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本編>第一綴:——
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しおりを挟む弓を引く、ペグを巻く。身体に刻み込まれた周波数に、聞こえてくる波のそれを合わせ、指先の感覚を信じ、経験を信じ、肌の上をすべる冷ややかな震えと肉体に染み入る音に意識を向ける。
地上階にはもう十分に人が入っていた。一階部分もおそらくは。
譜面台の横の灯が隙間風に揺れ、端の焦げた楽譜の上、五線とそこに眠る旋律を照らす。音符の隙間、微妙に色の違うインクで振られた指示記号は、魔法ののせ方を指定するものだ。
静音、共調。普段より巻きであったとしても、直前に事件があったとしても、精神を凪がせ、“意思”をしっかりとつなげていく。
アールステッド奏術師長は事件について言及しなかった。朝織の時間が迫っていたその時、やるべきことではなかったからだ。
今、神像に背を向け、彼は黙して立っている。その目からはなんの感情も見てとれない。しかしそれはなにも思っていないからではない。他人に自身の何事をも悟られぬよう、長い宮廷生活の中で身につけた生存の術によるものである。
二儀式が終わる。合図を待つ。アールステッド奏術師長は定位置から数歩下がり、半身を捻って階下を見ていた。そこからは顔の見えない神像と、祭壇の近くにいるであろう鍵守の姿が見えるはずである。
しばらくして、階下を見たまま彼は頷く。地上階にいる鍵守との間の無言の会話だ。数歩進み出、定位置に立つ。その腕があがる。
旋律と魔法でもって礼拝が彩られる間、我らが神について話そうか。
我らが神は姿をもたない。ゆえに大抵の彫刻や絵画では、頭にベールをかぶり、身体には布を巻いた姿で表現される。この礼拝堂の神像もそうだった。
構造上どうしても露出してしまう箇所には男体が置かれることが多かったが、徹底するのならそれすら避け、透明な存在が布をまとっているかのように表現するのが良いとされていた。この物質的な存在の欠落については創世神話も関わってくるのだが、今はこのあたりでやめにしよう。
一音一音を丁寧に、長く伸びやかに響かせる。単調な旋律に絡めるのは魔法というよりも祈りだ。神に捧ぐ魔法。神——人に創世のわざの一端を与え、沈黙を続けるそれに対し、私は何を思えばいい。
地上階から吹き抜けになっている礼拝堂、鍵守の言葉が始まり、演奏は背景に。重厚な音の層の中で、壊れたパイプオルガンだけが静かに鎮座している。
一曲の終わり。乾いて硬く黄ばんだ紙が、はらはらとめくられて次を待つ。人によっては休みだ。なぜなら主役は、歌術師がその声で担うから。
大窓から入る光が白に近づいていく。春、日が出たとしても、石造りの建物の中はなかなか温まってくれない。だが指先が凍て関節から割れてしまいそうな冬の早朝よりは、大分マシだ。
メロウ夫人が前に出る。私は楽器を下ろし、拝聴の姿勢をとる。
石壁に染み入るような静寂。徐々に強まる日の白光に圧倒され、蝋燭の橙は次第に見えなくなっていく。
聴くことに集中しようと目を閉じた。しかしその直後に引っかかりを覚え、すぐに瞼を上げることになる。
(誰だ)
つながれた意思の外からの魔法の気配。私以外にも幾人か気づいたようで、不可視の網が波立つ。何が起こったか、それはすぐに分かった。
中心から端のほうへ、交換でもって一挺のヴァイオリンが運ばれていく。目をやる、その弦はすべて、まるで鋭い刃物で断たれたかのように切れている。
配置からしておそらく切れた——切られたのはエリオの。
弦が同じタイミングですべて、ああも綺麗に切れるものか。直前にした魔法の気配と合わせて考えれば、誰か外部の人間が切った、それしかありえない。しかしすでに逃げてしまったのか、あたりにそれらしい人影は見当たらなかった。
パイプオルガンに続きヴァイオリン。儀式自体の妨害が目的か?それとも――。
✧
「エリオディアム・メーヘム」
朝織が終わり、人々の口からは抑圧されていた言葉が飛び出してくる。その喧騒の中を、重く冷たい声が貫いた。さながら斬首に処された罪人の名を呼ぶかのようだ。それはアールステッド奏術師長の発した声だった。
