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16話

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(とうとう、シャンペトル家に着いてしまった……)

ドキドキと早鐘の様に心臓が鳴っている。
今更ながら、と思いつつ、でも一瞬、怖気付いてしまう。

(な、何よマリアンヌ。
今更の事でしょう?)

ふと鼻腔を擽る薔薇の薫り。
何時もより濃厚で芳醇だとはとても言い難い薔薇の……。

(え?
な、何なの、これは一体!
薔薇が異様に花開いて咲いている。
薫りは普段よりも濃くって何とも言い難い、少し苦味のある薫り。
そう言えば今朝、ピアッチェ家の薔薇も凄い有様だった。
狂い咲きと言うか薫りも濃厚で甘い薫りとはとても言い難い、酸味の掛かった)

何かあったのかしら?
薔薇に元気を感じられない、意気消沈している、そんな風に感じてしまう。

(ど、どうして薔薇に対して擬人的な感想になってしまうの?)

何かと直結されていると思われて仕方が無い。
それが何かは昔から心に引っ掛かっている。

シャンペトル家の薔薇の異様さにセシリアは肩を窄めて溜息を洩らす。

「全く。
リアナもライアンと派手にやり合ったのね……」

ぽそり、とセシリアが呟くが、セシリアの微かな呟きはマリアンヌの耳に届く事は無かった。

「この様子だとクリストファーは自室に閉じ籠っている筈よ」と何気に恐ろしい言葉を言う母親にマリアンヌは一瞬、自分の耳を疑ってしまう。

「お、お母様?」

、リアナからクリストファーの部屋の合鍵を預かっているわ。
もしクリストファーが貴女との話し合いを拒んだらこれを使って中に入りなさい。
良いこと?
絶対に部屋の鍵をかけたら駄目よ、マリアンヌ」

強く念を押して言うセシリアのただならぬ様子にこくこくと頷く事しか出来ない。
セシリアの目が据わっていると感じるのはきっと気の迷いだ。
うん、そうに違い無いとマリアンヌは心の中で叱咤する。

(お、お母様の形相が怖いったら。
クリストファーと何かあると思っての事かしら?
も、もしかしてお母様、私の貞操の危機を心配されている?
あ、ある訳無いでしょう、そんな事……)

とは、言い難い事があったではないか。
クリストファーとの濃厚なキスをしたばかりだと心の中で突っ込んでしまう。

(……、だ、大丈夫よ。
ま、マリアンヌ、もし、そうなったら)

私、クリストファーを拒めるかしら……。

(も、もう、有りもしない事を深く考えない。
それよりもクリストファーに早く会いたい!
逸る気持ちを抑える事なんてもう、無理。
クリストファーに会いたい、会って貴方に気持ちを伝えたいの!)

セシリアの懸念をよそに、マリアンヌは歩行を速めてクリストファー部屋へと向かって行った。

***

リアナを訪ねると自室で気怠げにソファに座り、紅茶を嗜んでいた。
赤みのかかった金髪は歳を重ねるに連れて上質な絹の様な滑らかさを、紺碧の瞳は濡れていて熟成された大人の色香を滲ませていた。
明け方までライアンに愛された名残かしらと心の中で毒付く。
セシリアに気付いたリアナが物憂げな眼差しを向ける。

「まあ、どうしたの?
セシリア、アンタがここに来るなんて」

「ふん、白々しい。
解っての事でしょう、私の訪問」

「……、クリストファーとマリアンヌが喧嘩でもしたんでしょう。
喧嘩と言ってもクリストファーは、無口だから痴話喧嘩にならないわね」

「相変わらず減らず口ね、リアナ」

「アンタには言われたく無いわ、セシリア。
全くアンタの娘がクリストファーの対なる君に産まれた所為で、クリストファーの人生は狂いっぱなしよ」

「その言葉、そっくりアンタに返してあげるわ、リアナ。
アンタの息子が初めてマリアンヌにあった時の言葉を覚えているでしょう?
忘れたとは言わせないわよ!
聞いた途端、背筋が凍ったわ。
アンタの息子の異常さに」

