奴隷商人の息子として転生したけど、奴隷は絶対売りません!

林檎雪

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第八話 姉妹奴隷

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 ベルトラの過剰なほどの笑顔と共に、ルーベルトとクリスはその私室へと足を踏み入れた。

 扉が閉じられた瞬間、外の陰鬱な空気は嘘のように一変する。

 室内は、まるで王侯貴族の応接間のような豪奢な空間だった。赤い絨毯が床一面に敷き詰められ、壁は金縁の装飾で彩られ、天井からは繊細な細工の施されたシャンデリアが煌めきを放っている。

 中心には重厚なテーブルと、それを囲むようにゆったりとした背もたれの深いソファが配置されていた。金糸で刺繍されたクッションが、無造作に並べられているのもまた成金趣味の一環だろう。

「どうぞ、お掛けください。お疲れでしょう?」

 ベルトラが手を広げて二人を促す。

 ルーベルトは頷き、クリスの手を取ったまま、一歩、また一歩と足を進める。ソファに腰を下ろすと、柔らかすぎるほどの座面に体が沈み、少しだけ気が緩むのを感じた。クリスも遠慮がちに隣に腰を掛け、周囲の眩い装飾に視線を巡らせる。

 しかしその目の先――部屋の奥には、空間を切り分けるように設置された、上等な布地のカーテンが存在していた。

 艶やかな白地に金糸で模様が織り込まれたそのカーテンは、まるでそこから先を「見せない」ために設けられたかのような存在感を放っている。まったくの無音で、しかしどこか不穏な気配だけが、カーテンの向こうからじんわりと滲んでいた。

(……あの奥に、何があるんだろう)

 ルーベルトはそう思いながらも、今はまだ言葉を飲み込むしかなかった。

「さて……まずは、お飲み物でもお持ちいたしましょうか」

 ベルトラの声が、まるで舞台役者のように明るく響く。

 この部屋の華やかさと、さっきまで目にしてきた惨たらしい地下牢の光景との落差が、まるで夢と悪夢を無理やり繋ぎ合わせたようで――ルーベルトの胸には、嫌な胸騒ぎがじわりと広がり始めていた。

「いえ、大丈夫です。それよりも……早速本題に入りたいのですが、よろしいでしょうか?」

 ルーベルトの言葉に、ベルトラは軽く片眉を上げた。だが、すぐに満面の笑みに戻ると、手のひらをひらひらと振ってみせた。

「まあまあ、そう急かさずとも。せっかくのご訪問ですからな。ひとまず紅茶をお出ししましょうか。お菓子もご用意しておりますので、まずはゆっくりと――」

 ベルトラはちらりと視線を動かす。すると、部屋の隅で控えていた案内役の男が無言で頷き、隣の扉から奥へと下がった。しばしの静寂の後、丁寧に盛りつけられたティーセットと銀の皿がテーブルへと運び込まれた。

 白磁のティーカップに湯気が立ち昇り、茶葉の芳醇な香りがふわりと室内に広がる。皿の上には、金粉があしらわれた菓子が数種、まるで宝石のように並んでいた。

 ベルトラはそのうちのひとつを手に取り、紅茶を一口、静かに啜る。

「ささ、どうぞ遠慮なく」

 そう言った彼の唇からは、ぎらりと金歯がのぞいた。毒など入っていないことを示しているのだろうが、その笑みに漂う不自然な親しみが、ルーベルトには逆に警戒心を呼び起こした。

(……まあ、今は飲んでおくのが得策か)

 そう思いながら、ルーベルトも紅茶を一口含む。渋みと甘さが絶妙に調和した上品な味わい。クリスもそれに続き、カップをそっと唇に運んだ。

「……美味しい……」

 ぽつりとこぼれたクリスの声に、ベルトラは満足げに頷く。

「そうでしょう、そうでしょう! この紅茶は特に最高級の茶葉を使用しておりますのでな、そんじょそこらでは味わえない代物でございます。ま、これもこれも、奴隷売買がもたらしてくれた恩恵というわけですわ! ワッハッハ!」