「はい、師長」
周りの術師は巻き添えを食らう前に退散しようとばかりに顔を伏せ、盗人のような手つきでこそこそと片付けを進める。
アールステッド奏術師長は僕が近づこうとするのを手で制止し、つかつかと目の前までやってきた。
「最近、お前は随分と早くから礼拝堂に来ているそうだな。不自然なまでに」
これは面倒なやつだ。
「不自然?まさか。自分の未熟さにようやく気づき、これまでの分も取り戻そうと努力しているだけです」
アールステッド奏術師長はこの主張にため息をついたあと、我が子を戒める親のようになって言う。
「もし正直に話すというのなら、弁明の機会を与えてやる。あれはお前がやったのだろう」
その視線の先は追わずとも分かる。
「いいえ。何の理由があって僕があれを壊すと言うのですか。それに今朝、僕が到着したのは事件が発覚したあとですよ」
「壊したあとでまた戻り、そのことが発覚するまで待ってから来たのではないかね」
「そのようなことをする時間はありませんでしたが」
「口先ではどうとでも言える」
ひどい言いがかりだ。師長自身もこれが本気で通るとは思っていないだろう。彼の目的はおそらく、すでに流れ始めているであろう朝織前の“事件”の噂と、僕の名を結びつけること。朝織は終わって間もない。先ほどわざわざ大声で僕を呼んだのも、地上階と一階に残っている人々に聞かせるため。「朝織前になにかがあった」「メーヘムという奏術師が奏術師長に呼ばれた」この二つの情報だけで、スキャンダルに飢えた連中は僕がなにかやらかしたのだと誤解し、頭と尻尾を雑に縫い合わせてつくったその噂をまるで事実であるかのように吹聴しはじめる。
「憶測でそのように仰るのは如何なものかと思いますが、奏術師長」
横槍。
周りがざわりとするのがわかる。
「レーベンツァイト、なんの真似だ」
「失礼。彼は私の弟子ですので。斯様な濡れ衣で名が汚されるのは看過できません。私の名にまで傷がつきます」
アールステッド奏術師長は意外だという表情もそうでないという表情も見せなかった。ただ強風に対して目を眇めるような、そんな険しい顔をしている。
「むしろメーヘムは被害者の側では?先ほどの演奏の最中、外部からの魔法によって弦が切られたのはご覧になったでしょう」
……彼は。七つも八つも上の彼は、僕を革命児のように言うことがあった。しかしあなただってその気質を備えているじゃないかと、ずっと思っていた。
「急に師弟の絆でも芽生えたか」
「申し上げたはずです、私自身のためだと」
視線がかち合って無言の闘争がなされる。
意外にも引き下がったのはアールステッド奏術師長の方だった。
「少しでも早くことを明らかにせねばと焦っていたようだ。盲目だったな」
「いえ、私こそ礼節を欠いた振る舞いを。失礼いたしました」
だがあくまでもここでは引き下がるというだけのことだろう。何かしら仕掛けてくるやも……というところで恐れ知らずがもう一人。
「ついに耄碌したか!アルノ」
今日は横槍の多い日だ。と、奏術師長も思っているだろうか。
「黙れイザーク」
ようやく感情の見えたようなその声を向ける先は、イザーク——イザーク・フォルナーグ奏士。
あの権力闘争なぞ勝手にやりたまえとでもいうようなへらへらとした態度の裏に、誰よりも大きな野心を隠す、この王宮の古株のひとり。
「エリオディアムは夜の内から日の出までずっと拘束されていたらしいぞ。気になるならテオドールに聞くといい」
それとなく話が盛られている気がするが、まあいい。
想定外の加勢だ。だが味方ではない。
「そろそろ隠居を考えたらどうだ?」
フォルナーグ奏士が見るのは長の座。現奏術師長の立場の揺らぎを嗅ぎつけ、火に油を注ぎに来たのだろう。
アールステッド奏術師長はなにか衝動的に言い返そうとしたのを噛み殺し、長息した。
「貴様とのくだらない言い争いに付き合う気はない。わかったらその横幅ばかりデカい体で他人の道を塞ぐな。さっさと退いてやれ、後ろがつかえてる」
フォルナーグ奏士が面食らうのがわかった。僕はほんのちょっとだけ師長を見直した。そして実際、フォルナーグ奏士の後ろには渋滞ができていた。
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