夢幻の花

喧騒の花婿

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FILE4『ベートーヴェン・シンドローム』

2・シシリエンヌ

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「ねえ、聞いてる、司くん? 九回まで投げても息一つ上げないの! 本当、クールでカッコいいんだから!」


「はいはい、聞いてるよ」


「久しぶりにきたわー。あたしの心が滾るような良い男が!」


 家に帰ると、リビングで姉、皐月がジャージを脱ぎっぱなしにして部屋着で寛いでいた。基本だらしない姉だが、最近は野球部員に恋をしたらしく、しきりに俺に報告をしてくる。


「ねえ、司くん。そんなあたしのために恋の歌を弾いて」


 猪突猛進な姉は、リビングに散乱している鞄やお菓子のカスは目に入らず、麗しの野球部員の隠し撮り写真しか見えていないようだ。俺は肩を竦めてリビングに散らかっている小物たちを片付けながら首を振った。


「やだよ。千奈津のために子守唄を弾く」


「司くんの意地悪! 切ないのがいいの。どっぷり浸りたいの」


 わがままに首を横に振っている姉、皐月に、奥で気が遠くなりそうな程細かいジグソーパズルをしていた兄、京悟がボソリと呟いた。


「千奈津は母さんと一緒に、ばあちゃん家に里帰りしたぞ。更年期障害で育児がつらいから、実家でしばらく面倒見てもらうって」


「えっ、聞いてない!」


 皐月が身を乗り出して京悟に向き合った。


「ばあちゃんはまだ六十五歳だから、面倒見てやれるんだとさ。千奈津の面倒を見るって張り切ってたよ」


 ははは、と呑気に笑う京悟は、ピースを一気に二つ入れると、満足そうにため息をついた。


「今日は父さん早く帰ってくるから、弁当でも買ってくるだろ」


 適当に言って、京悟は再びジグソーパズルに没頭した。そういえば母はここ最近つらそうに肩を気にしていたり、頭痛や腹痛がきついと言っていた。とりあえずまだ一歳になっていない千奈津だけ連れて、実家に帰ったのだろう。


 高校生、中学生、小学生の子供が三人もいるのだから、家の機能が滞りなく回ってもおかしくないのかもしれないが、俺たち三人の兄弟は、人のことよりも自分のことに一生懸命で、家事を積極的にしようという人はいなかった。


 もう少し手伝いをしていれば、母の負担を少なく出来たのかもしれないが、俺も『弟』という立場を盾にして甘えていた部分がある。もう少し家の手伝いをした方が良いのかもしれない。千奈津が生まれて、兄になったのだから。


「よし!」


 俺は自分の両頬を気合いを入れて叩き、ランドセルを置いた。


「ど、どうしたの、司くん」


「驚かせるなよ司」


 二人が目を丸くして俺を見ていたが、お構いなしに台所に立った。


「俺は今日から、夕飯を作るよ。母さんがこの家では負担だと感じるから、実家に帰ってしまったんだろうから」


 俺の言葉に、二人とも身を起こして姿勢を正した。


「そうね、確かにお兄ちゃんはパズル、司くんはピアノ、あたしは恋に一生懸命で、家のことを何もしていない。よし、あたしもやるわ。花嫁修業にもなるしね」


「恋に一生懸命ってお前……」


 呆れたような京悟の言葉を無視して、皐月は立ち上がって俺に指を差した。


「っていうか、司くんは料理しちゃ駄目っ。あたしがやるから! 指に怪我をするリスクの少ない洗濯担当! お兄ちゃんは掃除ね」


 洗濯はもう取り込み、畳んでしまった。明日の朝少し早く起きてやることにした。兄はしぶしぶ立ち上がって、ハタキと掃除機を取ってきた。


「俺、今はやることないね。手伝おうか、京兄」


 面倒そうにこちらを向いた京悟は、ひらひらと手を振った。


「いらん。お前は俺たちの耳を肥えさせておけ。アメリカンパトロールかクシコスポストをリクエストしよう。ははは」


 皐月のリクエストからはかけ離れたような曲調を選び、からかうように皐月を見て笑った京悟に、憤慨したようにおたまを振り上げて皐月が怒鳴った。


「絶対駄目! せめて月光か、クロイツェルソナタにしてよ!」


「そんなの弾けないって知ってるだろ……」


 二人が喚いていたので、ピアノ部屋を開けきり、要望を無視して花の歌を弾くことにした。
 右手小指に筋肉痛らしき鈍痛があったため、今年の夏休みは接骨院にかかりきりだった。腱鞘炎にならなかったのは幸いしたけれど、まだ難易度の高い曲を弾くのは何となく控えている。ショパンなどはもってのほかだとピアノの先生からも念を押されていたので、とにかく指慣らし用の楽譜を繰り返し弾いた。


 花の歌は、序章の優雅なテンポから次の激しい曲調へ移り変わる『間』が何とも言えずとても好きで、俺はこの間を大切にして弾くことにしていた。


 ピアノを弾いている間は、心安らぐ。まるで深い海に自分の心が溶け込んでしまったように錯覚する。そう錯覚したときの俺は、そのままそこに浸かっていたい願望が出てしまい、水面に浮上するのに苦労する。


 作曲家たちの生い立ちや背景を知り、曲を書いたときの心境を推察しながら、作曲家の気持ちを想像しながら弾くことが好きだ。


 本当にどうでも良い話で、こんなことを言ったら笑われてしまうから誰にも言わないのだが、俺は曲を弾くとき、作曲家になりきる。『俺はモーツァルトだ』『俺はショパンだ』と思うことによって、偉大な作曲家と同調出来た気でいる。


 作曲家の気持ちになって演奏をしていると、とめどなく涙が溢れてくるときがあり、演奏後はしばらくピアノ室から出られないときがあって困る。


 俺はランゲの気持ちのまま演奏を終えた。


「司くん、次、エリーゼのために! 頑張って!」


 度重なる姉からの無茶なリクエストに、俺は肩を落として項垂れ、鍵盤に頭をつけた。


「無理だってば……」


 姉の要望を再び無視して、俺はシシリエンヌを弾き始めた。窓も開け、水の波紋が隣の家にまで届くよう、音符に願いを込めてフォーレのト短調を奏でた。

2.続く
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