 豪快に笑い飛ばすベルトラとは対照的に、クリスはその声にわずかに身をすくめた。紅茶の香りとは裏腹に、どこか喉の奥に引っかかるような感覚が、ルーベルトの中にも残る。

 ルーベルトは、表情を崩さず口を開いた。

「……父から、あなたを訪ねるように言われて、ここまで来ました」

 その言葉に、ベルトラはそれまでの飄々とした笑顔をすっと引き下げた。眼差しがわずかに鋭さを増し、言葉の重みが部屋に落ちる。

「……なるほど、ネスト卿のご子息……。話は伺っておりますよ」

 ぐいと身を乗り出すようにして、ベルトラはルーベルトを真正面から見据えた。その目に浮かんだのは、奇妙な敬意と、そして試すような光だった。

「奴隷商としての生き方。仕事の流れ、そしてこの業界の裏表――ある程度のことは、私が直々にお教えいたしましょう。ですが、あなたがこの仕事を続けていけるかどうかは……最終的には、あなた自身の実力次第。……それはご理解いただけますな?」

 部屋に一瞬の静寂が流れる。金色のカーテンの向こうから、何かが小さく軋む音が聞こえた気がした。

 ルーベルトは、そのすべてを飲み込むように瞳を閉じ、一度、ゆっくりと深く息を吐いた。

「……はい」

 隣でクリスが、不安げに彼の横顔を見つめていたが、ルーベルトはそっと彼女の手を握り、頷いた。

(俺は……この世界の現実と向き合わなければならない。そして、自分の信じる道を……この中で見つけるんだ)

 ベルトラはルーベルトの瞳をじっと覗き込んだ。まるで、その奥に隠された迷いや矛盾を見抜こうとするかのように。

 だが、ルーベルトは視線を逸らさなかった。わずかに肩を上げ、相手の眼差しを正面から受け止める。

 ――沈黙が流れる。

 その数秒を過ぎたところで、ベルトラはふっと鼻を鳴らし、小さく笑みを浮かべた。

「なるほど。確かに……覚悟は、おありのようだ」

 そう言うと、彼は姿勢を整え、ソファに腰を下ろした。

「では、始めましょう。まずは奴隷商としての基本を――立場、仕入れ、調教、販売……この四つの柱を順にお教えいたします」

 ベルトラは指を一本一本折りながら、淡々と語り始めた。

「奴隷商という職業は、見た目こそ裏稼業のように思われがちですが、その実、多くの貴族や王族を相手取る、非常に“公的”な商売なのです。つまり、我々は時に、貴族の側近として助言を求められ、時に、王宮の品評会で品物――奴隷を献上することすらあります」

 その言葉に、クリスの表情がわずかに引き攣る。だが、ベルトラは気にする様子もなく続ける。

「ゆえに、我々奴隷商の社会的地位は非常に高く――貴族に準じる、もしくはそれ以上とみなされることも少なくありません」

 そして、わずかに間を置きながら、ルーベルトに目をやる。

「あなたの父君――ネスト卿は、そういった中でも特別な存在。既に伯爵の地位に匹敵する影響力を持ち、王都でもその名を知らぬ者はいない。だからこそ、あなた様も伯爵家の嫡子として、この地ではあらゆる“特権”を有しておられる」

 ベルトラは片手を軽く掲げた。まるで空中に階級のピラミッドを描くかのように。

「人身売買の免許、奴隷の拘束・保有・譲渡の許可、そして奴隷を取り巻く法体系の運用まで……民間人には到底及ばぬ領域まで、あなたには“許可”されている。これこそが、ネスト卿の息子として生まれた、あなた様の――資質であり、義務でもありますな」

 ルーベルトは無言で頷いた。

(……今聞いていることは、“この世界”での常識。でも、俺の中ではまだ整理がついてない。けど……)

 隣に座るクリスの手のぬくもりを感じながら、彼は目を伏せた。

(それでも、進むしかない)

 ベルトラは、軽く喉を鳴らして紅茶を一口含むと、次の話題へと移った。

「さて、次は“仕入れ”についてです」

 彼の語気が少しだけ引き締まった。

「奴隷の仕入れ先は、大きく分けて三つございます。一つ目は、戦争や犯罪により身分を剥奪された“戦奴”や“刑奴”の取引。これは各国から公式に流れてくるもので、書類も整い、合法的かつ安定した仕入れ源となります」

