7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)

文字の大きさ
152 / 202
第九章〈正義の目覚め〉編

9.9 強制された臣従礼(2)

しおりを挟む
 ロンドン塔の虜囚アルテュール・ド・リッシュモンを解放する条件は二つ。
 ひとつめはイングランド王ヘンリー五世に臣従して協力すること。
 もうひとつはフランス王太子シャルルに敵対すること。

「兄を救うためにイングランドに下れと?」
「不満か? 貴公にとっても良い条件の取引だと思うが」

 私が知っているリッシュモンは潔癖すぎるところがあるが、文武に優れている頭脳明晰な人物だ。王太子がブルターニュ公失踪に関与しているという話を鵜呑みにしたとは思えない。

 だが、選択肢はあって無いようなものだ。
 この取引は、リッシュモン個人の問題を通り越して、ブルターニュ公の命運とブルターニュ地方の安寧もかかっているのだから。

「臣従儀礼はただの契約だ。だいじな兄君と故郷を犠牲にしてまでフランス王家の没落に付き合うこともないだろう」

 ヘンリーは、「主君を乗り換えることは悪ではない」と自説を説いた。
 実際、中世ヨーロッパの忠誠心とは名ばかりで、臣下は主君が弱いと見るやすぐに裏切る。能力の高い者は敵方に引き抜かれるか、または臣下みずから敵対することある。実際、ヘンリー五世の父・ヘンリー四世は主君リチャード二世と敵対して命と王位を簒奪し、ランカスター王朝をひらいた。

「リッシュモン伯よ、余は貴公を愛しているのだよ」
「からかわれるのは好きではありません」
「本気だとも。アジャンクールで見せた比類なき強さとその頑固な義理堅さを愛しているのだ」

 ヘンリーは余裕たっぷりで、リッシュモンは崖っぷちだった。

「貴公は賢い。言わずともわかっていると思うが」

 ロンドン塔の虜囚となって早や五年。
 イングランド王や王太后に対する無礼に目をつむり、ずっと口説き続けているのは——

「血のつながらない弟に振り向いて欲しいからだ。イングランドを愛し、イングランドのために働いて欲しい。そのためならば何でもしよう」

 リッシュモンにはヘンリーの条件を飲む以外に選択肢はなかった。


***


 この物語を読んでいる読者諸氏は、臣従儀礼オマージュに馴染みがなくとも結婚式マリアージュは知っているだろう。立会人のもとで聖書に手を置いて夫婦の契りを誓約し、接吻を交わす。
 臣従の誓い(Hommage)は、婚姻の誓い(Mariage)を模した契約儀式である。
 
 臣従儀礼は、臣下が主君の城を訪れて立会人の前で行われる。
 契約書は書かないが、「神に誓約する」ための聖書か聖遺物を用いる。

「汝、我に忠誠を誓うか」
「我が名と神の御名にかけて……」

 主君の足元に臣下がひざまずき、祈るように両手を組む。
 この両手は、臣下が所有しているすべてのものを捧げることを意味する。
 臣下は、主君と神に対して誓いの言葉を述べる。

「いかなる時も主君たるイングランド王ヘンリー五世を敬い、助言し、決して危害を加えず、敵前で剣となって戦い、盾となって守ることを誓います」

 誓いの言葉には状況に応じてバリエーションがあるが、一般的に「主君を神のごとく崇拝し、主君の命令は神の命令である」といった内容になる。
 臣下の忠義に対して、主君は見返りを与えることを誓約する。

「されば我は、いかなる時も臣下アルテュール・ド・リッシュモン伯の居場所を保証し、糧を与え、名誉と財産を守ることを神の御名にかけて誓約する」

 主君は臣下の両手を包むように手を重ねる。
 これは、臣下が捧げるすべてを受け入れるという意味になる。
 なお、主君は臣下が誓いに背いたときに名誉と財産を没収する権利を有している。

 誓約の証としてさいごに接吻を交わす。
 中世ヨーロッパの臣従儀礼とは、おおむねこのような儀式だ。

 繰り返すが、臣従の誓いは婚姻の誓いとよく似た契約儀式である。
 本来、婚姻を誓った夫婦は死別以外に離婚は許されない。臣従を誓った主従も同じである。死が二人を別つまで、この誓約から逃れることはできない。

 仰々しい儀式だが、主従に力の差がなければビジネスライクな雇用契約にすぎない。
 だが、力の差が大きいかまたは弱みを握られている場合、主君は生殺与奪の権を握るため、臣下は服従するしかなくなる。

 このように強制された臣従儀礼のことを絶対服従・完全服従ともいう。


***


 臣従儀礼で交わす接吻は、形式的な口付けである。
 しかし、ヘンリー五世の言動の裏に透けて見える「征服してやった」といわんばかりの優越感は、リッシュモンの誇りを大きく傷つけた。
 兄を救出するため、ブルターニュの平和のためにと割り切ったが、誓約を盾にこれからさまざまなことを要求されることを考えると、さぞ気が重かっただろう。

フランス風のキスフレンチ・キスの方が良かったのではないか」

 儀式が終わると、立会人を務めたヘンリーの取り巻きが軽口をたたいた。
 イングランドではフランス人を貶めるときによく「フランス風の◯◯」という言い方をする。
 この場合のフレンチキスとは舌を絡めるような濃厚な口付けを指すが、実際のフランス人がイングランド人よりも性欲が強くて奔放というわけではない。昔からよくある下品な悪口のひとつだ。

「やめるんだ。余の弟はからかわれるのが好きではないらしいぞ」
「はっはっは、戦場とは打って変わって内気な弟君ですな」
「これからじっくりとイングランド風に躾けて差し上げようではないか」

 半ば強制的な臣従の誓いだけでも屈辱だというのに、色情的な下ネタで笑い物にされ、リッシュモンは暗澹たる気持ちで帰路に着いた。
 ヘンリー五世に臣従したということは、この不愉快な取り巻きたちと付き合っていかなければならない。

 すぐにでも口をぬぐい、唾を吐きたいところだが、誰かに見つかればまた問題行動だと見なされる。リッシュモンは口と心を閉ざし、表情を消して不快感に耐えた。

(塔の私室に戻ったら、できるだけ強い酒を浴びよう。口の中をすすいで何もかも吐き出してしまおう。誰にも見られないように)

 頭上を仰ぎ見ると、ロンドン塔の主・大鴉レイブンクロウが飛び交っていた。
 もし、伝説上のアーサー王の変身能力が子孫にも遺伝していたら、リッシュモンは黒い羽を広げて自由に空を飛び、すべてのしがらみから逃れただろう。
 しかし現実では、リッシュモンが安らげる居場所はフランスにもイングランドにもなかった。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

大絶滅 2億年後 -原付でエルフの村にやって来た勇者たち-

半道海豚
SF
200万年後の姉妹編です。2億年後への移住は、誰もが思いもよらない結果になってしまいました。推定2億人の移住者は、1年2カ月の間に2億年後へと旅立ちました。移住者2億人は11万6666年という長い期間にばらまかれてしまいます。結果、移住者個々が独自に生き残りを目指さなくてはならなくなります。本稿は、移住最終期に2億年後へと旅だった5人の少年少女の奮闘を描きます。彼らはなんと、2億年後の移動手段に原付を選びます。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二
歴史・時代
この物語の舞台は主に幕末・維新の頃の日本です。物語の主人公榎本武揚は、幕末動乱のさなかにはるばるオランダに渡り、最高の技術、最高のスキル、最高の知識を手にいれ日本に戻ってきます。 しかし榎本がオランダにいる間に幕府の権威は完全に失墜し、やがて大政奉還、鳥羽・伏見の戦いをへて幕府は瓦解します。自然幕臣榎本武揚は行き場を失い、未来は絶望的となります。 榎本は新たな己の居場所を蝦夷(北海道)に見出し、同じく行き場を失った多くの幕臣とともに、蝦夷を開拓し新たなフロンティアを築くという壮大な夢を描きます。しかしやがてはその蝦夷にも薩長の魔の手がのびてくるわけです。 この物語では榎本武揚なる人物が最北に地にいかなる夢を見たか追いかけると同時に、世に言う箱館戦争の後、罪を許された榎本のその後の人生にも光を当ててみたいと思っている次第であります。

処理中です...