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閑話
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ぽつん、ぽつん。
何か、大切な事を忘れている。
心を締め付ける何かを……。
ああ、広大な世界。
天を仰ぐと白い雲に水色の空。
透き通る様に美しい。
空の透明さを、流れる雲の変容をじっくりと眺めている自分。
こんなにゆったりとした気持ちは初めて。
ずっと、何かを求めていた。
求めていたのは、何かと言うと……。
広い野原にポツンと扉が一つ。
(何の扉だろう……)
かちゃかちゃとドアノブに手を掛けても開こうとしない。
扉にはしっかりと施錠されていてびくともしない。
(この扉に触れては駄目……)
心の中で私が囁いている。
記憶の扉にしっかりと鍵が掛けられている。
この扉は私が作ったもの。
この世界にただ一つ、決して開いてはいけない扉を私が作った。
しっかりと鍵を掛けて、この広い野原に鍵を投げ捨てて。
だから分からない。
私にはこの記憶の鍵が何処にあるか、分からない。
大切な記憶を閉じ込めたこの扉を私は開ける事が、出来ない……。
***
「紗雪ちゃん、こっちだよ」
隣のビルの清掃に入っている多栄子さんに案内されて私は、恐る恐る案内される場所へと向かう。
ビルの屋上に広がる花壇。
この季節は薔薇が見事に咲いている。
一面に色とりどりの薔薇の花が咲き乱れていて、高揚する気持ちを抑える事が出来ない。
殺伐とした生活の中で、「貴方に心ときめいて」と一柳さんに対する恋心、そして仲良くなった清掃員の多栄子さんとの語らいが私の心の潤いだ。
多栄子さんがビルの清掃だけでは無く、屋上の庭園も手掛けている。
ここのビルのオーナーが清掃の際に花壇の草取りだけでも無く肥料やら水遣りをしている多栄子さんの仕事ぶりを評価し、多栄子さんにここの庭園の管理を任せたと言う。
「オーナーはね。
それはそれは男前でね、うっとりと見惚れる程の美形なのよ」
とお茶目な多栄子さんに、くすくすと笑ってしまった。
ずっと独身で定年まで勤めて上げた会社を退職し、年金だけでは生活がままならないとハローワークでここの清掃の仕事を見つけて今に至っていると多栄子さんは言う。
(まるで未来の私を見ている様だ……)
多栄子さんには失礼だけど、私も多分、ずっと一人を突き通す。
一柳さんに淡い想いを抱いても、それが実を結ぶとは言い難い。
ううん、絶対に有り得ない。
告白してもバッサリと振られてしまう。
平凡以下でモブな私に一柳さんが振り向く筈が無い。
あの、コーヒーの事だって今になって思うと社交辞令では無かったか。
それを私が勝手に盛り上がって、妄想しているだけで……。
(やだ、落ち込んでしまう)
こんな綺麗な薔薇に囲まれているのに、気持ちをどんよりさせて……。
「紗雪ちゃん?」
「あ、御免なさい多栄子さん。
ぼんやりしちゃって」
「昨日も遅くまで仕事してたんでしょう?
オーナーが隣のビルの電気がまだ付いていたって。
10時過ぎだって言っていたわ。
紗雪ちゃん、ちゃんと身体を休めているの?」
心配して労ってくれる多栄子さんの優しい言葉に、思わず涙が滲む。
身内にも職場の同僚にすらそんな労りの言葉をかけられた事が無い。
たった一つだけ。
一柳さんにコーヒーが美味しかった、とただそれだけ。
こぼれ落ちそうな涙をグッと堪えて、私は努めて明るく振る舞った。
優しい多栄子さんにこれ以上の心配をかけたくない。
「だ、大丈夫。
き、昨日もね、仕事から帰って直ぐにゲームしたんだから。
それで寝坊してしまって」
「……」
「あ、この薔薇、本当に綺麗ねえ。
多栄子さんの愛情の賜物ね。
見事に咲いて、本当にいい香りで……」
「……」
「多栄子さん?」
「紗雪ちゃん。
これ以上無茶すると、本当に倒れてしまうわよ」
多栄子さんの言葉に思わずボロボロと涙が溢れてしまった。
グッと我慢していたのに。
こんなに優しい言葉をかけられたら私は……。
「紗雪ちゃん」
「ご、御免なさい多栄子さん。
わ、私、仕事に戻らないと……」
そう言って立ち上がりその場を離れると、一人の男性が立っていた。
口元に笑みを称えている。
にやりと笑っている?
