ごめん、もう食べちゃった

埴輪

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しー

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「委員会がどうとかって言ってなかったっけ?」

 予想よりもずっと早い帰宅に苑子はリビングの時計をちらっと確認した。
 惚けたままの秋の隣りに隙間なく座りながら。

 二人分の体重を載せて軋むソファーに、秋は漸く意識をこちらへ戻した。

「そ、その、こ先輩…… 今、さっき、き、き、き……」

 茹蛸のように首まで顔を真っ赤にしながら秋は決定的な言葉を言えずにいた。
 今だ生々しく唇に残る感触が信じられなかったのだ。

「キス、のこと?」

 苑子の明け透けな言葉に、秋は息を飲む。
 そして額に理由の分からない汗を滲ませながら頷いた。

「ごめんね、奪っちゃった」 

 悪戯っぽく答える苑子に、秋は言葉にならない衝撃を受けた。
 嬉しくて堪らない気持ちと、もっとちゃんとした場面で自分からしたかったという願望。
 心臓が飛び出てしまうのではないかと不安になるほど胸がざわつく。
 左胸の部分を握りしめながら、荒くなった息を整えようとする秋に、苑子はそっと視線を外す。

「本当に、ごめんね?」

 苑子の唇が微かに歪む。
 その視線は隣りの秋ではなく、今だ突っ立たままの可哀相な妹に向けられていた。



*


「この子、私の妹。雪子っていうの」

 そう言って雪子を指差す苑子。
 苑子が示す先を素直に目で追いかけた秋は雪子という少女と目があった。
 眼鏡越しにその大きな目が同じように自分を見つめている。

「私の一個下」

 苑子に妹がいるということを秋は初めて知った。
 しかも同じ学年で高校も一緒だという。
 高校に入学してすぐに苑子に一目惚れし、それ以降は彼女のことしか考えていなかった秋は同学年の女子は眼中になかったのだ。

 元から人付き合いがよく、明るい性格の秋は当然のように苑子の妹とも仲良くしたいと思った。
 恥ずかしい場面を見られたということに関してはもう頭に残っていない。

「はじめまして! 俺、間宮 秋っていいます」

 ソファーから勢いよく立ち上がり、元気が若干空回りした秋の挨拶に引いたのか、見た目からしてひどく大人しそうな苑子の妹は顔を引き攣らせ、よろけそうになっている。
 中学の頃はその運動神経の良さを買われ、色んな運動系の部活の助っ人として活躍していたためか、やたらと声が大きいという自覚があった。
 まともに部活に入った記録がないはずの秋はその助っ人生活のせいで妙に体育会系なところがある。

「秋くんって東中だよね」
「はいっ」

 急な苑子の問いかけに慣れかけて来た秋は素直に答えた。
 苑子から自身のことについて何か訊かれるだけでも嬉しいと見えない尻尾を振る。
 その様子が微笑ましいのか、苑子はにっこりと満面の笑みを浮かべながら話を続けた。

「雪子も、東中出身だよ」
「え」
「覚えてない? 何度か委員会で一緒になったって聞いたけど」
「……マジ、ですか?」

 薄っすらと上気していたはずの秋の顔が徐々に悪くなる。
 目を泳がせ、苑子と雪子の間を彷徨い、そして雪子の泣き出しそうな表情に気づいてぎょっとする。

「えっと…… その…… ごめん、まったく覚えてないっぽい」
「……ううん。私、地味だったから…… 間宮くんが覚えていないのも、無理はないよ」

 耳のいい秋はなんとか蚊の鳴くような雪子の声を聞いた。
 俯き、その顔は見えないが悲哀が滲む声色に秋の良心がきりきりと締め付けられる。

「ご、ごめん……」
「……大丈夫、気にしてない…… か、ら」

 そう答えながらも、雪子の足元に水滴が落ちる。
 慌てて袖で目元を拭く雪子に、秋は焦り、近づいて謝ろうとした。
 姉の苑子とは違い、妹の雪子は泣き虫だ。
 生まれたときから涙腺がぶっ壊れているとは苑子の談である。
 いつもならば雪子がぐずぐずと泣き出すだけでどうしようもない苛立ちが苑子に生まれるのだが、今回はまぁ、仕方がないなと思えた。
 一途に片思いをし続け、ついには思い余って推薦先の高校を蹴って今の学校を受験したのだから。
 雪子が苦手意識を持っているであろう、苑子のいる学校へと。

(そんな行動力あるなら、さっさと告ればいいのに)

 実際に両親の反対を押し切って受験先を変えた雪子にそう言ったことがある。
 そのときの雪子の返答は予想通りすぎて、今思い出しても気分が悪い。
 普段ならば雪子のぐずぐずとした態度や決して理解できない思考回路にイライラして、すぐに部屋に閉じこもるのだが。
 今の苑子は機嫌がいい。

 必死に涙を止めようとする雪子をもっともっと泣かせて、優越感を味わいたかった。
 というよりも秋に顔を覗き込まれ、謝られている状況に顔を真っ赤にして慌てる雪子に現実を突きつけたかったのだ。
 初心そうに慌てながら、間近にある好きな男の顔にうっとりと見惚れる雪子。
 現金なものだ。

