ごめん、もう食べちゃった

埴輪

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くー

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 扉の隙間から中を覗く。
 いくら見ても、その中で行われる汚らわしい行為が現実だということが信じられなかった。

 呆然と、悪夢でも見ているのかと現実逃避しようとする。
 だが、まるで雪子の憐れな思考を読んだかのように、白い喉を仰け反らせて、悪魔がこちらを見た。

「……っ!」

 ひたっと目が合う。
 気づかれてしまったと息を呑み、怯える雪子と対照的に姉は醜く嗤っている。
 濡れた睫毛に縁どられた瞳が三日月に歪み、どこまでも卑しく雪子を嘲っていた。

 そして、紅を塗ったように赤い唇が毒を紡ぐ。
 音にならないそれが何を紡いだのか雪子には分からなかった。
 ただ、涙でぼやけた眼鏡越しに、その唇の赤だけはやけに鮮明に見えたのだ。

「あっ、あんっ」

 呆然としている間に生まれたときから知っている姉のあられもない声がまた耳に入って来る。
 咄嗟に耳を塞いでも、扉の隙間から派手に漏れ聞こえる情事の騒音を完全に塞ぐことはできない。

 ギシギシと、ベッドが軋む音。
 意味あり気な布ずれの音。
 粘膜が擦れる音。

「はぁ、あ、あっ、んんっ」

 姉の、下品な声が。

「っ、ぁ、その、こっ せんぱ、いっ……!」

 初めて聞く秋くんの、快楽に溺れた声が。
 雪子の鼓膜を揺さぶる。

「ふっ……」

 震える手で必死に口を押え、漏れ出る嗚咽を雪子は必死に耐えようとした。
 一体いつから部屋の中を覗いていたのか当の雪子もよく分からない。

 自室に戻ろうと階段をあがり、そして聞こえた「声」に心臓が凍えた。
 その後、ふらふらと膝から崩れそうになりながら、気づけば雪子は姉の部屋を、微かに空いた扉の隙間を覗いていたのだ。
 全て無意識の行動だった。
 気づいたら雪子の乾いた目に二人の濃厚な絡みが映っていた。
 雪子の全てを取り上げる意地悪な姉とずっと切ない想いを抱いていた男の子とのエッチを、雪子は瞬きも出来ずに見ている他なかった。
 とても現実とは思えなかった。
 だが、耳に入る生々しい音も、汗に塗れながら抱き合う二人の姿も、間違いなく現実なのだ。
 初めはただただ恐ろしく、哀しく、悔しくて、混乱していた。
 だが、姉の卑猥な声がどんどん甲高くなるにつれて、雪子の胸に暗い嫉妬と憎しみが沸き上がった。
 秋くんの口から姉に対する情熱的な言葉が吐かれ、その唇を奪う姿を視認したとき、雪子の目からぽろりと涙が零れ、顎を伝った。

 耳の奥で、硝子細工が落ちて砕けたような音を聞いた気がした。 

 雪子がずっとずっと、大事にしていた宝物が、心の支えにしていた思い出が穢されていく。
 姉が、残酷に嗤いながらそれを頭上から落とす。
 そんな光景が目に浮かんだ。

「ぅ、ぁ……っ」

 眩暈がして、吐き気が止まらない。
 この場で吐いてしまいそうなほど胸がむかむかして、頭が割れるように痛い。
 全身が痛くて痛くて堪らない。
 無意識に片手が左胸をわし掴み、震えている。

 一番痛いのは、傷ついたのは、雪子の繊細な心だった。

「うぐ……ぅ」

 漏れ出る嗚咽を必死に耐えながら、雪子の膝にぽつぽつと滴が垂れた。

 その合間にも、卑猥な音が、声が、行為が止まない。
 よく知る男女が交わり、求めあっている光景はあまりにも残酷で、雪子の心はもうズタズタだ。

(どうして……?)

 どうして。
 何故。
 そんな自問自答が頭の中を埋め尽くす。

 昔からそうだ。
 姉はいつだって意地悪で、雪子の欲しいもの全てを掻っ攫って行った。
 雪子には何もないのに。
 何もない雪子から、残酷に奪って行く。

(きらい、嫌いっ、お姉ちゃんなんて……っ)

 噛みしめた唇から血が出る。
 でも雪子の心はもとっくに血まみれだ。

「…………」

 でも、雪子にはどうすることもできない。
 姉に比べて雪子には何もないのだ。
 特別可愛くも無ければ、綺麗でもない。
 こんな凡庸な自分が誰かを好きになること自体烏滸がましいのだ。

 だから、恨んではいけない。
 憎んではいけない。
 我慢しなきゃいけないのだ。

 眼鏡をはずして目をこする。
 ぼやけた視界で二人が淫らで不潔な行為に没頭している。
 もう、姉のあの視線がこちらを向くことはない。
 雪子など、取るに足らない存在だからだろう。






 シャワーの音に混じって鼻歌が浴室に響いていた。
 苑子は機嫌がいいと分かりやすく鼻歌を歌う。
 お気に入りのアーティストから一時期ピアノ教室で習っていた定番の曲と、その選曲も苑子らしく気まぐれで自由だった。
 ぬるま湯と共に排水溝に流れ落ちる泡を見つめながら、苑子は重たい下半身にシャワーを浴びせる。
 秋につけられたキスマーク以外はほぼ全て流れていった。
 見える箇所にも遠慮なくキスマークをつけられたせいで明日学校でどんな噂が立つのか見ものである。

 何の罪悪感も後ろめたさも羞恥もなく、苑子は清々しい気持ちでいっぱいだった。
 脱衣所にバスタオルを持って来た雪子がしばらく立ち尽くしていることにもとっくに気づいていた。

「……お姉ちゃん」

 引き攣れたような呼び声はシャワーの音に紛れ今にも途絶えそうなほど弱弱しい。
 全身の泡を落としながら、苑子はいつもより幾分上機嫌に返す。

「何?」
「…………なん、で」

 だが、その短い返答は雪子にとっては鋭利な刃物に等しかった。
 自然と俯き怯えてしまうのだ。
 長年沁みこんだコンプレックスや劣等感が傷口から滴る血のように溢れてしまう。
 そうなると雪子の口からまともな言葉は何一つ出て来なくなる。
 代わりに口の中いっぱいに血の味が広がるのだ。

 もちろん、それはただの妄想であるが。

「……何? 用がないなら、さっさとタオル置いて行ってよ」
「…………」

 ぎゅっと雪子は唇を噛んだ。
 曇りガラス一枚挟んだ向こう。
 雪子には苑子が今どんな表情をしているのか分からない。
 嗤っているのか、苛立っているのか、それとも何の感情もないのか。
 どちらにしろそこに雪子への優しさや気遣いなどないのだ。
 一方、苑子には雪子の表情や感情が手に取る様に分かった。
 いつもの通りの暗く湿った顔でひたすらぐるぐると後ろ向きに考え、文句や愚痴、恨み言を内心で呟き、懸命に押し込み、勝手に自己完結して悲劇ぶる。
 無駄に付き合いだけは長いのだ。
 雪子の性格など、全てお見通しだ。

「……あ、秋くんのことなんだけど…………」
「ああ。新しいカレシのこと?」
「…………!?」

 わざとらしく強調すれば、雪子はもう何も言えない。
 本人からすれば頑張った方かもしれない。
 コンプレックスの塊の姉と対峙しようと思うぐらいには真剣に恋していたのだろう。

 シャワーを止めて、全身を濡らして浴室から出れば、青褪めた妹の怯えたような表情を見ることができた。
 いつもならば不愉快なその表情も、今は心地良く、そしてまた不愉快だ。
 もっと悔しがり、絶望して惨めに吠えればいいものを。
 どこまでも雪子は雪子だ。

(さっき覗いてたときの方がずっと面白い顔してたのに)

 本当に、どこまでもつまんない妹だ。

「早く」

 ぽたぽたと滴が垂れる。
 雪子の手にあったバスタオルを受け取ろうと手を差し出せば、そのまま渡される。
 顔に投げつけでもするかとも思ったが、やはり雪子にそんな度胸はない。
 何よりも雪子の視線は苑子の裸に釘づけなのだ。
 そんなことを考える余裕もないのかもしれない。

「やーらしぃー…… なに見てんの?」

 苑子の身体中についた欝血の痕を雪子は凝視していた。

「ちがっ……!?」

 それが何か分からないほど雪子は鈍くも無ければ純情でもない。
 苑子の揶揄いに顔を真っ赤にするどころか、その顔色はより一層悪くなり、小刻みに震えている。

「い、いやらしいのはお姉ちゃんじゃない……!」

 大きな目から今にも涙が零れそうだ。
 濡れた前髪をかきあげながら、苑子は見せつけるように鮮やかに嗤う。

「知ってる」

 苑子に後ろめたさなど微塵もない。

「……っ、なんで、なんでっ…… あ、あんなことしたの……」
「あんなことって?」

 面倒だからとバスタオルでそのまま髪の毛を拭きながら、苑子はすっ呆けた。

「あんなことって何? 彼氏を家に連れ込んだこと? キスしたこと? エッチしたこと?」

 ちらりとタオル越しに雪子を見れば悔しそうにこちらを睨みつけている。
 何か言い返したいのに上手く言葉が思い浮かばず、そしてそれを言えるほどの勇気もなく代わりに涙を流す。
 いつものパターンだ。

「それの何がいけないわけ?」

 替えの下着は脱衣所に持って来ていなかった。
 バスタオルで前を適当に隠して苑子は雪子の隣りを通り抜けようとする。
 少し近づいただけで怯えた子兎のように震える雪子に言い様のない苛立ちが湧きたつ。
 必死に嗚咽が漏れないように唇を噛みしめ、涙を無言でぽろぽろ零してこちらを睨みつける雪子。
 幼い頃から、まったく変わらない。
 実に進歩のない光景だ。

「覗き魔にとやかく言われたくないんだけどね」
「……っ!?」

 そっと、その耳元に囁けば、雪子は俯き床に滴を垂らした。

「すけべ」

 苑子の軽蔑に満ちた囁きに、雪子は鼻をすする。

「うっ…… ふぅ、」

 喘ぐように嗚咽を洩らす妹に苑子は冷徹だ。

「何? 悔しいの?」
「いっ……」

 無駄に長ったらしい前髪を掴めば、レンズの向こうの目が痛みと怯えで歪むのが分かった。

「ち、ちがう……っ」
「だったら何。言いたいことがあるなら言えば?」

 本当、イライラすると吐き捨てる苑子に雪子は必死に何か返事しようと口をぱくぱくと動かす。
 自然と漏れ出る嗚咽のせいで、それはなかなか形になってくれない。
 元からある実姉への恐怖心と苦手意識を落ち着かせるのに雪子はだいぶ苦労した。
 だが、意外にも何かを必死に紡ぎ出そうとする雪子に苑子は待つ素振りを見せた。
 濡れたままの髪をそのままに、苑子は目を細めて雪子の顔を観察する。
 何の感情も伺えない無表情から目を逸らしながらも、雪子の口からかすれた音が漏れた。

「わ、私は…… 元から、秋くんに…… ふさわしく、ないから」
「……は?」

 苑子の眉が跳ねあがったことに雪子は気づかない。
 その視線は床に固定されていた。

「お姉ちゃんみたいに、綺麗じゃないし…… か、可愛くもないし…… 性格も暗いし…… 平凡だし……」
「……」
「秋くんは私の憧れの人で…… でも、付き合うとか、そんなの無理だって…… 最初から分かってたから……」
「…………」

 話している間に少し落ち着いたのか、雪子の舌はどんどん滑らかになっていく。
 今まで溜め込んでいた気持ちを吐き出すように、その声はどこか熱に浮かされていた。

「……秋くんとお姉ちゃんが、つ、付き合うって…… 聞いたときはショックだった。でも、でも……!」

 ぎゅっと拳を握りしめて雪子は眼鏡を外して目を擦りながら吐露した。
 涙のせいもあり、雪子の視界は一気にぼやけた。
 だらこそ勇気を振り絞って自分の気持ちを吐き出せたのかもしれない。

「でも…… 悔しいけど…… 秋くんが、幸せならっ わたしも、幸せだから……っ」

 いつの間にか苑子の手が離れ、雪子は俯きながら涙を流し続ける。
 儚く震える華奢な肩。
 真っ赤になった頬や涙で濡れた長い睫毛。
 必死に苑子に対する劣等感や悔しさ、憎らしさを抑え込み、一途に恋する男の幸せを望むと、いじらしい唇が紡ぐ。

「お、おねえ、ちゃんのことも…… 恨んでないよ…… 秋くんが、お姉ちゃんを好きになるのは当たり前だもん、ね……?」

 雪子はひどく不器用な笑みを浮かべていた。
 痛々しい泣き笑いを苑子へ向けたまま、ずっとあの部屋を覗いた後から泣いて泣いて最終的に行き付いた自分の素直な気持ちをぶつけた。

「秋くんと、お姉ちゃんが幸せなら…… 私も、幸せだから……!」

 大嫌いな姉。
 自分の劣等感ばかりを刺激する姉。
 自分のないものを全部持っている姉。

 何故、どうして。
 どうしてその上自分の好きな人まで奪うのか。
 雪子の気持ちを知りながら、あんな酷いことを、見せつけるようなことをするのか。
 色んな、どうしようもなく汚くてどろどろした感情に溺れた。
 お姉ちゃんなんて大嫌い。
 秋くんを奪わないで、厭らしい手で触らないでと、心の中で泣き叫んだ。

 でも、本当は分かっていた。

 いくら自分が想おうとも秋くんは振り向かない。
 こんなコンプレックスだらけの、何も持っていない雪子なんかを秋くんが好きになるはずがない。
 雪子には何もないから。
 先に生まれた苑子と違い、何も持っていない、平凡な女なのだ。

 だから、仕方がない。
 秋くんが雪子のことをまったく知らないのも。
 苑子を好きになるのも。
 苑子が、秋くんと付き合うのも。

 初めから完璧な姉を恨む方が間違っているのだ。

(そうだ、私は、許さなくちゃ……)

 例え、苑子がどんなに残酷なことをしたとしても。

(お姉ちゃんを…… 許さなくちゃ……)

 雪子は苑子を許してあげなければならないのだ。
 もう一度、それを苑子に伝えなければと雪子が口を開こうとしたときだ。

 頭上から容赦のない刃物が振って来たのは。


「ばっかじゃないの?」



* *


 氷のように冷たい苑子の言葉に雪子は顔を上げる。
 眼鏡越しではない視界では、苑子の表情はぼやけててよく分からなかった。

「何それ。すっごい、笑える」

 だから、苑子が本当に言葉の通りに笑っているのかも雪子には分からなかった。
 苑子の言葉には確かに嘲るような響きがあったが、見下していく視線には温度が感じられず、服を着ているはずの雪子の方が寒さを感じるほどだ。

「覗き魔のくせに」

 ひゅっと、雪子の喉から奇妙な音が漏れた。
 今だかつてない苑子の言葉の刃物に雪子は喉を掻っ切られたような気がした。

「随分と健気なこと言ってるけど…… それ、本気なの?」

 雪子の顔を覗き込むように、苑子が顔を近づける。
 今度は視界に鮮明に映り込む姉の美しく、凍てついたような顔に雪子は何も言葉を返せなかった。
 苑子の心ない言葉に本気だと返したいのに、返せない。
 焦り、戸惑う雪子に、苑子は感情の読み取れない黒い瞳をじっと向ける。

「ふーん…… そう。相変わらず雪子は優しいね」

 苑子の赤く色づいた唇から覗く白い歯がやけに雪子の印象に残った。
 頭に苑子の手が乗っかかる。
 ゆっくりと頭を撫でられ、その身体から雪子と同じようで少し違う匂いが漂って来た。

「本当、反吐が出る」

 優しい仕草に反して、苑子は気持ち悪いとばかりに吐き捨てた。

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