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本編>第一綴:——
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しおりを挟む「解毒と言いましたか」
「落ち着け、致死量ではない」
そう答えつつも立っているのがやっとだった。それまで感じていなかった不調が一気に押し寄せ、頭を押さえながら壁に手をつき座り込む。緊張状態が解けたからだろうか。無様な。いや、自嘲より先にやるべきことがあるだろう。
心配そうに伸ばされ宙にとどまっていたエリオの手を押しのける。
「……、壁でも見ていろ」
彼はおとなしく指示に従った。もしかしたら様子を察されてしまったのかもしれない。
グルーバー氏に飲まされた水薬は、所謂催淫剤として用いられるものだった。しかし「催淫剤」と言う名の催淫剤は存在しない。体良く言えど人体に影響を及ぼす毒物だ。あの男はどうも濃度を誤ったらしい。
応急処置でいい、ある程度動けるくらいになれば、あとは戻ってからどうとでもやれる。意識を身体の内側に向ける。呼吸を整える。
気を使ってかエリオは無言だった。壁に背を預け、隙間から入る僅かな光の方をじっと見ていた。
暗く静かな埃っぽいこの小室には、扉を隔ててくぐもった音楽ばかりが聞こえている。ここは魔法の影響範囲にない。華美さのない、照明の当たるところにない、まるで舞台裏に落ちたかのような隔絶感。そうだ、
「戻るなら戻れ、やるべきことがあるだろう」
こんなことにわざわざ付き合わせる理由などないではないか。彼を袖に留め置くなんてそんな勿体ないこと。しかしエリオはこう返す。
「今、僕が一番優先すべきだと思っていること……一番優先したいと思っていることは、あなたのそばにいることです」
声色でわかる。冗談ではない、真っすぐな言葉。私に向けられるには過分な。そんな言葉を聞きたくて言ったわけではなかったのだが。
分析を大方終え、頭の中で図面を引く。意思の上に言葉を添える。構築した骨組みに合わせ、祈るように詠唱する。
「……」
効果はあったが想定より弱い。不調で集中が続かなかったからだろうか。それとも。
「テオドール」
「なにか」
「僕に試させてください」
影が動く。
「やり方を知っているのか」
「今あなたがやってみせたでしょう」
背筋が冷えるようだった。今の一度きりのものを見て理解したと?
戦慄した、彼の才にだ。いや、薄々感づいていたとも。奏術ばかりにとどまろうとしない、演奏ばかりに発揮されないその天稟に。だから私は彼に魔術を教えようとはしなかったんだ。
エリオが近くに来てしゃがむ。
「喉をやられたのではないですか、詠唱が不安定でした」
図星だった。
ここにいるのが見目通り十八の彼であったならわからない。だが二十四まで生きる間に誰に教わったのか、それとも独学か、魔術についてもある程度の知識をつけた彼には工程の内どこが狂ったかもわかってしまうらしい。
「その通りだ……薬の作用だろう」
音が掠れる。
「馬鹿な男だ、濃ければいいってものじゃないだろうに」
エリオはそう独り言のように言う。
布ずれの音、接近。
「不安ですか?」
「当たり前だろう」
いくら相手が天才とはいえ、自分の身を他人に預けるのは恐ろしいことだ。しかし、腹を括る。
「やり方についてなにか訊いておきたいことは」
「……いいんですか」
遠回しな許可に、エリオがの動きが一瞬止まるのがわかる。
「この状態では、お前に任せたほうがリスクが低い」
「それなら——」
エリオはいくつか確認をした。私はそのすべてになるべく丁寧に答えた。
「駄目そうならすぐに言ってくださいよ」
詠唱が始まる。
視られているのを感じる。拒絶したがる心を抑えつけ、粗削りなその魔法を受け入れる。加減のわかっていない暴力的なまでのそのはたらきに、思わず息が詰まる。
「……っ」
痛いか痛くないかで言えば痛い。体中を巡る管という管が、あと少しで破裂してしまうのではないかと思うような痛みだ。急ぎすぎている。しかし声を上げて無駄な心配をかけ、中断されてもいけない。呼吸を止めるな、吸って、吐け。
うめき声が漏れる。
苦しみながら、安心していた。これでなんの痛苦もなく終わっていたなら——完璧な操作を見せつけられていたなら、嫉妬やらなにやらでおかしくなるところであったから。
「その……大丈夫ですか」
詠唱が終わる。珍しくエリオが控えめな声で言う。
深呼吸をひとつ。症状はだいぶ緩和されていた。初めてでこれは出来すぎなほどに。やはりお前は神に愛されている、そのため息を飲み込んで言う。
「焦りすぎだ、もう少しゆっくりやったほうがいい。だが、それ以外に文句のつけようがない」
勝てないのならせめてひとつでも多く欠けを作りたい、せめて魔術でだけは上回っておきたい、その思考から私は彼に魔術を教えなかった。私が私の能力を信用していないがゆえ、彼を下げておくことで心の平穏を保っていたのだ。大人気のないことをした。もし彼が望むのなら、そして関係が続くことを望んでもいいのなら、私から差し出せる僅かなものとして魔術を教えるのも悪くないかもしれないと、そう思う。そこでくらいならきっと私も、添え木ほどの役は買ってでられるであろうから。
日に照らされて輝く星々の、そのもう片面は影であるように。テオドールの穏やかな祈りの裏には、諦めによって縛りつけられた悪感情が潜んでいた。それは自らより年若い天才への劣等感から湧いて生まれたと言える。善人の顔をし、屈服の姿勢をとるのか?彼が来るまで私のものであったものたちを、お前はそう手放したままにするのか?昏い世の中を、お前は陽の強烈な光に蒸発させられたまま生きたいというのか?魔術を教えるのも悪くないかもしれないなぞ、彼に奏術では勝てないと認めたも同然ではないか!——悪感情は吠える。——この縄を解け。数十年の間に盲目になり牙の抜け落ちたお前のその腑抜けた面を噛み、目の前の男の首を噛み、今に私が太陽を引きずり下ろしその恒星の座を簒奪してやる、と。
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