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本編>第一綴:——
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しおりを挟む馬車に乗っていると、彼が危篤だという連絡を受けたときのことを思い出す。宮廷奏術師を辞め旧市壁の外に居を構えた彼のところへ、あの日も辻馬車で向かったのだったか。
街灯の光と石畳からの照り返しが曇った車窓で乱反射して、私の黒衣を橙に染める。目を射る光。その眩さから、私はずっと目をそらしていた。目を瞑れば……これは未だに夢なのではないかと思えてくる。私のあの試みは失敗していて、再びまぶたを上げると、そこはあの修道院の部屋で……。夢なら。いつ終わるとも分からぬ夢なら、もっと大きく動くべきだろうに。限られた時間。彼の病、早すぎる死。そう、そうだった。彼の死が運命により定められたものであるなら、あなたに認められたかったと二度も言わせぬように、私はもっと大胆に行動せねばならないのではないか?
「着きましたよ、旦那様」
御者の合図を受け馬車を降りる。雨の止む気配はなく、無数の雨滴の衝突で足元は白く煙っていた。コートがあれど肌寒い。
「入り口はあの路地を少し入ったところです」
吊り看板とランタン。扉に入った水避けの紋がかすかに輝いている。中の賑わいは扉越しにも分かった。くぐもった喧騒。私は襟を引き寄せ、その扉をくぐった。
途端に耳に届く澄んだ一音。私は反射的にアンカーの準備をした。精神汚染の心配がある場合にその影響を受けないようにする、或いは影響を受ける前の状態に戻せるようにするための術のひとつだ。だがその心配は杞憂だった。なぜなら演奏者は。
「エリオ……?」
人混みでよく見えないが、入り口のちょうど対角あたり。
人の注目はそちらに向いていた。私に気づいたのは店主らしき男性ひとりだけだ。静かだった。例えるならば嵐の前の。彼の意思が酒場の閉じた空間に巡らされるのを感じた。まだ一音だ。
私は畏れから、半ば無意識にアンカーを展開した。流される、そう思った。
波濤。そこにいる人すべてが呑み込まれていく。次のそれで我々はすでに彼の創り出す空間の中にいた。比喩だ。酒場から一歩も移動はしていない。しかし流れの中にあって、幻覚を見るように。魔法を弾いていようと、音は心に作用するものだ。
その終わりが来るまで、私は目を離さなかった。彼が上体を起こしてその目を覆っていた布を外した時、泡のはじけるようにして歓声が起こり、それでようやく。その曲は、誰か他の人に属すものではなかった。彼自身によるものだ。新たな時流の始点は、少なくとももうこの時点で、この酒場の人間たちには受け入れられている。
目隠しを外してすぐに、彼の視線はこちらを向いた。その青と、目が合った。
彼は周りと二言三言交わしていたが、何か言われて首を横に振ると、舞台を降りた。楽しげに笑っていた。差し出されるものをことごとく断り——それでも酒については別だったが——彼はまっすぐに出口の方へ。先に出てくれとその目が私に言った。私は彼に向けられた数多の視線が私をとらえる前に、扉を開けて外へ出た。
「来てくださったんですね」
彼は上機嫌といった風で、普段よりもふわふわとしていた。いったい何杯飲んだのか。
「酔いは醒ますか」
「そんな酷い!なんのために飲んだと思ってるんです」
前生の知識から、実は基礎的な解毒の応用でできなくもない。しかし断られたのでやめておく。まあなにかあったとしても私が黙っておけば……。
辻馬車はまだそこに停まっていた。折角雨避けをもらったので、それを存分に活かして煙草をふかしながら、酒場から出てくる人を待っていたらしい。御者と目が合った。一瞬、隣を見て大丈夫かと考えたが……歩いて帰るのも憚られる。
「お早いですね。迎えだったんですか」
「ああまあそんなところだ」
御者には行きに乗ったところまでと伝えた。
「おい、大丈夫か」
「もちろん」
「大丈夫じゃないな」
彼を座らせるのに苦心していると、馬が走り出してしまい、私はやむなく彼の隣に腰を下ろす。
「質のいい車ですね」
何を言うかと思えば。だが確かにそうだった。惜しむらくはその賛美は、持ち主に届いていないということ。
「テオ」
「気安く呼ぶな」
「いいでしょう、ここには僕とあなただけだ」
光がその顔の上を舞っている。あの初夏の宵のような不穏がよぎった。しかし光は去った。鼓動が伝わってくる。彼は生きている。
「帰ってよかったのか」
「帰られる前に帰りたかったんですよ」
ずるずると彼の体重が私の方にかかってくる。おい、と声をかけたが、変わらなかった。その表情を見て、好きにさせることにした。その才から勘違いされがちだが、彼の年齢はまだ宮廷で一人で立つには幼すぎる。
「あなたが来たのはすぐに分かりましたよ。そこだけ僕の術が拒絶されていましたから」
アンカーの展開はやはりわかってしまうようだ。
「まだあなたには届かないんですね」
彼はその後小さく何かを呟いたが、馬車の行く音にかき消され、私にはよく聞こえなかった。
そうじゃないと言おうとした。私の心にそれは深く刺さっていたから。しかし言葉が詰まった。他に人の目のないこんなところですら、ねじれてしまった私は素直に話せないというのか。
「……そちらのカーテンを閉めてくれませんか」
言われるままに閉める。眩しかったのだろうか?彼は体を起こすと、反対側のカーテンを閉めた。光は隙間からかすかに入るばかりになった。車内はほとんど暗闇と言って良い。
それは一瞬だった。何が起こったか理解する前に私の体は座面に押し倒されていた。影。エリオが私に覆いかぶさるようにしてそこにいる。予想外の出来事に反応が遅れた。位置を確かめるかのように私の唇にそえられた彼の指。そして私が抵抗の言葉を発する前に。
私は咄嗟に、御者へ停止の合図を送ろうとした。しかしその手はいとも簡単に押さえつけられる。
アルコールの匂い、酸素欠乏。――馬車が揺れる。
「っ、」
心臓が早鐘を打っていた。なによりも驚愕が勝っていた。今、なにを……?
「……飲みすぎたみたいです。あなたの提案を受けておくべきでした。今の僕はきっと冷静じゃない」
私を押さえるその力が抜けていく。
「多分、まだ夢の中にいると思っているんだ。あなたが隣にいるなんて」
どうか離れないで。呟くように言って、彼は私の胸に倒れ込んだ。眠っていた。
私は混乱していた。なにをしたのかもどうすべきかもわかっていなかった。
しばらくして。落ち着いてきた私が彼に見てとったのは幼さだった。親からの愛の欠乏。彼のその欠乏が、こう誤った形で発露したのだろう。心の内にいた寂しさ、人肌恋しさ、それを満たそうという動きが、酔いによって間違った形になったのだと。まだそれの必要な年齢から、彼は宮廷に赴かねばならなかったから。宮廷、彼はその性格と思想ゆえに独りだった。あの場所で彼の側に立ち、後ろ盾となれるのは私だけだ。あの場所で彼の欠乏に応えられるのも、おそらく私だけだ。
この時の私は勘違いしていた。私は彼に父性愛を与えてやればよいのだと。そうでなかった。それは——。
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