くのは何となく控えている。ショパンなどはもってのほかだとピアノの先生からも念を押されていたので、とにかく指慣らし用の楽譜を繰り返し弾いた。


 花の歌は、序章の優雅なテンポから次の激しい曲調へ移り変わる『間』が何とも言えずとても好きで、俺はこの間を大切にして弾くことにしていた。


 ピアノを弾いている間は、心安らぐ。まるで深い海に自分の心が溶け込んでしまったように錯覚する。そう錯覚したときの俺は、そのままそこに浸かっていたい願望が出てしまい、水面に浮上するのに苦労する。


 作曲家たちの生い立ちや背景を知り、曲を書いたときの心境を推察しながら、作曲家の気持ちを想像しながら弾くことが好きだ。


 本当にどうでも良い話で、こんなことを言ったら笑われてしまうから誰にも言わないのだが、俺は曲を弾くとき、作曲家になりきる。『俺はモーツァルトだ』『俺はショパンだ』と思うことによって、偉大な作曲家と同調出来た気でいる。


 作曲家の気持ちになって演奏をしていると、とめどなく涙が溢れてくるときがあり、演奏後はしばらくピアノ室から出られないときがあって困る。


 俺はランゲの気持ちのまま演奏を終えた。


「司くん、次、エリーゼのために! 頑張って!」


 度重なる姉からの無茶なリクエストに、俺は肩を落として項垂れ、鍵盤に頭をつけた。


「無理だってば……」


 姉の要望を再び無視して、俺はシシリエンヌを弾き始めた。窓も開け、水の波紋が隣の家にまで届くよう、音符に願いを込めてフォーレのト短調を奏でた。

2.続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

痩せたがりの姫言(ひめごと)

エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。 姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。 だから「姫言」と書いてひめごと。 別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。 語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...