125 / 202
第八章〈殺人者シャルル〉編
8.8 招かれざる客(4)公妃の思惑と、令嬢の意思
しおりを挟む
アンジュー公妃ヨランド・ダラゴンは、最愛の夫を亡くして未亡人となり、広大な領地と幼い遺児が残された。
イングランドの脅威にさらされていたが、王家および宮廷からの支援は見込めない。
アンジューばかりかフランス王国としても危機的な状況だった。
だが、アンジュー領はイングランドにもブルゴーニュ派にも屈しなかった。
生来、ヨランドは女王の気質を持っていたのだろう。
夫の死によって、アラゴン王家の祖先から受け継いだ誇り高い気質が開花した。
「ロワール以南、南仏はわたくしにお任せください。祖国アラゴン王国にも使者を派遣して、殿下を支援するように取り計らいます」
ヨランドは王太子を援助すると約束し、それ以来、アルマニャック派とみなされるようになった。
アルマニャック派の残党が再集結する前に、いちはやく存在感を示した。
私はヨランドから受けた愛情を疑っていない。
私がアンジューに引き取られた当時は、ふたりの兄が健在だった。
10歳の末っ子王子が王位を継承するとは思わなかっただろう。
私を養育してマリーと結婚させても、アンジュー家に見返りをもたらす可能性は低かった。
私はヨランドの愛情を疑っていないが、都落ちした王太子を受け入れたとき、ヨランドの心に野心が芽生えても不思議ではないと思う。
祖国で叶わなかった王位継承の夢を、私に託そうと考えたかもしれない。
このころ、15歳だった私は、宮廷づくりに必要な助言と家臣団の一部を譲り受け、ひたすら感謝していた。愛情深くて頼もしい恩人だった。
***
ヨランドと子供たちの一行が旅立ち、残る王太子一行は男が大半を占めたが、身のまわりの世話をする侍女も必要だ。
少数の侍女を統率するために女主人が加わった。
「女主人とはおこがましい。わたくしはまだ婚約の身の上ですから、殿下に並ぶことはできません。ですが——」
亡き父と、賢い母から精いっぱい学んできたこと。
そして、いまは侍女のひとりとして力になりたいと言い、王太子一行に同行する旨を申し出た。
「公妃の……母君の言いつけでここに?」
「いいえ」
彼女はかぶりを振ると、「わたくしの意思です」と言った。
読者諸氏の時代風にいえば、こうだろうか。
婚約者マリー・ダンジューが仲間になった。
「無理だよ」
私ははじめ、マリーの申し出を断ろうとした。
パリを脱出するときに王太子の身代わりとなったジャンのことを思い出したからだ。
シャステルは「王太子を守る」任務のためなら何でもする。
王弟の庶子デュノワ伯ジャンを切り捨てるなら、婚約者も例外ではないだろう。
正式に婚姻して王太子妃になれば別格の扱いになるが、神の御前で誓いを立てれば、原則的に離婚できない。私はまだ結婚を申し出る勇気がなかった。
「私についてくるのは危険だ」
「王国内に、危険じゃない場所はありません」
「南は安全だよ。だから、公妃たちはプロヴァンスへ行くのだろう?」
南仏はブルゴーニュ派の影響力が薄く、イングランドの脅威もない。
「今ならまだ追いつける。すぐに手配をしよう」
「お気遣いはご無用です。わたくしはシャルル兄様の……いいえ、王太子殿下のお役に立ちたい」
マリーはまだ14歳だが、実年齢よりも聡明な少女だ。
母のヨランドがしたたかな賢夫人だとしたら、マリーは人間関係の機微によく気がつき、こまやかに心を配るタイプだ。
例えば、貴婦人の身だしなみともいえる紋章付きのハンカチで弟の鼻水を惜しげもなく拭き取ったり、子守の侍女が叱られないように「小さい子は暖かくて気持ちいいから私たちが抱いているの」とかばったり、私が剣術の稽古でかっこわるい姿を晒しそうなときにそっと席を外したり、水浴びの水に摘みたての花を仕込んだり。
貴婦人の誇りを損なうことなく、それでいて言動は柔らかい。
マリーのささやかな振る舞いに救われたことは数えきれない。
「もしマリーに何かあったら、公妃に顔向けできないよ」
「母はわたくしの決意を知っています。殿下についていくことを許してくださいました」
まだ王太子妃として迎えることはできないが、マリーはだいじな友人だ。
危険な目に遭わせたくない。それは本心だ。
「まったく、公妃は何を考えているんだ……」
母であるヨランドは、娘の安否を考えなかったのだろうか。
そんなことはないはずだ。
「やっぱり危険だと思うな」
「そうかしら」
人目もはばからず、「姫! 姫!!」と狂喜する詩人シャルティエにあきれながら、私は一抹の不安を覚えていた。
イングランドの脅威にさらされていたが、王家および宮廷からの支援は見込めない。
アンジューばかりかフランス王国としても危機的な状況だった。
だが、アンジュー領はイングランドにもブルゴーニュ派にも屈しなかった。
生来、ヨランドは女王の気質を持っていたのだろう。
夫の死によって、アラゴン王家の祖先から受け継いだ誇り高い気質が開花した。
「ロワール以南、南仏はわたくしにお任せください。祖国アラゴン王国にも使者を派遣して、殿下を支援するように取り計らいます」
ヨランドは王太子を援助すると約束し、それ以来、アルマニャック派とみなされるようになった。
アルマニャック派の残党が再集結する前に、いちはやく存在感を示した。
私はヨランドから受けた愛情を疑っていない。
私がアンジューに引き取られた当時は、ふたりの兄が健在だった。
10歳の末っ子王子が王位を継承するとは思わなかっただろう。
私を養育してマリーと結婚させても、アンジュー家に見返りをもたらす可能性は低かった。
私はヨランドの愛情を疑っていないが、都落ちした王太子を受け入れたとき、ヨランドの心に野心が芽生えても不思議ではないと思う。
祖国で叶わなかった王位継承の夢を、私に託そうと考えたかもしれない。
このころ、15歳だった私は、宮廷づくりに必要な助言と家臣団の一部を譲り受け、ひたすら感謝していた。愛情深くて頼もしい恩人だった。
***
ヨランドと子供たちの一行が旅立ち、残る王太子一行は男が大半を占めたが、身のまわりの世話をする侍女も必要だ。
少数の侍女を統率するために女主人が加わった。
「女主人とはおこがましい。わたくしはまだ婚約の身の上ですから、殿下に並ぶことはできません。ですが——」
亡き父と、賢い母から精いっぱい学んできたこと。
そして、いまは侍女のひとりとして力になりたいと言い、王太子一行に同行する旨を申し出た。
「公妃の……母君の言いつけでここに?」
「いいえ」
彼女はかぶりを振ると、「わたくしの意思です」と言った。
読者諸氏の時代風にいえば、こうだろうか。
婚約者マリー・ダンジューが仲間になった。
「無理だよ」
私ははじめ、マリーの申し出を断ろうとした。
パリを脱出するときに王太子の身代わりとなったジャンのことを思い出したからだ。
シャステルは「王太子を守る」任務のためなら何でもする。
王弟の庶子デュノワ伯ジャンを切り捨てるなら、婚約者も例外ではないだろう。
正式に婚姻して王太子妃になれば別格の扱いになるが、神の御前で誓いを立てれば、原則的に離婚できない。私はまだ結婚を申し出る勇気がなかった。
「私についてくるのは危険だ」
「王国内に、危険じゃない場所はありません」
「南は安全だよ。だから、公妃たちはプロヴァンスへ行くのだろう?」
南仏はブルゴーニュ派の影響力が薄く、イングランドの脅威もない。
「今ならまだ追いつける。すぐに手配をしよう」
「お気遣いはご無用です。わたくしはシャルル兄様の……いいえ、王太子殿下のお役に立ちたい」
マリーはまだ14歳だが、実年齢よりも聡明な少女だ。
母のヨランドがしたたかな賢夫人だとしたら、マリーは人間関係の機微によく気がつき、こまやかに心を配るタイプだ。
例えば、貴婦人の身だしなみともいえる紋章付きのハンカチで弟の鼻水を惜しげもなく拭き取ったり、子守の侍女が叱られないように「小さい子は暖かくて気持ちいいから私たちが抱いているの」とかばったり、私が剣術の稽古でかっこわるい姿を晒しそうなときにそっと席を外したり、水浴びの水に摘みたての花を仕込んだり。
貴婦人の誇りを損なうことなく、それでいて言動は柔らかい。
マリーのささやかな振る舞いに救われたことは数えきれない。
「もしマリーに何かあったら、公妃に顔向けできないよ」
「母はわたくしの決意を知っています。殿下についていくことを許してくださいました」
まだ王太子妃として迎えることはできないが、マリーはだいじな友人だ。
危険な目に遭わせたくない。それは本心だ。
「まったく、公妃は何を考えているんだ……」
母であるヨランドは、娘の安否を考えなかったのだろうか。
そんなことはないはずだ。
「やっぱり危険だと思うな」
「そうかしら」
人目もはばからず、「姫! 姫!!」と狂喜する詩人シャルティエにあきれながら、私は一抹の不安を覚えていた。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
征空決戦艦隊 ~多載空母打撃群 出撃!~
蒼 飛雲
歴史・時代
ワシントン軍縮条約、さらにそれに続くロンドン軍縮条約によって帝国海軍は米英に対して砲戦力ならびに水雷戦力において、決定的とも言える劣勢に立たされてしまう。
その差を補うため、帝国海軍は航空戦力にその活路を見出す。
そして、昭和一六年一二月八日。
日本は米英蘭に対して宣戦を布告。
未曾有の国難を救うべく、帝国海軍の艨艟たちは抜錨。
多数の艦上機を搭載した新鋭空母群もまた、強大な敵に立ち向かっていく。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる