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しおりを挟む第1章 荒野の夜
「よし。これで今日の分はできたかな」
獣脂を燃料とするランプが揺らめく絨毯の上。ごりごりと煎じていた最後の生薬を、慎重に薬包紙に包んでカゴに入れる。
薬包紙に使用される油紙はこの地では結構貴重。さらに、折り方だけで何の薬が入っているかを見分けるから、間違えないようにしないとね。
胃薬、吐き気止め、化膿止め――
充分すぎるくらい何度も確かめてからカゴを持って立ち上がり、年季の入った保管用薬箱に収めれば、これで本日の作業は無事終了だ。
長い時間背中を丸めてたから身体はバッキバキ。両腕を上げて縮こまった身体を一度伸ばす。
どのくらい作業してたんだろ……?
そう思って無意識に時計を探す自分に気がついて、またやっちゃったかと苦笑する。
生まれてこのかた、二十四年。
時計のない生活なんて今までしたことなかったから、どうしても馴染めないんだよね。
ここに電気が存在しないことはすんなり受け入れられたのに。不思議なもんだ。
大振りな耳飾りを揺らして首筋を伸ばしながら、テレビもパソコンもない異国情緒たっぷりの部屋を改めてぐるりと見渡す。
この小さなワンルームの幕屋は、モンゴルの移動式住居・ゲルによく似ている。
小さな薪ストーブを中心に、木組みの円筒形の壁にはタペストリーが飾られ、天井には傘を載せたような緩やかな屋根が広がっている。
他の幕屋と少しだけ違うのは、ここがお医者様の家だから大きな薬草棚と薬箱が部屋のあちこちに置いてあることくらいかな。
草原の上にコロンとしたフォルムの幕屋が並ぶ姿は、なんとも言えず愛らしい。
世界は違えど、荒野と草原を駆け抜ける遊牧民族の発想は似るのかもしれないな。
そんなことを考えながら天を仰ぐと、屋根の中央にある窓から丸い月がちらりと見えた。
うわ。結構、時間かかっちゃった!
時計がなくても、時間経過は太陽や月の動きでわかる。生薬作りにはまだ慣れていないとはいえ、もう少し手早く作れるようにしないと、お手伝いをする意味がない。
そう焦りながらも、まさか普通のOLである私がマウスとキーボードの代わりに乳鉢や薬研と格闘する日が来るとは想像すらしなかったわけで。
人生何が起きるか分からないと、思わず溜息をつく私、橋田梨奈二十四歳、元OL。
現在、迷い込んだ異世界で、絶賛遊牧生活中です。
***
始まりは、二ヶ月前の梅雨の終わり。
都心の、あるオフィスビルで、セクハラ上司の後ろ頭を叩いたことが発端だった。
常日頃、肩もみだの手相だの理由をつけて触ろうとしてくるセクハラ親父には、充~分注意していたはずなんだけどね。
ヤツは事もあろうに、給湯室でお茶を淹れていた私の背後に忍び寄ると、「あ~~。やっぱり橋田さん、生足じゃないんだぁ」と、スカートのスリットに指を這わせながらのたまった。
振り向きざまに咄嗟に手を上げたのは、確かに私が悪い。
うん。そこは反省する。いかなる時でも暴力反対。ごめんなさい。
でもさ。キレイに入った手刀がそいつのカツラを吹き飛ばしたのは、私のせいじゃないよ?
ついでにソレが、通りがかりの営業部長の前に落ちたのも!
その結果、怒れる上司のパワハラがスタート。仕事は山積み、毎日残業。週末までお得意様の新工場お披露目会に強制同行だし、件の上司は社長の甥だから周りも手出しできないし!
で、極めつきはコレよ。
「これは一体、どういうことなんでしょうか!」
「だからね。君は社会人として色々反省すべきだと思うんだよね。僕には年若い君を指導する責任がある」
はぁぁぁ!?
免許を持ってない私が郊外に行くのに、上司の運転する営業車に同乗するのは嫌だけど仕方ない。
でも今道の先に見えるのは、山の上に燦然と輝く、お城の形をしたホテルだけ!
