55 / 202
第四章〈王太子デビュー〉編
4.5 旅立ちの朝(3)
しおりを挟む
ついに出立の刻限が来てしまった。
謁見用の大広間で、私はアンジュー公夫妻に別れを告げた。
「ここへ戻ってきてはなりませんよ」
ヨランド・ダラゴンが突き放すようなことを言った。
だが、私はヨランドを冷たい人だとは思わない。
慈悲深く聡明な貴婦人だが、ヨランドはアラゴン王国出身の王女だ。
私情とは別に、王族には果たすべき義務があることをよく分かっていた。
「はい。その代わり、王城にご招待します」
そう答えると、ヨランドは優しく目を細めた。
養育した子を王太子として送り出す喜び、誇り、別れの悲しさ、淋しさ。
瞳の奥に、複雑な感情が見えた気がした。
他にも何か言いたそうだったが、それ以上聞く時間はなかった。
護衛の先導で馬車に乗り込もうとして、私は護衛隊長のシャステルを呼び止めた。
「あの、少しだけ待って!」
誰かに引き止められる前に、私は一目散に駆け出した。
「マリー! ルネ! シャルロット!」
「シャルル兄様!」
アンジュー家の子供たちが見送りに来てくれたのだ。
孤児同然だった私を迎えてくれたのがヨランドで、王子らしい振る舞いを教えてくれたのがアンジュー公なら、何の疑いもなく「兄さま」と慕ってくれたのがこの子たちだ。可愛くないはずがない。
ルネは素直に別れを惜しんでくれた。
マリーは「最後のお見送りくらい『兄さま』は止めましょう。兄さまは王太子殿下になられたのですから」と弟をたしなめると、子守の侍女からシャルロットを抱き上げて連れてきてくれた。
両手を広げて受け取ろうとすると、マリーは「待って、外套が汚れてしまうわ」と躊躇した。シャルロットは「おねむ」な様子で、口の端から少しよだれが垂れていた。
「いいから、いいから!」
「あっ……」
私は構わずに、マリーからシャルロットを抱き上げた。
「書庫で別れたときに、『あとで』抱っこをしてあげると約束してたんだ」
「ん、にいさま……?」
「元気でね」
シャルロットの頬に顔を寄せて別れのキスをすると、私はルネにシャルロットを託した。
「はい、ルネ兄さま。あとはよろしく」
「任せてください! シャルル兄さまも……王太子殿下もお元気で!」
マリーは貴婦人らしい所作で、王太子のために見事な屈膝礼をしてくれた。
私は、「別れの挨拶」を言おうとしたマリーを遮ると、その手を取った。
「ねえ、マリー!」
「はい……」
「しばらく大変だと思うけど、向こうの生活が落ち着いたら必ず迎えにくるから。そうしたら、君は晴れて王太子妃殿下だからね」
早口でそれだけ言うと、マリーの手の甲に口づけを落とした。
顔を上げる間もなく私はきびすを返し、足早に馬車に乗り込んだ。
「あー、恥ずかしかった!」
こういうことは時間をかけるとどんどん恥ずかしくなって結局何もできなくなる。
さっさと済ませて馬車に乗ってしまえばいい。
旅路は長く、馬車は密室だ。
ひとりになったら赤くなった顔を気にしなくていいし、反省会する時間ならいくらでも——
「失礼いたします」
ひげのおじさんが乗ってきた。
王太子の護衛隊長を務めるタンギ・デュ・シャステルだ。
彼も馬車に同乗すると聞いて、ぎょっとした。
(今の、一部始終を見られていたこの人とずっと一緒に?)