(背の高い人。
一柳さんよりも高い、それになんてハンサムなんだろう……)
彫りの深い端正な顔立ちの男性。
仕立ての良いスーツを纏っている。
もしかして、この人が多栄子さんが言っていたこのビルのオーナー?
と思った途端、背中にダラダラと汗が流れる。
自分が置かれている状況を把握して、真っ青になってしまった。
(部外者である私が勝手にここにいる。
これは非常にマズい状況では……)
「あら、オーナー」
(あ、や、やっぱり!
や、ヤバイよ紗雪。
会社にも迷惑をかける事態に陥ったらど、どうしよう……)
「わ、私、部外者なのに勝手にここに来てしまって、本当に申し訳ごさいません。
ど、どうか職場にはこの事を内密にしていただけませんか?」
何度も何度もぺこぺこ頭を下げ懇願する私に、このビルのオーナーがくすくすと笑い出す。
唖然とする私を目を細めて彼は見る。
何処か楽しげな様子に、私はだんだんと恥ずかしくてなりその場を離れようとしたら手を掴まれて。
え?と思う私に、このビルのオーナーがとても優しい目で私を見つめ声をかける。
「多栄子さんに事情を聞いている。
何時も多栄子さんの手伝いをしていてくれると。
ありがとう」
「え……」
「俺は保科祥吾。
君は?」
(な、なんて魅惑的な声なの?
ハスキーで、尾骶骨までずきんとさせる程ゾクゾクして、ドキドキする……。
は、し、しっかりして紗雪。
ああ、ダメよ。
私には一柳さんとジェラルドがいるのに、何、ときめいているの?)
ハラハラドキドキする私に、保科さんの笑い声が治らない。
そんなにおかしい事かしら?と余りに笑う保科さんに、思わずムッとしてしまう。
ふわりと薔薇の香りが広がる。
風に吹かれて庭園に薔薇の香りが漂う。
これが保科さんと私の出会い。
彼との出会いが私の全てを狂わす様になるとは、今の私には思いもよらない事であった。
何か、大切な事を忘れている。
心を締め付ける何かを……。
ああ、広大な世界。
天を仰ぐと白い雲に水色の空。
透き通る様に美しい。
空の透明さを、流れる雲の変容をじっくりと眺めている自分。
こんなにゆったりとした気持ちは初めて。
ずっと、何かを求めていた。
求めていたのは、何かと言うと……。
広い野原にポツンと扉が一つ。
(何の扉だろう……)
かちゃかちゃとドアノブに手を掛けても開こうとしない。
扉にはしっかりと施錠されていてびくともしない。
(この扉に触れては駄目……)
心の中で私が囁いている。
記憶の扉にしっかりと鍵が掛けられている。
この扉は私が作ったもの。
この世界にただ一つ、決して開いてはいけない扉を私が作った。
しっかりと鍵を掛けて、この広い野原に鍵を投げ捨てて。
だから分からない。
私にはこの記憶の鍵が何処にあるか、分からない。
大切な記憶を閉じ込めたこの扉を私は開ける事が、出来ない……。
***
「紗雪ちゃん、こっちだよ」
隣のビルの清掃に入っている多栄子さんに案内されて私は、恐る恐る案内される場所へと向かう。
ビルの屋上に広がる花壇。
この季節は薔薇が見事に咲いている。
一面に色とりどりの薔薇の花が咲き乱れていて、高揚する気持ちを抑える事が出来ない。
殺伐とした生活の中で、「貴方に心ときめいて」と一柳さんに対する恋心、そして仲良くなった清掃員の多栄子さんとの語らいが私の心の潤いだ。
多栄子さんがビルの清掃だけでは無く、屋上の庭園も手掛けている。
ここのビルのオーナーが清掃の際に花壇の草取りだけでも無く肥料やら水遣りをしている多栄子さんの仕事ぶりを評価し、多栄子さんにここの庭園の管理を任せたと言う。
「オーナーはね。
それはそれは男前でね、うっとりと見惚れる程の美形なのよ」
とお茶目な多栄子さんに、くすくすと笑ってしまった。
ずっと独身で定年まで勤めて上げた会社を退職し、年金だけでは生活がままならないとハローワークでここの清掃の仕事を見つけて今に至っていると多栄子さんは言う。
(まるで未来の私を見ている様だ……)
多栄子さんには失礼だけど、私も多分、ずっと一人を突き通す。
一柳さんに淡い想いを抱いても、それが実を結ぶとは言い難い。
ううん、絶対に有り得ない。
告白してもバッサリと振られてしまう。
平凡以下でモブな私に一柳さんが振り向く筈が無い。
あの、コーヒーの事だって今になって思うと社交辞令では無かったか。
それを私が勝手に盛り上がって、妄想しているだけで……。
(やだ、落ち込んでしまう)
こんな綺麗な薔薇に囲まれているのに、気持ちをどんよりさせて……。
「紗雪ちゃん?」
「あ、御免なさい多栄子さん。
ぼんやりしちゃって」
「昨日も遅くまで仕事してたんでしょう?