(一発、目を覚まさせてあげないとね)

 直接殴るよりもずっと効果のあるやり方を苑子は知っている。

「雪子」

 顔がにやけないようにするのを頑張りながら、苑子は雪子の名を呼ぶ。
 何故か釣られて秋も苑子の方へ視線を向けた。
 ちょうどいいと、苑子は笑みを浮かべる。

「改めて紹介してあげる」

 おいで、と手で招くだけで秋は苑子の隣りへやって来る。
 そのまま跪いてしまいそうな忠犬ぶりだ。
 苑子の足元にひれ伏し、愛情を求める姿を想像するとなかなかに刺激的だと思った。

「これ、私の彼氏」

 ソファーに座らせ、その腕にしがみ付いて肩に頭を置く。
 初めて見る苑子の異性に甘える姿に驚いたのか。
 それとも苑子と秋の距離の近さに嫉妬したのか。
 或いは言葉の意味そのものを拒否しているのか。

「嘘」
「本当」

 咄嗟に雪子の口から飛び出した台詞に、予め内容を想定していたのか苑子はあっさりと斬り捨てた。

「え、だって…… だって、私……」
「私が、何?」

 目元を赤くし、水滴で揺れる睫毛を瞬かせる雪子に苑子は容赦がない。
 どうせ続く台詞などいつもと同じでネガティブなものであろう。

『私が秋くんのことが好きだって、知っているのに』 

 と、そんな感じの恨み言でも言いたいのだろう。
 本人にそんな勇気があるとは思えないが。



* * 


「ということだから、二人で部屋にいるね」

 ということって、何?と言いたいのを雪子はぐっと我慢した。

 今だ混乱し、状況を受け入れていない雪子に苑子は無情に告げる。
 どこか甘ったるい声だが、生まれたときから知っている雪子からすれば良からぬことを企んでいるときの声にしか聞こえない。

「そ、苑子先輩っ…… あの、部屋って……」
「私の部屋」 
「っ!?」

 息を呑む音がリビングに響く。
 ぼやけた視界で雪子の想い人の顔がこれでもかと赤くなっている。
 短く刈り込まれたような髪の間から見える耳まで赤い。

(秋くん……)

 こんなに近くで見るのは久しぶりだ。

 いつからだろうか。
 その姿を見ただけで、声を遠くから聞いただけで胸がざわつくようになったのは。
 過去へと思いを馳せそうになる雪子だったが、あっさりと現実に引き戻された。

「雪子」

 雪子のざわつく心を読んだかのように苑子が声をかけてきたからだ。
 いつの間にかソファーから離れ、雪子の近くに立っている。
 リビングから出たいのだろう。
 つい反射的に怯えるようにして扉前から場所を移動する。

「夕飯はいらないから。しばらく秋くんと部屋にいるね」

 その言葉に雪子と、そして秋が共に動揺を露にする。
 湯気が出そうなほど顔を赤くして硬直する秋。
 細い肩を跳ねあがらせ、何か言いたげな顔で苑子を見つめる雪子。

「……ッ」

 結局、その口からは何も出なかった。
 代わりに耐えるようにして唇を噛んでいる。
 唇を噛みしめるのは雪子が悔しがっているときの癖だ。
 本人は無自覚だろうが。

 秋の腕に密着すると、雪子は今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。
 傷ついていますと言葉よりも雄弁に潤んだ目が訴えている。
 そんな可哀相な妹の姿に、苑子は胸がすかっとするような爽やかな気持ちを抱いた。

「覗き見しちゃ、だめだよ?」

 止めとばかりに、普段ならば絶対言わないような甘ったるい台詞を雪子に投げつけた。

 

* * *


 それが恋だと気づいたときにはもう引き返せないほど好きになっていた。
 でも、自分から声をかけることは出来なかった。
 同じ委員会で席が隣りになったときや廊下をすれ違ったとき、体育祭で小声で応援したりしたときだけ、優しく気さくな秋くんの朗らかな笑みが自分に向けられる。
 それがその他大勢と同じ扱いでも雪子は満足だった。

『なら、なんで高校まで追いかけるの?』

 雪子の気持ちなど分かりっこない姉の苑子の言葉が蘇る。
 勝手に人のスマホを見て、こっそりと撮った秋くんの思い出を根掘り葉掘り聞いて来た。
 自分から聞いたくせに、とてもつまらなさそうにしていた苑子。
 昔からそうだ。
 苑子はとにかく気分屋で、傲慢で我儘だった。
 思い返すと雪子が不運なのも、過去に起きた嫌なことも全部苑子のせいだ。
 苑子は雪子にないものを全てを持っている。
 そしてその我儘な性格のせいで雪子は辛い幼少期を過ごして来た。
 頑張って違う中学に入学し、なるべく関わり合いにならないよう、地味で平凡で、平和な生活を謳歌しようと受験を頑張った。
 それでも苑子という美しすぎる姉の存在のせいでずっと雪子は家でも肩身の狭い思いをし、植え付けられた後ろ向きな性格のせいで中学でもまともに友達ができなかった。
 そんな中学時代唯一輝いていたのが秋くんを遠くから見るときである。
 付き合いたいなんて、思っていない。
 だって、雪子では秋くんに釣り合わない。
 こんな、なんの取柄もない凡庸な女が。
 ずっと大輪の花のような姉と比べられていたせいで、雪子は必要以上に自分の容姿にコンプレックスを持っていた。