私は平常心を装ったが、変な汗が出てきた。顔も暑い。
たぶん内股になっていると思う。
***
マリー・ダンジューは、王太子の旅立ちの行列を見送りながら「ずるいわ」とつぶやいた。
「この四年間、婚約者らしいことなんて何もなかったのに」
アンジュー公はマリーに寄り添いながら、「おや、王太子殿下はお嫌いかい?」と尋ねた。
「そうではなくて!」
マリーは父の言葉にかぶせるように即答した。
このような話し方はマナーに反するが、別れぎわの告白は私の想像以上にマリーを動揺させたらしい。
「私たち、いままで兄妹みたいだったでしょう? それに王太子妃だなんて唐突すぎて……」
「唐突ではないだろう。婚約したのは四年前だ」
「結婚の約束をしたけれど、まだ結婚の誓いはしてません」
人同士の約束と、神の名の下に誓う約束は重みが違う。
この物語を読んでいる読者諸氏には馴染みがないだろうから、説明しよう。
私たちの時代は、結婚する約束を破ることはできるが、婚姻の儀を済ませたら誓約を破ることはできない。原則、離婚はできない。
私とマリーは婚約しているが、お互いに約束を解消する権利を残していた。
「ずるいわ。口約束ばかり」
「ふふ、宮廷には美しい貴婦人が多数いらっしゃるだろう。王太子殿下が目移りしないとも限らない……かも……?」
アンジュー公は軽い気持ちでからかったが、マリーは抗議しなかった。
父をたしなめる言葉はなく、みるみる目が潤み、大粒の涙をこぼした。
アンジュー公はあわてて愛娘を抱きしめた。
「冗談だよ、マリー。泣かないでおくれ」
「ひどいわ。王太子さまはそんな方じゃないもの」
長女のせいか、マリーは幼いころから自己抑制的な性格だった。
けなげな少女のこらえきれない涙は、とりわけ見るものの胸を打つ。
「そうだね、殿下もマリーもまじめないい子だ。兄と妹みたいだと思っていたが、マリーはあの方をお慕いしているのだね?」
「わかりません。でも、涙が止まらないの……」
「機を見て、王太子殿下に会いに行こう。みんなで追いかけてもいいし、マリーだけを連れて行ってもいい」
「……はい」
アンジュー公は旅の計画を話しながら、内心では「アンジューも王太子もただでは済まないかもしれない」と予感していたようだ。
そして、アンジュー公の懸念は現実のものとなる。
(※)主人公が14歳、マリー・ダンジューが13歳。アンジュー編の最後に初々しいカップルを書きたかったので満足。
謁見用の大広間で、私はアンジュー公夫妻に別れを告げた。
「ここへ戻ってきてはなりませんよ」
ヨランド・ダラゴンが突き放すようなことを言った。
だが、私はヨランドを冷たい人だとは思わない。
慈悲深く聡明な貴婦人だが、ヨランドはアラゴン王国出身の王女だ。
私情とは別に、王族には果たすべき義務があることをよく分かっていた。
「はい。その代わり、王城にご招待します」
そう答えると、ヨランドは優しく目を細めた。
養育した子を王太子として送り出す喜び、誇り、別れの悲しさ、淋しさ。
瞳の奥に、複雑な感情が見えた気がした。
他にも何か言いたそうだったが、それ以上聞く時間はなかった。
護衛の先導で馬車に乗り込もうとして、私は護衛隊長のシャステルを呼び止めた。
「あの、少しだけ待って!」
誰かに引き止められる前に、私は一目散に駆け出した。
「マリー! ルネ! シャルロット!」
「シャルル兄様!」
アンジュー家の子供たちが見送りに来てくれたのだ。
孤児同然だった私を迎えてくれたのがヨランドで、王子らしい振る舞いを教えてくれたのがアンジュー公なら、何の疑いもなく「兄さま」と慕ってくれたのがこの子たちだ。可愛くないはずがない。
ルネは素直に別れを惜しんでくれた。
マリーは「最後のお見送りくらい『兄さま』は止めましょう。兄さまは王太子殿下になられたのですから」と弟をたしなめると、子守の侍女からシャルロットを抱き上げて連れてきてくれた。
両手を広げて受け取ろうとすると、マリーは「待って、外套が汚れてしまうわ」と躊躇した。シャルロットは「おねむ」な様子で、口の端から少しよだれが垂れていた。
「いいから、いいから!」
「あっ……」
私は構わずに、マリーからシャルロットを抱き上げた。
「書庫で別れたときに、『あとで』抱っこをしてあげると約束してたんだ」
「ん、にいさま……?」
「元気でね」
シャルロットの頬に顔を寄せて別れのキスをすると、私はルネにシャルロットを託した。
「はい、ルネ兄さま。あとはよろしく」
「任せてください! シャルル兄さまも……王太子殿下もお元気で!」
マリーは貴婦人らしい所作で、王太子のために見事な屈膝礼をしてくれた。
私は、「別れの挨拶」を言おうとしたマリーを遮ると、その手を取った。
「ねえ、マリー!」
「はい……」
「しばらく大変だと思うけど、向こうの生活が落ち着いたら必ず迎えにくるから。そうしたら、君は晴れて王太子妃殿下だからね」
早口でそれだけ言うと、マリーの手の甲に口づけを落とした。
顔を上げる間もなく私はきびすを返し、足早に馬車に乗り込んだ。
「あー、恥ずかしかった!」
こういうことは時間をかけるとどんどん恥ずかしくなって結局何もできなくなる。
さっさと済ませて馬車に乗ってしまえばいい。
旅路は長く、馬車は密室だ。
ひとりになったら赤くなった顔を気にしなくていいし、反省会する時間ならいくらでも——
「失礼いたします」
ひげのおじさんが乗ってきた。
王太子の護衛隊長を務めるタンギ・デュ・シャステルだ。
彼も馬車に同乗すると聞いて、ぎょっとした。
(今の、一部始終を見られていたこの人とずっと一緒に?)
