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本編>第一綴:——
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しおりを挟む「……おはようございます、奏士」
今朝はなぜだかよく眠れず、目が覚めてしまっていた。朝織にはまだ早いが眠れないならさっさと起きてしまおうとベッドから出たのが先ほどのこと。部屋から出るとちょうど同じタイミングで廊下に出てきた人影がひとつ。
「おはよう。早いな」
互いに燭台を持っていたとはいえ周囲はまだ暗い。こんばんはのほうが適当なくらいだ。声で判断し挨拶を返す。
エリオはそこに立ったままでいた。彼の部屋のほうが礼拝堂側の出入り口に近いため、必然的に私が近づく形になる。
「なぜこんな時間に?」
灯が並ぶ。
「理由が必要か」
廊下は静まり返っていた。人気のないそこをそのまま進む。天井にすら星の見えそうな今、まだここは夜の領るところにあるか。
「眠れなかったのですか」
「……ああ」
声を極力低めようとも音を吸収するものの少ない廊下ではいやに大きく聞こえる。足音も、衣服の擦れる音も、装飾品のチリチリと打ち合う音も。
外に出るまで、それ以上は私も彼も話さなかった。
「少し歩きませんか」
そう提案したのはエリオだった。礼拝堂に赴くには些か早すぎるし断る理由もなかったので、私は頷く。
外に出てしまったほうがまだ明るかった。だが空は朝の気配をわずかに感じるばかりで、まだほとんどは影の世界の中にある。灯火も王の居住する棟を中心とした建物の周りばかりに設置されていて、庭園——それも対外的アピールには使われない端のほうのものとなればその数は少なく、足元すら危うい。
「水曜日」
庭園を静かに歩く中、思いも寄らない単語に動揺する。
「ご迷惑をおかけしました。それとありがとうございました」
前を行くエリオの表情は見えない。
覚えているのだ、と思った。あの夜の、馬車の中でのことを。
「過ぎたことだ。あまり気にするな」
そう言うのがやっとだった。
「だが酒は飲みすぎないようにしろ」
「宮廷に仕えるものの品位の話ですか」
「それもある」
「も?」
エリオはそこで初めて振り向いた。
「お前自身のためだ。少なくともああはならないようにしろ。愛人を何人も持ちたいわけじゃないならな」
言っておいて、思い出し、なぜかこちらが気恥ずかしくなって、それを振り払うイメージで瞬きをする。
エリオは呆けたような顔をしていたが、ふ、と笑ってからまた前を向いた。
「はい」
なにがはいだ。彼の死後、愛人を名乗り出る人間が何人いたことか。遺産をめぐる争いは熾烈だったと聞いたが、結果は知らない。大方、親兄弟が勝ったのだろう。
庭園から林の方に入る。これでもまだれっきとした王宮内だった。王宮正面の庭園が抑圧の庭園ならば、ここまで歩いてきた庭園は調和の庭園だ。何代か前の国王が遠方から迎えた自分の愛妾のために設えたと言われており、建設当時は庭園と林を安定させるため奏術師も駆り出されたのだという。正直なところ、こちらの庭園のほうが私は好きだった。整頓された人工的な美、対称性の美、それを理解できないわけでは無いが、どうにも息苦しさを感じてしまっていけない。
夜露の名残がまだ、生い茂る葉に残っていた。黒黒とした木々の覆いの向こう、六等星から順々に、紺碧の空から消えていく。夜は静かに自身の終わりを待っていた。その冷たい手が裾を這い、銀糸で施された刺繍を重く湿らせる。
「あ」
それは一瞬のことだった。木立の間を吹いた風。風が、彼の灯を消した。
途端にあたりは寒々しさを増した。煙が細く、細く流れていく。
「もっていけ」
私は自身の蝋燭を彼の方に近づけた。エリオもまた火の消えた蝋燭を寄せた。芯が触れ合って熱が移ろう。橙の火が分裂する。火によって顔は赤く照らされ、その陰影は揺れる。
「ありがとうございます」
陰影は私の心に落ちる。風にかき消えた火、それがなにか悪い予言のように感じられてならなかった。
「テオドール?」
「あ……いや、なんでもない」
朝はまだ訪れない。
どこからか、早起きのアムゼルの独唱。
「……一昨日、奏術師長に会いました」
またしばらく歩いてから、唐突にエリオは話し始めた。術師棟からかなり離れてきたここならば、と思ったのかもしれない。
「案の定でしたよ」
その言葉だけでアールステッド奏術師長がどんなことを彼に言ったのか察される。
「でもあの人はこうも言いました――あなたの指示に従うように、と」
奏術師長は、私のことをまだ味方だと思っているのだろう。手綱を引きエリオの暴走を止めてくれるだろうと。私は従順であったから。
「面白いことを仰るな、師長は」
「あなたは僕になんと仰るつもりですか?」
寒さのせいか?この手が震えるのは。
「別に……なんとも」
息を吸う。そして前生に言えなかったことを、とらなかった選択肢を。一度目の自分とその道を分つ。
「好きなようにしたら良いだろう」
私はその言葉でもって、彼のやろうとしていることに承認を与えたつもりだった。何をやらかしてくれるのかは知らないが。
へえ、と言ってから、エリオは笑った。なにか良からぬことを思いついたときの笑い方だった。
「無責任だとは思わないんですか?」
本気で言っているわけではないだろうその言葉に、鼻で笑ってやってから返す。
「我儘だな、責任をとってほしいのか」
「もちろん。あなたは僕の師匠でしょう」
師匠、その言葉に少し面食らう。色々と、思うところのある言葉なのだ。
「西と南、どちらがいい」
「フェルシオン国とイルタール国ですか」
「そうだ。もし辞めることになったら、紹介状くらいは書いてやる」
笑いながら、これが冗談で終わればいいと願う。
「では南で」
「温暖な土地のほうが好みか」
「いえ、ウィルツィアに伯母がいます」
それは、一度目含め初めて知ることだった。
「そうか」
アムゼルの囀りが増え始める。
暗い林の中、空気は青く、影は黒く、灯は朱い。
「そろそろ行きましょう」
もう向かうには良い頃合いだった。勤勉な奏術師らならばそろそろ礼拝堂に着いているだろう。
日曜の今日、朝織は他の曜日と比して規模が大きい。この頃にはもう数を減らし始めているとはいえ、歌術の使い手も参加する。
思えば、二度目が始まってから初の日曜の朝織。ブランクは数十年。そう考えると少し緊張した。水曜は言わずもがな外出、木曜は夜会、金曜は諸用で一日中宮廷におらずと案外忙しくしていたのだが、その合間にも練習は欠かさなかったので大丈夫だと思いたい。
何事もないと良い、しかしその望みはまさかの、自分とエリオが礼拝堂に着く前に壊される。
「なにかあったのか」
遠目で見てもその異様な空気は察せられた。礼拝堂の外、術師用の目立たない出入り口の前で二、三の塊を作りながら話している奏術師たち。明らかに動揺していて、不安げで、またある人は苛立っているようにも見える。二階へ続く内部の階段を降りてきたであろうひとりの奏術師がその集団のひとつに何事をか耳打ちすると、その動揺は一層増す。
「お、ふたり……二人?珍しいな、まあいい。こっちへ」
声をかけてきたのはフォルナーグ奏士。その表情からもただならぬなにかがあったことが察される。
「何事ですか」
問うと彼は返す。
「パイプオルガンが何者かに壊されたらしい」
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