 ベルトラは指を二本立てる。

「二つ目は、自ら身を売りに来た者――借金、家族のため、食うに困ってなど、事情は様々ですが、自己申告による“自発奴隷”です。こちらは倫理的に問題視される場面もありますが、契約さえ明確であれば、合法的に取引可能です」

 そして、三本目の指。

「最後は――密売。闇のルートから手に入る者たちです。こちらは非合法な場合も多く、取扱いには慎重さが求められますが、極めて希少な人種や特殊能力を持つ奴隷が流れてくるのも事実……使い方次第では、極めて高い収益を見込めるでしょう」

 ルーベルトは思わず眉をひそめた。

「……非合法な奴隷は、取り扱わない方がいいのでは?」

 ベルトラは小さく笑って肩をすくめた。

「理想だけで商売が成り立つなら、誰も苦労はしませんよ。ですが――そう言えるのも、あなた様の自由です。どの道を選ぶかは、あなたが決めることですからな」

 その言葉に、ルーベルトは再び無言で頷いた。

 ベルトラは紅茶のカップを軽く回しながら、今度は声を落とし、静かに、しかし異様な熱を帯びた口調で語り始めた。

「さて……次は“調教”についてですな」

 ルーベルトとクリスが思わず姿勢を正す。ベルトラの顔には、先ほどまでの商人らしい笑顔ではなく、どこか歪んだ興奮すら感じさせる表情が浮かんでいた。

「調教とは、奴隷を“商品”として完成させるための工程であり、我々奴隷商の腕が最も問われる部分でもあります」

 指を一本立てる。

「まず一つ目、精神的な拘束。これは罵倒、隔離、希望の剥奪などを用い、奴隷自身の意思を折る手法です。徹底した上下関係を刷り込み、反抗心を削ぎ落とします」

 クリスがぴくりと肩を震わせた。ベルトラは気にも留めず続ける。

「次に、肉体的な“罰”。痛みを伴う調教は最も原始的ではありますが、即効性があり効果も高い。鞭打ち、拘束、時には食事制限も用います。ただし、やりすぎれば壊れてしまうので加減が重要です」

 言葉が冷たく響くたびに、ルーベルトの指先が強ばっていく。

(……人を“商品”としか見てない……)

 ベルトラは最後に、目を細め、笑みを浮かべた。

「そして三つ目――“快楽”による調教です。これは特に亜人種や女性に有効で、身体の快楽に慣れさせ、従順にさせるという方法。こうなると、もはや調教を自ら望むようになる場合もありますな。特に“感度調整”などのスキルを併用できる者は、高値で売れますよ」

 その言葉に、ルーベルトは喉の奥に何かがせり上がるような不快感を覚えた。隣に座るクリスも、黙って俯き、小さく唇を噛んでいた。

(……これが、この世界の“現実”か……)

 空気が重く沈む中、部屋の奥――仕切りのカーテンの向こうから、

 ――ドサッ。

 何かが崩れ落ちるような音が聞こえた。

「……今の音は?」

 ルーベルトが尋ねると、ベルトラは一瞬肩を揺らし、それから苦笑した。

「はは、隠したところで仕方ありませんな。あの奥には、本日仕入れたばかりの“品”がございます。先ほどまで私が鑑定しておりまして……あまりお見せするようなものではありませんので、仕切らせていただいておりました」

「……“品”?」

「はい、しかし――すでに二人とも“商品”としての価値がないと判断しましたゆえ、このあと“処分”予定でございます。ですが……ルーベルト様。今後、こういった“下の等級”の奴隷たちを扱う機会もあるかと存じます。参考までに――ご覧になりますか?」

 見るべきか、目を背けるべきか。その狭間で迷いながらも、ルーベルトは静かに応じた。

「……お願いします」

 ベルトラが軽く手を動かすと、傍に控えていた案内役の男が頷き、静かにカーテンへと歩み寄る。

 そして――

 しゃ、と布の擦れる音がして、カーテンの仕切りが左右に引かれた。


 その奥に広がる光景に、二人は言葉を失う。

 冷たい金属の匂いが漂う鉄格子の中。そこにいたのは、二人の少女だった。

 どちらも、狐の耳とふさふさの尻尾を持つ――狐の亜人。年の頃は、ルーベルトやクリスと同じ十五歳前後だろう。だが、その姿はあまりにも痛ましかった。

 首には鎖が繋がれた重々しい首輪。手足には手錠と足枷。衣服はぼろ布のように破れ、至るところに無数のアザや裂傷が浮かび、まともに肌を覆えていない。かろうじて布と呼べるものが腰や胸元に引っかかっているだけで、その身の多くが晒されていた。

 一人の少女は床にうずくまり、ぐったりと動かない。薄く開かれた瞳には焦点がなく、わずかに唇が震えているが、その呼吸は浅く弱々しい。

 もう一人の少女は、その傍らに膝をつき、崩れ落ちそうな身体で寄り添っていた。全身に疲弊の色がにじみ、か細い腕は震えている。それでも、その目だけは、鋭く、カーテンの向こうを睨みつけていた。

 ルーベルトとクリス――そしてベルトラを。

 ベルトラが後ろからのんびりした口調で説明を始めた。

「二人とも、狐の亜人でしてな。魔法適性が高いのが特徴で、元々はそれなりに期待していた“品”なんですが……残念ながら、今は“処分”予定です」

「……魔法適性があるのに?」

「ええ」とベルトラは頷き、あっけらかんと続けた。

「倒れている方は、回復魔法《キュアー》を使えますが、病にかかっておりましてな。いまや風前の灯です。回復自体は可能ですが、魔法を自分にかけることはできません。となると、継続的な治療が必要になりますが、それにかかる費用は奴隷一人の価格を大きく上回ってしまう」

「自分自身には魔法がかけられない?」

 ベルトラの言葉に、ルーベルトは疑問を覚えた。

 (魔法とスキルは別物なのか……?)

 思考を巡らせると、脳裏に浮かんだのは転生直後に出会った、あの女神の面影だった。

(……女神の加護か)

 自分はこの世界の理から、ほんの少し外れた存在なのだと改めて実感した。

「……それで“売り物にならない”と?」

「そういうことですな。もう一方は、回復魔法《ヒール》を使えますが、こちらは逆に魔法適性が極めて低く、効果も薄い」

 ベルトラは面倒そうに手を振った。

「しかも反応が乏しくて、調教しても全然愛想がない。愛玩用としては不適格。反応が鈍ければ、買い手の気分を害するだけです。よって、二匹とも“失格”ですな。姉妹と聞いていたものだから、セットで高値になると目論んでいたんですがねぇ」

 ルーベルトは唇に力を込め、絞るような声で問うた。

「……“処分”とは、どういう意味ですか?」

 その質問に、ベルトラは紅茶を啜りながら、まるで世間話でもしているような調子で答えた。

「文字通り。“廃棄処分”ですわ」

 ぱち、と茶器が皿に戻る音が響く。

「清掃業者に引き取らせて、そのあとは我々の知るところではありません。正直、何をされるかも興味はない。どこか裏通りで散々使われ、壊され、打ち捨てられるかもしれませんが……まあ、それも“モノ”の末路でしょうな」

「モノ……?」

 ルーベルトの声が震えた。

 ベルトラは冷淡な笑みを浮かべた。

「奴隷とはそういうものです。一度、“人”でなくなれば、感情も、命も、存在すらも――“価値”としてしか見られなくなる。これが、この世界の現実です」

 ルーベルトは目の前の二人の少女をしばらく見つめ、そして静かに口を開いた。

「この子たちを、僕に引き取らせてください」

 その言葉に、ベルトラの眉がわずかに動いた。

「……構いませんがね、ぼっちゃん。あえて申し上げると――やめておいた方がよろしいでしょうな」

 ソファの背にもたれ、ベルトラは大げさに両手を広げた。

「見ての通り、片方はもう手遅れです。医者でも治せるかどうか……いや、奴隷に医者を雇うなど馬鹿げてますな。そしてもう片方も、片割れが死ねば壊れるのは目に見えている。心が潰れて、使い物にならんでしょう」

 そして、口元を歪めて続けた。

「それに、処分費も意外と高いんですよ。いろんな意味で、損ですな、これは」

 だが、ルーベルトはベルトラの言葉に微動だにしなかった。

「……それでも、僕はこの子たちと契約したい。お願いします。彼女たちを売ってください」

 部屋の空気が張り詰める。ベルトラの目がルーベルトを試すように細められる。

「……分かりました。それならば、お代は結構。こちらとしては処分費が浮くだけでも助かりますしね。お好きにお持ち帰りください」

 しかし、ルーベルトは首を横に振った。

「いえ。僕はこれから商人としてやっていく立場です。どんな相手であれ、どんな品であれ――しっかりと正当な対価を払うつもりです」

「……正気で?」

「ええ。この子たちの“命”に、値札を貼ることはしたくない。でも、それでも売買という形で関わる以上は、“商品”としての代価を、ちゃんと支払いたいんです」

 その真っ直ぐな瞳に、ベルトラは眉を上げ、次いで小さく肩を揺らして笑った。

「助けたいから――ですか」

 ベルトラはテーブルに肘をつき、顎に手を添えた。

「こりゃあ参った。ネスト卿のご子息は、随分と変わった方のようだ」

 そして、おどけたように手を叩き、にやりと笑う。

「よろしい。では、販売については説明ではなく――実際のやり取りを通して学んでいただきましょう。こちらとしても、良い商談の教材になります」

 ルーベルトは頷いた。その背後では、クリスが複雑な表情で彼を見守っている。

 あの子たちを助けたい――その一心だけで、今ルーベルトは「奴隷商」としての一歩を踏み出そうとしている。

 ベルトラは背筋を伸ばし、口を開いた。

「さて――まずはお値段につきまして、ですが」

 どこか芝居がかった口調で続ける。

「彼女たちは狐種族。しかも姉妹で揃っているとあれば、本来であれば一体あたり数億ディアの値がついてもおかしくない逸品です」

 ディア――この世界の通貨単位。1ディアは、かつての世界で言えばちょうど1円程度の価値。つまり数億ディアは、数億円に相当する。

 ベルトラは鼻先で笑いながら、テーブルに指を滑らせた。

「しかし、ご覧の通り、商品状態はあまり良くありません。とはいえ、種の希少性も考慮し……“適正価格”として、一匹あたり一千五百万ディアでどうでしょう」

 ルーベルトはその言葉に、軽く目を伏せて考える素振りを見せた。

(……安くはない。でも)

 父ネストからは、奴隷商としての活動資金として、あらかじめ一億ディアを手渡されている。この金額であれば、計三千万ディアで二人を迎えることが可能だ。

 ルーベルトは、迷いを断ち切るように顔を上げた。

「――その金額で、構いません。契約をお願いします」

 ベルトラは目を丸くして、驚きの表情を浮かべた。

「……なんと、交渉なさらない? 奴隷商において、値切りは客と我々の必須作業でございますよ?」

 どこか楽しげな色を含んだ口調でそう問われたが、ルーベルトは静かに、しかしはっきりと答えた。

「後からごねられて追加で請求されるのは、正直、面倒なので。最初から提示された金額で納得した方が、お互い気が楽ですから」

 ベルトラは一瞬黙り込んだ後、「ほぉ」と感心したように唸った。

「ははあ、まことに潔い。……なるほど、これは確かに父君の血筋、というわけですな」

 そう言うと、彼は後ろに控えていた使用人に合図し、テーブルの上に二枚の羊皮紙と、小さな果物ナイフが置かれた。

「それではこちらに、あなた様のサインと――血判をお願い致します」

 淡い香木の香りが漂う契約書。細かく書かれた条文には、以下の内容が記されていた。

 ・本契約により、奴隷二名は購入者の所有物となる
 ・契約成立以降、奴隷の身柄・健康・行動に関する一切の責任は購入者に委ねられる
 ・奴隷商ベルトラは、契約以降その奴隷に関する関与を一切行わないものとする

 ――この世界において、奴隷契約とは絶対的なものであり、契約が結ばれた瞬間から、奴隷の命運はその所有者に完全に委ねられる。

 ルーベルトは契約書を読み終えると、右手に果物ナイフを取った。

(……この子たちの命は、今この瞬間、俺の選択にかかっている)

 小さく指先を切り、羊皮紙に一滴の血を落とす。その上から、ゆっくりとサインを走らせた。

 隣で見守っていたクリスが、ほんの少しだけ彼の袖を掴む。ルーベルトはそれに気づき、彼女に静かに微笑んで見せた。

「――これで、契約は成立ですね?」

 ルーベルトの言葉に、ベルトラが力強く頷いた。

「ええ、文句なしです。これより先、彼女たちはあなた様の“所有物”となります」

(俺は……所有物としてこの子たちを扱うつもりなんて、最初からない)

(助けたい。守りたい。共に歩んで――いつか、“奴隷”という概念そのものを終わらせたい)

 そう心に誓ったルーベルトは、ゆっくりと鉄格子の扉を開いた。軋む音が私室に響き渡る。

 檻の中に足を踏み入れると、空気はひやりと冷え切っていた。まるで人ではなく“物”を保管するための空間。そんな雰囲気が辺りを包んでいる。

 一人の少女は、身体を投げ出すように倒れている。だが、彼女の瞳だけはこちらを見つめていた。

 もう一人の少女はその体を庇うように膝をつき、睨むような視線をルーベルトに向けている。

 ルーベルトはそれでも微笑みを絶やさず、両手を見せるようにそっと掲げて語りかける。

「……君たちを傷つけたりはしない。安心してほしい。倒れている子も、僕が必ず助ける。だから……お願いだ。僕と契約してほしい」

 彼の言葉は、優しく、それでいて揺るぎない意思に満ちていた。

 二人の狐耳の少女は一度視線を交わし、ゆっくりと服をたくし上げ、下腹部をあらわにする。

 ルーベルトはその仕草に、静かに「ありがとう」と言い、契約の証となる紋様を描くべく、先ほどナイフで切った自分の指先を少女たちの肌にそっと当てた。

 指先が滑るように魔力をなぞり、やがて彼女たちの下腹部に鮮やかな紅の紋様が浮かび上がる。

 淡く、しかし確かな輝き――それはクリスとの契約のときとまったく同じ光だった。

 《契約完了 新たなスキルが追加されました》

 頭の中に響く澄んだ声と共に、視界の片隅に「NEW」のアイコンが浮かび上がる。スキルメニューが自動的に展開され、新たな項目が追加されていく。

 ⸻

 新スキル取得:
 • 回復魔法【ヒール】
 • 状態異常回復【キュアー】

 ⸻

 それと同時に、脳内にまた別の通知音が鳴り響く。

 ⸻

 《契約数上昇に応じ、レベルが3に上がりました》
 《魔力の向上を確認》
 《スキル【感度増加】がレベル2になりました》
 《新効果【感度調節】が解放されました》

 ⸻

 魔力の流れが変わる感覚と共に、ルーベルトは自分の内側で何かが拡張されていくのを感じていた。

「……これで、契約は成立ですな」

 背後からベルトラの声が響いた。彼は腕を組んでその一部始終を見守っていた。

「では、代金は後ほど徴収いたしますので、まずはそのお二人を連れて一度宿に戻られてはいかがでしょう。私もこれから予定が詰まっておりますので……また明日のお昼ごろ、お越しください」

 そう言って彼は目元を笑わせながら続ける。

「本来であれば、代金はその場で一括払いが商習慣。しかし、ルーベルト様は特別でいらっしゃいますからな。支払いはそのときで結構です」

 ルーベルトは軽く頭を下げ、静かに答えた。

「……分かりました。突然訪ねてしまったにも関わらず、貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。本日はこれにて、失礼いたします」

 倒れていた子をそっと抱き上げ、お姫様抱っこで胸元に抱える。もう一人は、クリスが肩を貸すように寄り添った。

 ルーベルトは振り返ることなく、静かにその場を後にした。
 冷たい空気の満ちた私室を抜け、鉄の階段を上り、奴隷市場の地上へと戻っていく。
 彼の胸には、少女たちの軽すぎる身体の重みと、彼らを絶対に救い抜くという強い決意が、ゆっくりと燃え広がっていた。

 日が傾きかけた貿易都市ヘルムッドの空の下。
 ルーベルトたちは、宿への帰路を辿っていった。
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