 姉には分かりっこない。
 いつだって自分勝手で、雪子の欲しいもの全部を持っていた姉に。

『てか、隠し撮りして、高校まで追いかけるって、もうストーカーじゃん』

 苑子に分かるわけがない。
 雪子の気持ちなんて。

『気持ち悪い』

 悔しいぐらいに綺麗な顔を歪ませて、吐き捨てた苑子。
 思い出すだけでじくじくと胸が痛む。

(お姉ちゃんなんて、きらい)

 雪子から全部奪って行く。
 雪子が、秋くんのことが好きだってこと、知っているのに。

(どうして……)

 こんな日が来るなんて、欠片も想像していなかった。

 どうして、どうして。
 どうして、秋くんが家にいるの?
 どうして、お姉ちゃんとキスしているの?

『これ、私の彼氏』

 嘘だと咄嗟に否定したが、苑子が嘘をつかない人間だということを雪子が一番よく知っている。
 苑子は強いから、だから雪子と違って何かを誤魔化したり、我慢したりする必要がないのだ。
 実に羨ましい。

 だが、今一番羨ましいのは、妬ましいのは秋くんの存在だ。

 苑子が秋くんと付き合っている。

「最低……っ」

 分かっているのに。
 知っていたくせに。
 雪子の気持ちを知っているのに、どうしてそんな残酷なことができるのだろう。
 雪子には何もないのに。
 苑子と違って可愛くも綺麗でも器用でもない、地味で凡庸で、無個性な雪子。
 こんな自分を好きになってくれる人なんていないってわかってる。

「なんで、なんで…… なんで、私だけ……っ」

 どうして苑子お姉ちゃんは綺麗で、私は醜いの?
 小さい頃からずっと、母に、父に、幼馴染に、そして苑子自身に問いかけていた。

「……ひどいよ、お姉ちゃんばっかり…………」

 最後に必ず、そう言って泣き出す雪子はあの頃と何一つ変わっていない。



* * * *


 緊張しすぎて喉が干からびたように渇いている。

「雪子ってさ、正直『可愛い』でしょう?」

 そのせいか、階段をのぼりながら唐突に話しかけて来た苑子に上手く返事が出来ずに咳き込んでしまった。
 突然咳き込む秋に、普段ならば飄々としている苑子は珍しくも素で驚いた。

「すっ、すみ、まっ、げほっ…… せんっ」
「え、そんな変なこと聞いた?」
「いえ、ぜんぜんっ 俺もそう思ってましたからっ」

 慌てて否定する秋に、苑子は当然のように頷く。
 だが、自分から話を振ったというのに何故かその顔は晴れない。
 どこか疲れたような、心底面倒臭そうな表情を浮かべている。

 首を傾げながらも、続きを促す苑子に秋は律儀に思ったことを答えた。

「初めて見たときから…… って、初めてじゃなかったみたいですけど」

 なんの打算も媚もない、一男子の意見として。

「全体的に、可愛いですね。妹さん」
「……どこら辺が可愛いって思った?」

 恋人の妹の容姿を手放しで褒めるという行為が一般的かどうかはさておき、含みも嫉妬もなく、苑子が訊いているのを秋は本能で感じ取っていた。
 だから、正直に答えた。

「そうですね…… 肌とか本当に雪みたいに色白で綺麗だし、睫毛も長くて、目が猫みたいに大きくて、びっくりしました。髪の毛も長いのにめっちゃ綺麗で…… 儚い美少女みたいな雰囲気なんですけど、でもぱっと見ると可愛い系みたいな」
「……よく見てるね」
「苑子先輩の妹さんですから」

 もう、学校で見失わないようにしますと、どうやら同じ中学だった雪子のことをまったく覚えていなかったことを負い目に感じているのか、秋は変な決意を苑子に見せた。
 苑子の妹ということで興味深く似ている部位を探して見ていたとはさすがに言えない。
 更に内心で、胸は苑子よりも大きかったと実に男子高校生らしいことも思っていたりする。
 これは絶対に苑子には言えないなと秋は思った。

「あ、でも! 俺の中で一番綺麗で可愛いのは苑子先輩ですからっ!!」 

 苑子の質問の意図を考えるよりも先に秋は叫んだ。
 近くにいた苑子の鼓膜を直撃する大声に、苑子は下にいる雪子にも聞こえたんだろうなと無感動に思った。
 そしてまたしくしく泣いているのだ。

(本当、ムカつく)

 まぁ、それはどうでもいい。
 今苑子が一番に考えないといけないのはもっと別のことである。

(ゴム、余ってたっけ)

 見せつけるならとことん見せつけてやろう。
 苑子が美味しく秋を食べるところを。

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