――あ。もうこれは労働基準監督署に訴えるとか、交番に駆け込むとか、そういうレベルだわ。
このまま連れ込まれてなるものかと、赤信号で停まった車から隙を突いて飛び降りた。
雨が降る中、傘もささずに走って走って、追いかけられないよう山道に逃げ込む。
どんどん強くなる雨と雷。
なのに大きな木の下で立ち止まるなんて、冷静なつもりでもやっぱりパニクッていたらしい。
後ろに誰もいないのを確認してからスマホを出した、その瞬間。
全身を震わす、ドン! という衝撃とともに、ぐにゃりと大地が歪んだ。
目を見開く私の前で、紫陽花の上で跳ねた雨粒がシャボン玉みたいにふわりと浮いて停止する。
何これ……
緑の木々の合間。宙に浮く幾千幾万もの雨粒が淡く虹色に輝き始め、やがて嬉しくてたまらないといったように一斉に空へと舞い上がり始める。
眩しっ……!
それが私の覚えている、日本での最後の記憶だ。
あの後、気がつくと荒野のど真ん中で倒れていた私は、わけも分からず、あちこちを彷徨った。
最初は「随分とよくできた夢だな~」と暢気に構えていた私も、ついに砂袋のように重くなった身体を岩山に預けるにあたって、これが現実だと受け入れざるを得なかった。いつか二人で中央アジアを旅したいねと姉と話していたのは、遭難したいという意味では断じてない。
偶然薬草採取にやって来た男性医師・アーディルに見つけてもらえていなかったらと思うと、今でも背筋が凍るよ。行き倒れの異世界人を拾う羽目になった上、そのまま保護してくれた彼には、本当~に感謝してもし切れません。
そんなわけで、こちらの世界に迷い込んで早二ヶ月。
今宵も私は家主に恩返しをすべく、微力ながらお手伝いしているわけです。
「空になっていた薬箱の小引き出しは全部薬を補充したし、使った器具も綺麗にしたでしょ。お願いされたヨモギもどきのスミルの葉は、半分は抽出してオイルに。もう半分は乾燥棚に広げて、茎は取るっと」
点検も兼ねてブツブツ言いながら手を動かし、誰もいない幕屋の入り口をちらりと見る。耳をそばだてても拾えるのは、少し強い風の音ばかり。
ん~……。やっぱりいつもより遅い、よねぇ。
ちょっと不審に思って小首を傾げる。
大抵天窓から月が見える時間には帰って来てるのに。珍しいな。
今日は街に行くって言ってたから、そこで急患でも入ったのだろうか。そんなことを思いながら全ての仕事を終わらせていると――ようやくランプの炎が揺らめいて、夜の荒野の匂いが入ってきた。
「おかえりなさい。遅かったね」
薬箱の最後の引き出しを閉めながら振り返る。
すると、入り口の垂れ幕から入って来たのは、草木の束を肩に担いだ一人の精悍な青年、アーディルだった。
「あ。待って待って」
慌てて薬草を置くための敷き布を用意して、入り口付近にいくつも広げる。
ええと、根のものはこの敷き布で、枝ものはこっちの固い絨毯でしょ。傷みやすい薬草には、種類によって活けるための水桶と、綿花を入れた木桶をいくつか用意して……
あとは何かあったかな?
そうしてわたわたと準備を終えると、それを静かに待っていたアーディルは、重さを感じさせない動作でどさりと荷物を置いた。
「遅くなった。悪いな」
「ううん。大丈夫。でも今日は随分大量に採ってきたんだね」
目の前に積まれた薬草はいつもの三倍以上あるかという量と重さ。私だったら両手で持ち上げるだけで精一杯だろう。
それを片腕で担いでしまうんだから、お医者さまとはいえさすが、生粋の遊牧民。スラリとしているのに、相変わらずの鋼の身体だ。
大量の仕分けをしながらその重さに四苦八苦していると、背後から琥珀色の長い腕がスッと伸びて、私の手から重い枝を取り上げ、黙々と仕分けを手伝ってくれる。
でも、これだけあればしばらくすることに困らないけど、薬草を取りすぎて困るのは医者本人だと、アーディルは言っていなかったっけ?