私は平常心を装ったが、変な汗が出てきた。顔も暑い。
たぶん内股になっていると思う。
***
マリー・ダンジューは、王太子の旅立ちの行列を見送りながら「ずるいわ」とつぶやいた。
「この四年間、婚約者らしいことなんて何もなかったのに」
アンジュー公はマリーに寄り添いながら、「おや、王太子殿下はお嫌いかい?」と尋ねた。
「そうではなくて!」
マリーは父の言葉にかぶせるように即答した。
このような話し方はマナーに反するが、別れぎわの告白は私の想像以上にマリーを動揺させたらしい。
「私たち、いままで兄妹みたいだったでしょう? それに王太子妃だなんて唐突すぎて……」
「唐突ではないだろう。婚約したのは四年前だ」
「結婚の約束をしたけれど、まだ結婚の誓いはしてません」
人同士の約束と、神の名の下に誓う約束は重みが違う。
この物語を読んでいる読者諸氏には馴染みがないだろうから、説明しよう。
私たちの時代は、結婚する約束を破ることはできるが、婚姻の儀を済ませたら誓約を破ることはできない。原則、離婚はできない。
私とマリーは婚約しているが、お互いに約束を解消する権利を残していた。
「ずるいわ。口約束ばかり」
「ふふ、宮廷には美しい貴婦人が多数いらっしゃるだろう。王太子殿下が目移りしないとも限らない……かも……?」
アンジュー公は軽い気持ちでからかったが、マリーは抗議しなかった。
父をたしなめる言葉はなく、みるみる目が潤み、大粒の涙をこぼした。
アンジュー公はあわてて愛娘を抱きしめた。
「冗談だよ、マリー。泣かないでおくれ」
「ひどいわ。王太子さまはそんな方じゃないもの」
長女のせいか、マリーは幼いころから自己抑制的な性格だった。
けなげな少女のこらえきれない涙は、とりわけ見るものの胸を打つ。
「そうだね、殿下もマリーもまじめないい子だ。兄と妹みたいだと思っていたが、マリーはあの方をお慕いしているのだね?」
「わかりません。でも、涙が止まらないの……」
「機を見て、王太子殿下に会いに行こう。みんなで追いかけてもいいし、マリーだけを連れて行ってもいい」
「……はい」
アンジュー公は旅の計画を話しながら、内心では「アンジューも王太子もただでは済まないかもしれない」と予感していたようだ。
そして、アンジュー公の懸念は現実のものとなる。
(※)主人公が14歳、マリー・ダンジューが13歳。アンジュー編の最後に初々しいカップルを書きたかったので満足。
30
あなたにおすすめの小説
【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
征空決戦艦隊 ~多載空母打撃群 出撃!~
蒼 飛雲
歴史・時代
ワシントン軍縮条約、さらにそれに続くロンドン軍縮条約によって帝国海軍は米英に対して砲戦力ならびに水雷戦力において、決定的とも言える劣勢に立たされてしまう。
その差を補うため、帝国海軍は航空戦力にその活路を見出す。
そして、昭和一六年一二月八日。
日本は米英蘭に対して宣戦を布告。
未曾有の国難を救うべく、帝国海軍の艨艟たちは抜錨。
多数の艦上機を搭載した新鋭空母群もまた、強大な敵に立ち向かっていく。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる