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第一章〈幼なじみ主従〉編

02 父は狂人王(1)挿絵つき

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 らせん階段を上っているような、下りているような——
 頭上から淡い陽光が差し込み、夜になればいつのまにか灯火がついている。
 らせん階段の先には、見慣れた書斎がある。
 ここは、私の「スペシャルプレイス」だ。
 壁一面が本棚で覆われていて外が見えない。
 誰かに覗かれることもない。
 私が招かない限りは、何人たりとも入れない。

 生前、アラン・シャルティエという旧知の詩人が、私についてこう謳った。

「あなたの容姿は美しいとは言えない。王家の人らしい顔立ちなのに、残念なくらいに威厳がない。けれど、あなたの目はいつも不思議な光をたたえている。瞳の奥に、ちらちら揺れる灯火ともしびが見える」

 王らしい威厳が身に付かなかったのは、宮廷生活を知らずに育ったからだ。
 王位継承順位の低い王族は修道院に送られて、野心を抱かないように育てられる。どこかの国と違って、むやみに殺したりしない。
 主要な王族メンバーに不幸があったときの代用品、つまり「王のスペア」として担ぎ出すために生かされる。

 私は宮廷育ちではないが、ある意味「箱入り」と言えよう。
 14歳になるまで王国の苦境を知らなかったのだから。

 私は無知だった。
 図書室は夢見る場所ではなくなった。
 足りない知識を埋めるために、足しげく図書室へ足を運び、偉大な先人が残した足跡を読み、少しでも過去から教訓を得ようとした。

 我がフランス王国は歴史が長く、歳月を重ねただけ重くて、そして風前の灯だった。

 父王シャルル六世は若くして王位に就いたが、ほとんど政務を執っていない。
 しばしば精神を病み、宮廷で問題行動を起こしては内密に処理されていたようだ。



***



 あるとき、王の警護をする騎士シュヴァリエがあやまって槍を取り落とした。王宮は石造りで、天井は高い。倒れた槍はけたたましい音を立てて、辺りに反響した。

 王は驚き、取り乱し、とつぜん発狂した。
 剣を抜くと、あやまちを犯した騎士を斬りつけて殺害し、手当たり次第に襲いかかったのだ。

 はじめ、王宮に常駐している騎士や侍従たちは、この騒ぎは侵入者のしわざだと思ったらしい。
 無力な侍従たちは避難し、力自慢の騎士たちは犯人を取り押さえるために現場へ駆けつけた。

「何の騒ぎだ。敵襲か?」

 それぞれ別の部署に所属する二人の騎士が出会った。ひとりはかなり若い。

「イングランドとは休戦条約を結んだばかりですよ。それにここは陛下の居室が近い。厳重な警備をかいくぐって王宮の深部に到達できる者がどこに……」

 話の途中で、回廊の奥から剣戟の音が聞こえた。
 この先には王の居室がある。二人の間に緊張が走った。

「休戦中だからこそ油断できないのだ。王の首を狙う者がごまんといる」

 回廊を進むにつれて、剣戟の音が近づき、辺りに血の匂いが漂い始めた。
 人が倒れていた。王を取り巻く侍従と護衛だろう。

「だめだ、もう死んでいる」
「バカな。なぜ誰も剣を抜いていないのだ」

 死んだ騎士の腰には剣が下がったままだった。抜いた形跡はない。

「一体、何が起きているんだ」
「敵の探索も大事ですが、一刻も早く陛下をお探ししなければ」





「陛下に近づいてはならない」

 ふたりの背後で、屍体のひとつが声を発した。かろうじて生きている者がいた。

「おお、生存者がいたか!」

 生きてはいたが、死体と見間違えるほどに血まみれだった。

「止血しなければ」

 若い騎士が手持ちの端切れで傷口を縛ったが、みるみる鮮血に染まった。
 包帯代わりにだぶついた胴衣プールポワンの袖をちぎろうとすると、負傷者は首を横に振った。

「いや、いい。私も死線をくぐり抜けて来た。自分が助からないことくらい分かる」

 若い騎士はうつむき、悔しそうに唇を噛んだ。
 代わりに、年長の騎士が身を乗り出した。

「このような状態で酷だと思うが、せめて何があったのか話を聞かせてほしい」
「時間の許す限り、お答えしよう」

 致命傷を負いながら、この騎士も剣を抜いていなかった。

「貴官は王直属の近衛騎士だろう。陛下の身辺警護を任される騎士は熟練者の中から厳選して選ばれる。それなのに、なぜ一方的にやられたのだ。なぜ剣を使わなかったのか。陛下はどちらにおられる」