少し不思議に思っていると、それに気づいた彼が、「今回はこの分量で良い。しばらく天候が荒れそうだからな」と、簡潔に答えをくれる。
「そっか、納得。じゃぁここ数日は部屋での調合メインだね」
「ああ」
この薬草の分量からしても、調合だけで三日程度はかかりそうだ。
彼はどちらかと言うと寡黙な方だけど、こうやって私の疑問の一つひとつに答えてくれる。
それはこちらの生活に慣れていない私にとってありがたいし、何より単純に嬉しかった。
「今、夜食を出すから待ってて。今日は随分と遅かったけれど何かあったの?」
立ち上がって、既に支度してあった鍋をカマドの上に移す。
すると、ちょっと苦い顔をして何かを言いよどんでいる様子のアーディルが目に入った。
――珍しいこともあるもんだ。
また強引な見合い話でも持ち込まれたのかな……
刻んでおいた香草を鍋に入れつつ、そう思う。
表情の変化の乏しい彼が、一番感情を見せるのがこの手の話だと、短い付き合いながら知っている。
『結婚』という言葉を聞くことすら辟易としているアーディルは、弱冠十八歳にして王都で研鑽を積んでいるという超エリート医師。
その上、端整な外見から滲み出る凄味のある色気と、それを一瞬で抑え込んでしまえる程ストイックな魂が一つの身体に同居している、つまりは周りが放っておくワケがない優良物件なわけで。
――でもその結果が女嫌いっていうんだから、どこの世界でもイケメンは大変だ。
そう思いながらもカマドと格闘を始めれば、意識は自然そちらに向かう。
以前よりは慣れたとはいえ、直火での火力調整はやっぱり難しい。
遊牧生活を基本とするこちらの生活は、とっても過酷。日の入りと共に起き、一日の大半が厳しい自然の中での肉体労働。
日暮れに一度、集落の皆と夕食を食べているとは言っても、今日みたいに遠方に行った後は、こうして寝る前に夜食をとることも少なくないんだ。
特に朝が弱くて朝食を作れない私はせめてもと必ず夜食を用意しているけど、最初の頃は惨憺たる出来栄えだったっけ。
四苦八苦しながら、それでも程なくして温まった夜食用のスープを出す。
すると木のお椀に口をつけて一口啜ったアーディルが、
「……随分上達したな」
とぼそりと呟いた。
「最近お疲れみたいだから、疲労回復に効くアンカを足してみたの」
ちょっと嬉しくなって、私も一口。
うん、焦げなし、生煮えなし、味付けマトモだ。
「ならば砕いたシュルカも組み合わせると、もっと良いな。両方とも疲労・倦怠感をとる生薬だが相乗効果が期待できる。ただし熱に弱いから、最後に上に散らすぐらいにしろ」
ふむふむと、教えてもらった香辛料の名前をメモに取る。
OL時代に使っていた、最初の数ページしか予定が埋まっていなかったスケジュール帳は、今では私の薬草ノートだ。
こちらでは紙は油紙以上に高価なもの。できる限り無駄がないよう、慎重に考えながら書き込んだ。
「そこに書き込んだものは、そろそろ覚えられたのか?」
空になったお椀を渡され、もう一杯、お代わりを注ぐ。
目の前にいる男性は私の恩人であり、お医者様でもあるけれど、実は、もう一つ。私に異世界の薬学を教え込む、スパルタ教師の側面を持っている。
「大分覚えたつもりだけど、やっぱりまだ全部は無理だから、このノートは手放せないかな」
そう言って、私はぺらぺらとページをめくる。
「しっかり暗記しろよ。お前は呑み込みは早いのに記憶力が弱いのが弱点だ」
その言葉に、私は溜息と共にぱたんとノートを閉じる。
そう簡単に言ってくれるな。馬と羊と生活している人間から見れば、スマホ・テレビ・パソコン生活に慣れた私なんて、様々な分野で劣っていること極まりないわけで。
気力、体力、視力、聴力、記憶力。足りない箇所を上げれば、きりがない。
もはや気分はすっかりご老人。それに対してアーディルは、生まれながらの遊牧生活で鍛え上げられた、生粋の騎馬民族だ。
決して見た目だけではない、弓のようにしなやかで筋肉質な身体に、野性味を感じさせる精悍な顔立ち。褐色の耳には医師であることを示すイヤーカフスがひとつ光る。
それがただの粗野な男に見えないのは、髪と同じ黒曜石の瞳が、少しの憂いと知性を宿して男の色気を添えているからかもしれない。
年こそ私よりもずっと若いけど、どこをどう見ても、年下だなんて思えない。こちらの世界の常識で言えば、本来なら子供がいてもおかしくない年齢の彼。
落ち着きも、思慮深さも、責任の重さも何もかもが違う。
生きていくだけで途方もない労力を強いられるこの世界で。何故か今――私は生きている。
「今日は何をしていた?」
食事を終えたアーディルが問いかけてくる。
「今日はレイリに機織りを教わって失敗して。ナンナの手伝いで井戸に行ったけど水瓶を運べなくて……失敗して。スィンが糸を染めるのを手伝……、眺めてた」
「相変わらず、女の仕事は難しいか」
指を折って失敗を数えていると、小さく溜息をつかれる。
「……ごめんなさい」
アーディルは別に嫌味で言っているんじゃない。それは分かっている。
彼も集落のみんなも優しく「異世界人だし病み上がりなんだから無理しないで」と笑ってくれるし。
けれど食い扶持が一人増えるということは、狩りをするのも水を汲むのも、全てが一人分追加で必要になるということだ。
特に今年はまぐさの伸びが悪かったそうで、一族が普段住んでいるエリエの街から離れたこの場所で、馬や家畜を放牧しているらしい。
ただ飯喰らいが、お荷物じゃないわけがないよね。
しかも体調はもう大分前に回復してたりするから、また問題で……
これでも元の世界では、運動部出身。体力には自信があったんだけどね。
それでも私は水瓶一つ肩に乗せて歩けないし、小さな子供ですら乗れる馬に跨ることもできない。放牧に付き合えば方向が分からず、挙句の果てに迷子になる。
早い話。現代人な私は、たとえ体調が万全だったとしてもここの暮らしについていけないのだ。
それが分かっているから、いたたまれなさで、今日もただ謝るしかできなかった。
「しかし……細かい作業は得意だな。薬学も数学にも強い」
悄然とした私に、思案気な表情でアーディルが呟く。
「そりゃあ、これだけしっかり教えてもらえば、少しは手伝いだってできるようになるよ」
それに、私の実家、漢方薬局だったしね。
星の輝きも、風の匂いも、雨の音すら違うこの世界で、故郷を思い出せるものは、無骨なアーディルの手から生み出される薬の匂いだけ。
拾われた直後の寝たきりの時からずっとアーディルの手元を見ていたのは、作業を覚えようとしていたからじゃない。ただ単に、懐かしかったからだ。
「ねぇ、今日の帰りが遅れたの、もしかしてまたラキーブさんに何か言われたから?」
ラキーブさんというのは、この集落の長であり、無駄なものを全て削ぎ落としたような、鋭い目をしたオジサマだ。
仕事で失敗ばかりしている私は彼に目を付けられているんだよね。
もしかしたらまた私のことで、何か注意を受けたのかもしれない。
こんなに遅くなるまで帰ってこなかったのも、いつもより煮え切らないアーディルの様子も、そう考えれば納得がいった。
「――酒が入ると長いからな、あの親父は」
軽く目を伏せたアーディルが、少し言いよどみながら頷く。
うう~。やっぱりかぁ。もしかして、レイリの機織りを手伝った時に、たくさんの糸を駄目にしてしまったことで注意を受けたんだろうか。それとも、染料の壷を倒してしまったこと?
仔ヤギを放す場所を間違えて、干し肉を作る作業の邪魔をしたのは昨日だっけ。
薪の束を倒して雪崩を起こしてしまった件は、なんとか自分で元に戻したけど……
ああ、もう! 思い当たることがありすぎて、頭を抱えるしかない。
そう苦悩する私を、アーディルが「リィナ」と、こちらの人独特のイントネーションで呼んだ。
「嫌味と捉えず聞いてほしい。リィナは、今も王宮に保護してもらう気はないのか? ……正直ここの暮らしは、異世界人のお前には辛そうに見える」
お酒入りの金属のカップを水でも飲むかのように傾けながら、少し改まったアーディルに問われる。
けれど、いつだって私の答えは一緒。
「王宮で保護してもらった人達の中で、元の世界に帰った人はいないんでしょう? それなら、『虹の雨』が降るまでここにいたいよ」
私が何でこの世界に来たのかは、分からない。いつ戻れるのかも分からない。
そんな私の深い絶望も、こちらの人からすれば、『珍しいけれども時折来る、不運な異世界人』程度の認識だ。
別世界の知識を持った異世界人は王宮に行きさえすれば手厚く保護されて、こうやって日々の生活に追われることもないと聞く。
それでも、私はどうしても元の世界に帰りたい。その唯一の希望が、この荒野にのみ降るという『虹の雨』だった。
「とはいえ、虹の雨に消えた異世界人の話は、伝承の上でだけだし、虹の雨だって滅多に降るものじゃないぞ」
「でも、二つの世界が交わりし時、荒野に七色に輝く雨が降る。とも言われてるんでしょう」
「確かに古くから残る一節だが、砂漠に浮かぶ蜃気楼も、荒野に降る『虹の雨』も、どちらも神の領域。人が望んで得られる物ではない」
アーディルの冷静な指摘に、私は黙り込む。
見えるのに触ることができない蜃気楼のように、『虹の雨』もただの気象現象で、私を日本に帰す力なんて持っていないのかもしれない。もしそうだとしたら、私が今荒野に留まるために努力していることは全部無意味なこと。
それは分かっている。けれども伝承上の『虹の雨』と、私がこの世界に来た時に見た、光り輝く虹色の雨が、あまりにも酷似していて諦めがつかない。
私がここに居続けるのは、みんなのためにならないと分かっていても、元の世界に戻れる最後の希望を前に、ここから動けないのだ。
「望み薄だっていうのは分かってる。でも私は虹色の雨に包まれてこの世界に来たの――。伝承はきっと無関係じゃない。どうしてもこの荒野から離れたくないよ」
「……」
「迷惑かけてるとは思うけど……、ほんとにゴメン」
膝を抱えて小さく謝る私に、溜息と共に謝るなと返された。
「ラキーブの親父に、お前のことを言われたのは、確かだ」
両手で抱えていた薬草茶の水面が揺れるのを眺めていた私の横で、アーディルが棚に片付けた薬研に手を伸ばす。他にもいくつかの薬草を取り出して、薬として必要のない部分を取り除き始める。
いつもお酒が入っている時には、薬を作らないのに珍しいなと思っていると――
「……お前達は、夫婦になる気が本当にあるのかと問い詰められた」
「え?」
しばらく黙ったあと、唐突に話し出したアーディルの言葉の意味が分からなくて、ぽかんとする。
思わず精悍な顔を見つめると、あまり表情を出さない彼にしては珍しく、何と言うかばつが悪い顔つきをしている。
私は首を傾げながら問いかけた。
「だって、名目上は一応、結婚してるんでしょう? 私達」
そう。私達は現在、偽装結婚の末、仮面夫婦として暮らしている。
独身女性である私がアーディルと同じ幕屋に寝泊まりしているのは、私が寝たきりの頃ならともかく、こちらの常識ではありえない。
ただ元の世界とこちらでは、『結婚』の概念が大分違うんだ。
こちらでは、父親が娘の嫁ぎ先を決め、男女が同じ屋根の下で暮らして、女性が出産する。そうして初めて正式な『家族』とされるのが一般的なんだそう。
出産できなかった女性はどうするのだと、人権保護団体から盛大な抗議が来そうだけど、ここはもともと女性の権利がすご~く低い、体力至上主義の遊牧生活。
そして女性側も、肉を狩り、時には狼の集団から女子供を守る男性を非常に尊敬してて、現状に不満を感じていないんだから、異世界人の私が口出しするこたぁないわな。
だから子どものいない夫婦は、結婚していても仮の夫婦扱いになる。
王宮や街に連れて行かれるのが嫌な私と、娘を売り込んでくる人達とのやりとりに疲れたアーディルの利害が完全に一致。偽装結婚の契約を交わし、同じ幕屋で寝泊まりしている現在に至るのだ。
もちろん、肉体関係もないけれど、それは周りには秘密にしていた、はず……?
私は黙ったままの、『夫』の顔を見上げる。
「アーディル?」
重ねて問えば、諦めたような溜息ののち、とんでもない爆弾が落とされた。
「つまりだ。俺達の間で一度も夜の営みがないなら、婚姻関係を解消してリィナは王宮へ。俺は嫁をもらいなおせということだな」
「はぁっ!? ちょ、ちょっとなんで、それ!」
思わず立ち上がって叫びかけた私の口を、慌てたアーディルの大きな手が塞ぐ。
「静かにしろっ!」
むぐむぐっ! ……んぐがっ! ぷっはーーーーっ!
ちょっと、アーディル! 殺す気!? こんな大きな手に口塞がれたら、息ができないよっ。
涙目になりながら、ぜいぜいと息を吐く私を、褐色の指でちょいちょいと手招きするアーディル。
何、内緒話をしないといけないわけ? 時計すらないこの世界に、盗聴器なんてないでしょうに。
「どゆこと?」
「王宮に行くのが嫌なら、エリエの街にある一族の館でお前の面倒を見ても良いと言ってきている。別に持参金泥棒をするつもりはないぞ」
「んなことは、聞いてないよっ」
ひそひそと、でも思わず小声で叫ぶ。
ちなみに持参金と言うのは、女性が結婚する時に実家から持って来るアレだ。
こちらの風習では、娘が生まれたらまず最初に考えるのが、持参金の積み立てについてというくらい、女性側の負担が大きくて、馬・ヤギ・絹地など様々な資産が動く。
私の場合は、トリップ時につけてたピアスの片方を売るだけで、ビックリするような値段になったので、自分で購った形になるんだけどね。
でも、アーディルの属する一族はジャラフィード一族と言って、古くからこの地に住まう騎馬民族。拠点であるエリエの街ではそこそこの有力者扱いだ。
だからもし一族の館でお世話になるなんてことになったら、大きな館から一歩も出れない「フツウの女達の生活」が待っているわけで。それって王宮に行くのと何が違うのさ。
「つまり、私達の関係が偽装結婚だってばれてるわけ?」
「一度も営みの様子がないと、はっきり言い切られたからな。……様子を窺っていたんだろう」
あーりーえーなーい~~っ! 何それ。普通、夫婦生活を覗き見するかぁ!?
思わず声を上げて、いきり立つ私に、アーディルは、
「……っ! めんどくさい!」
と言い捨てると、ぐいっと腕を引っ張った。その勢いで、私は床に座った彼の膝上に横乗りになる。
「静かに話せないなら責任持たんぞ。お前が思っているより、皆ずっと耳が良いんだ」
右の耳朶をくすぐるくらい近くにあるアーディルの顔に、思わず無言でこくこくと頷いた。
「ええとつまり、ラキーブさんは覗き見をしていたわけじゃなく、逆にこっちの人からすると、夜の生活は漏れ聞こえて当然なわけ?」
声を潜めているとはいえ、怒りと羞恥は収まらない。
最大限の(?)小さな声で、猛烈に抗議をすれば、アーディルは平然と返してきた。
「ああ。別に聞き耳を立てているわけじゃないが、聞こえても不思議じゃないのも確かだな。――今まで特に気にしたこともないが」
うわぁ。最悪。デリカシーとか、プライバシーって単語はないのかい?
「つまり、今俺達がしている会話を聞かれたら、あとは何をどう取り繕っても言い訳にしかならない。偽装結婚がばれるのは、俺だって本意じゃないんだ」
間近できりりと睨まれて、不覚にもどきりとする。
馬に乗せてもらった時以外で、こんなに近くで話したことなんてない。
膝の上に抱えられて初めて、アーディルの力強さとか、腰に回された手の大きさとかを強く感じて、軽く動揺が走る。
「わかった。絶対、静かに話す。約束する!」
動揺もあらわに小声で宣言すれば、で、どうする? と問いかけられる。
「お前……。その、どのくらい演技力あるんだ?」
「それは何? ……もしかして、私にAV女優のような声を上げろって言うわけ?」
あー! むりむりむりっ! 小学校の学芸会では、木の役とか花の役が関の山だった私だ。
「えーぶいの意味は分からんが、言いたいことは何となく分かる」
「それに、私だってここの生活長いけど、一度もみんなのそんな雰囲気に気がつかなかったよ?」
近くの幕屋には他の若い夫婦もいるのにだ。
「お前はいつも疲れて熟睡してるからな。後は異世界人であるお前の動向がそれだけ注目されているってことだろう」
そう溜息と共に言われても、これっぽっちも嬉しくないよ。
「ここ最近は夜間に天窓を開けていたのも一因だろうな。営みの声が聞こえないのを不審に思われたんだろう」
そういえばまだ体調が思わしくなかった時は、屋根は全部厚いフェルトで覆われていて、外気と音を遮断してくれていたっけ。
寒暖の差が病み上がりの身体に良くないって言ったアーディルに、体調も回復したし時間の経過がわからないからって私が開け始めて……
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