オーナーが隣のビルの電気がまだ付いていたって。
10時過ぎだって言っていたわ。
紗雪ちゃん、ちゃんと身体を休めているの?」
心配して労ってくれる多栄子さんの優しい言葉に、思わず涙が滲む。
身内にも職場の同僚にすらそんな労りの言葉をかけられた事が無い。
たった一つだけ。
一柳さんにコーヒーが美味しかった、とただそれだけ。
こぼれ落ちそうな涙をグッと堪えて、私は努めて明るく振る舞った。
優しい多栄子さんにこれ以上の心配をかけたくない。
「だ、大丈夫。
き、昨日もね、仕事から帰って直ぐにゲームしたんだから。
それで寝坊してしまって」
「……」
「あ、この薔薇、本当に綺麗ねえ。
多栄子さんの愛情の賜物ね。
見事に咲いて、本当にいい香りで……」
「……」
「多栄子さん?」
「紗雪ちゃん。
これ以上無茶すると、本当に倒れてしまうわよ」
多栄子さんの言葉に思わずボロボロと涙が溢れてしまった。
グッと我慢していたのに。
こんなに優しい言葉をかけられたら私は……。
「紗雪ちゃん」
「ご、御免なさい多栄子さん。
わ、私、仕事に戻らないと……」
そう言って立ち上がりその場を離れると、一人の男性が立っていた。
口元に笑みを称えている。
にやりと笑っている?
(背の高い人。
一柳さんよりも高い、それになんてハンサムなんだろう……)
彫りの深い端正な顔立ちの男性。
仕立ての良いスーツを纏っている。
もしかして、この人が多栄子さんが言っていたこのビルのオーナー?
と思った途端、背中にダラダラと汗が流れる。
自分が置かれている状況を把握して、真っ青になってしまった。
(部外者である私が勝手にここにいる。
これは非常にマズい状況では……)
「あら、オーナー」
(あ、や、やっぱり!
や、ヤバイよ紗雪。
会社にも迷惑をかける事態に陥ったらど、どうしよう……)
「わ、私、部外者なのに勝手にここに来てしまって、本当に申し訳ごさいません。
ど、どうか職場にはこの事を内密にしていただけませんか?」
何度も何度もぺこぺこ頭を下げ懇願する私に、このビルのオーナーがくすくすと笑い出す。
唖然とする私を目を細めて彼は見る。
何処か楽しげな様子に、私はだんだんと恥ずかしくてなりその場を離れようとしたら手を掴まれて。
え?と思う私に、このビルのオーナーがとても優しい目で私を見つめ声をかける。
「多栄子さんに事情を聞いている。
何時も多栄子さんの手伝いをしていてくれると。
ありがとう」
「え……」
「俺は保科祥吾。
君は?」
(な、なんて魅惑的な声なの?
ハスキーで、尾骶骨までずきんとさせる程ゾクゾクして、ドキドキする……。
は、し、しっかりして紗雪。
ああ、ダメよ。
私には一柳さんとジェラルドがいるのに、何、ときめいているの?)
ハラハラドキドキする私に、保科さんの笑い声が治らない。
そんなにおかしい事かしら?と余りに笑う保科さんに、思わずムッとしてしまう。
ふわりと薔薇の香りが広がる。
風に吹かれて庭園に薔薇の香りが漂う。
これが保科さんと私の出会い。
彼との出会いが私の全てを狂わす様になるとは、今の私には思いもよらない事であった。
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