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第六章〈王太子の受難〉編

79 パリ虐殺(1)受難の始まり

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 護衛の採用および王太子を権威づけるために馬上槍試合トーナメントを開催したが、後から思い返せば、これから起きる災いの予兆だったと思えてならない。

 私は生まれて初めて、人が血を流しながら絶命する瞬間を見た。

 病人と貧困者を看取る聖職者。
 闘争と陰謀にまみれた宮廷。
 略奪と屠殺が身近にある労働者。

 どの身分階級に属していても「死」が隣り合わせにある。
 だが、私は王太子になるまで流血沙汰とは無縁だった。
 修道院にいたころに、死期が近い病人を何度か見かけたが近づくことは許されなかった。

 事故死のショックが冷める間もなく、46日間にわたる四旬節レントが始まった。
 別名「受難週」とも言う。イエス・キリストの受難をしのんで静かに過ごす習わしだ。

 期間中に、私は誕生日を迎えて15歳になったが、四旬節であってもなくても祝う気持ちにはならなかっただろう。

 復活祭イースターが始まるころには鬱々とした冬が終わる。
 あたたかい春が訪れたら、塞いだ気持ちが少しは和らぐかと思ったが、事態は風雲急を告げる。



***



 トーナメントを契機に、シャステルの計らいで王太子専属の護衛を何名か新規採用した。
 同時に、裕福な貴族が組織している私設騎士団や、パリ城下の町家を防衛する守備隊も新兵を補充した。
 別におかしなことは何もない。
 厳重な警備が少しだけ緩み、良くも悪くも人の出入りが増えたことは確かである。

 1418年、春から初夏にかけて何が起きていたのか。
 正確なことは分からない。

 私は事態を飲み込めないまま、アルマニャック派の「残党」に急かされて王都パリから逃げ出した。

 再びこの地を踏むのは19年後になる。
 私は王位を継いで34歳になっていたが、当時のことを記した報告書はなかなか見つからなかった。
 誰かが過去を咎められることを怖れて処分したのだろう。
 ブルゴーニュ公とイングランドの謀略に関するくわしい情報を知るすべはない。

 話を1418年に戻そう。

 5月28日の夜、パリをぐるりと囲む城塞の一角、サン・ジェルマン・デ・プレ門が何者かによって開かれた。
 おそらく門番の中に内通者がいたのだろう。
 ブルゴーニュ派の軍勢800騎がひそかに招き入れられた。

 29日未明、アルマニャック派の貴族と役人、そして王太子を支持する民間人を急襲した。

 王宮も例外ではなかった。
 王太子は唯一の王位継承者であったから厳重な防衛体制が敷かれる一方で、王の警備がいささか手薄になっていたのかもしれない。
 ブルゴーニュ派の軍勢は難なく狂人王ル・フーシャルル六世を「保護」すると、王太子が暮らす城館に狙いを定めた。

 このとき、ブルゴーニュ公はまだパリに入らなかった。
 名を偽り、郊外の離宮に身を隠しながら、ゆったりと情勢がひっくり返る様子を見つめていた。
 宰相アルマニャック伯を出し抜き、確実に勝利する瞬間を待っていた。

「パリは燃えているか?」

 くらいベッドの中で戯れ言をささやいた。
 よく躾けられた臣下がつぶやきを聞き漏らさずに「命令」として実行していく。
 ブルゴーニュ公は、王も法も神さえも怖れない。だから無怖公と呼ばれた。
 怖れを知らぬ男の腕の中で、私の母にして淫乱王妃とあだ名されたイザボー・ド・バヴィエールがうっとりと満ち足りたように睦み合っていた。



***



 あのとき、王太子を守りながら死んでいった者たちはどこへ消えてしまったのだろう。
 犠牲者を弔いたくても、19年も経っていては遺体のありかさえ分からない。
 その御霊みたまは、神のもとへ旅立ったのだと信じたい。

 せめてものはなむけに、私が知っている光景をここに記そうと思う。

 孤独だが、それでも温もりに守られていた少年時代は終わりを告げ、私の受難はここから始まる。
 運命は大いなる犠牲をもとめ、私は犠牲と引き換えにただ生かされる。

 どうして、どうして——!
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