 近衛騎士は笑っているような泣いているような痛ましい表情を浮かべた。

「じきにお出ましになるだろう」

 ふたりの騎士は互いに顔を見合わせ、いぶかしんだ。

「失血がひどいと正気を失うと聞くが、気でも狂ったのか」
「陛下の行方をご存知なのですか? 近づいてはならないとは一体……」

 そのとき、回廊の奥にある王の居室から血まみれの王があらわれた。
 傷ついた近衛騎士は、苦しそうに顔を歪めた。

「あぁ、気が狂ってしまわれたのは……」

 王は抜き身の剣を握っていた。何事かつぶやきながら、かたわらの死体にいきなり剣を突き立てた。
 駆けつけた二人の騎士はギョッとした。

「あれは本当に陛下なのか? 一体、ここで何が起きている」
「あの死体が侵入者だったという可能性も……」

 目の前の光景は残酷だったが、見方を変えれば、敵襲を受けた王が戦っているようにも見えた。

「おひとりで戦っておられたのでしょうか。それより、お怪我をされているのでは」

 王を保護するために若い騎士が駆け出そうとすると、近衛騎士は強い口調で引き止めた。

「そこの若いの、陛下に近づいてはならないぞ」

 武器を片手に動き回っているのは王ただひとり。襲撃者はどこにも見当たらなかった。
 騎士たちが状況を飲み込めないまま立ち尽くしていると、王の方から近づいて来た。
 剣は曲がり、切っ先は刃こぼれし、血と脂でどろりと汚れていた。

「……みな逃げろ。主君に剣を向けてはならない」

 近衛騎士は倒れたまま、声を絞り出すように警告した。

「何が起きたのか、どうすれば陛下が正気に戻るか分からない。だが、こんなことで無駄死にしてはならない」

 王が近づいてくる。
 近くで見れば分かる。王は誰よりも血まみれだったが、負傷している様子は見られない。
 あの汚れはすべて返り血だ。

「あぁ陛下……親愛なる国王陛下、何があったというのですか」

 近衛騎士はすがるように語りかけた。すでに涙声だった。

「長きに渡ってお仕えしたこの私さえも、その手にかけるというので……」

 王はためらうことなく、旧知とおぼしき近衛騎士を斬りつけた。黙れと言わんばかりにのど笛を切り裂き、近衛騎士は事切れた。
 二人の騎士は呆気にとられたが、一部始終を目撃し、異様な非常事態を理解した。
 王のうつろな瞳には、恐怖と狂気が宿っていた。

「逃げろ!」

 年長の騎士は声を張り上げた。

「陛下に剣を向けることはできない。とにかく今は逃げるんだ」
「は……はい!」
「いや、待て!」

 先に行こうとした若い騎士を引き止めた。
 しばらく並走しながら、年長の騎士は「ブルトン人か?」と問いかけた。

「精悍な顔つきに見覚えがある。もしやブルターニュ公の……?」
「は、亡き父と兄がブルターニュ公です」
「おお、やはりな! 今は王太子付きの騎士だったか」
「まだ従騎士エスクワイアです」
「見習いか。それにしては度胸がある」

 騒ぎを聞きつけてすぐに駆けつけたのに、若い騎士が一番乗りで王の居室へ向かっていた。
 だが、考えなしの猪突猛進ではなく、話しぶりから冷静さもうかがい知れた。
 騎士にとって、冷静な判断力と機動力は生死を分ける。将来有望な若者だ。

「見習いでも構わん。貴官に伝令を命じる。まずは、ここで見たことを上官に伝えよ。タンギ・デュ・シャステルに命じられたと告げればすぐに分かる。そのあとは王族がた、特に王子と王女をお守りすることを優先して慎重に行動すること。以上だ」
「はッ!」

 年長の騎士は、ふっと笑った。

「俺もブルトン人だ。無事に生き延びたら、とっておきの林檎酒シードルをおごってやろう。さあ、行くんだ」

 同郷の騎士ふたりは再び別れると、それぞれの所属先へ向かった。



***



 私は深いため息をつくと、父王シャルル六世の言動を記録した年代記を書棚に戻した。

 手がすべって武器を取り落とす。
 たとえるなら、料理人が厨房で皿を取り落として割るも同然だ。
 よくありそうな小さなあやまちが、なぜ父王の狂気を呼び覚ましたのだろうか。

 暴れる王を力づくで止められる者はいなかった。
 松明に火をつける者さえ逃げ出した夜の王宮で、王の精神は狂気の次に睡魔に取り憑かれた。
 日中、さんざん暴れた代償か、死んだかのように深く眠り込み、剣を取り上げられるまで惨劇は続いたという。




(※)狂王シャルル六世の狂気(Le roi fou ou la folie de CharlesVI, François-Auguste Biard)

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