「……、ふん、アンタの娘の教育が悪いのよ。
クリストファーったら、マリアンヌに嫌われているって屋敷に帰ってずっと泣きながら落ち込んでいたわ」

「はああ、話の筋を逸らさないで!
アンタの息子は何を言ったか言いましょうか?
アンタの息子は私達の前でこう言ったじゃ無い。
「マリアンヌは僕の対なる君だから家に連れて帰りたい。
僕達はずっと一緒にいないと駄目だ。
絶対に連れて帰る」っ泣いて駄々を捏ねたじゃ無いの!
全く、ろ、6歳の男の子の言う言葉じゃ無いわよ!
アンタの息子の末恐ろしい将来に危惧した私がクリストファーに助言しなかったら、アンタの息子もロベルトとライアンと同様に育っていたわ」

「ちょ、ちょっと待ってよ、セシリア!
聞き捨てならないわね、その発言!
私のクリストファーはアンタの旦那やライアンの様な変質者では無いわよ」

「ふふふ、息子の事は認める事が出来なくても、自分の旦那の事は素直に変質者だと言い放つ事が出来るのね」

「そ、そっちこそ」

「……」

「……アンタ、よくロベルトから逃れる事が出来たわね。
な、何なの、その異様な薔薇の匂い。
明け方まで抱かれていたんでしょう?
情事の名残りを強く感じるんだけど」

「まあ、お上品なシャンペトル家の奥様のお言葉とはとても思えない。
アンタだって似たような匂いを放っているわよ。
それにまあ、見事な薔薇の咲きっぷり。
何処までも素直ね、アンタの旦那って」

「……、ふん、アンタの旦那だって同等でしょう、ライアンと。
ロベルトの異常さを垣間見るわ、その目の隈は。
化粧で隠しても隠しきれて無いわよ、それにその声だって。
よくマリアンヌは気付かなかったわね。
アンタたち夫婦の性事情に」

「……、マリアンヌは私の教育のお陰でそれはそれは清らかな娘に成長したわ。
アンタの息子とは大違いよ」

「ふん、ただ単に疎くて鈍いのでは無いの?
だからクリストファーの気持ちに気付かないのよ」

と、何処か悲しげな口調に母親の苦悩を垣間見る事が出来る。
リアナとて立場は違えど自分と同じ母親である。
クリストファーの事で思い悩む事はあっても決しておかしくは無い。

息子が対なる君以外を受け入れる事が出来ない性質。
対なる君を得られない者は短命である。
血の呪縛から逃れる事が出来ず精神が蝕んでいき、医学では判明出来ない奇病に侵されて最後には無惨な最後を遂げる。

だからレガーリス家の一族の血を引くロベルトやライアンも自分の血に流れる呪いに抗う事が出来ずに、己やリアナを求めて止まない。

そんなレガーリス家の血の宿命を持ってクリストファーが産まれた時のリアナの驚愕。
クリストファーの運命に気も狂わんばかりに泣き叫んだ。

「どうして薔薇の芳香を放っているの?
どうしてクリストファーに一族のアザが。
対なる君を求めるアザが浮かんでいるの!」

散々泣いて泣いて涙が枯れる迄、泣いて。
愛する息子が血の呪いから逃れる事が出来ない。
そんな母親の深い哀しみに気付いたクリストファーの心の中に灯った小さな想い。

(ごめんなさい、お母様。
僕が不出来な子供だからお母様が心を痛めている。
お母様がずっと涙を流している)

対なる君とは一体、何だろう?
クリストファーはずっと心の中で思っていた。
父親が母親を求める異常な執着。
それはあたかも屋敷に蔓延る薔薇の如く、艶やかに狂い咲いていて。
清廉で凛々しく頼もしい父親の隠された性質。

(僕もお父様の如く、対なる君を得たら哀しませるのだろうか?
お母様の様に……)

そんな事をしたくない。
もし、僕が対なる君に出会ったら、僕は。
誰よりも大切にしたい。
悲しませたくない、ずっと笑って欲しい。

そんな幼いクリストファーの前に紹介されたマリアンヌ。
自分の対なる君だと知った時の衝撃。

そして幼いながらも気付いてしまった。
どうして母親があんなに嘆き哀しむのか、何故、父が母の全てを奪い求めるのか。

(ああ、僕はマリアンヌを傷付けてしまう。
本当の僕を知ったらきっとマリアンヌは……)

僕の事を好きになってくれない。
僕の事をずっと嫌って好きになってくれない。

(マリアンヌ。
僕の対なる君にどうして産まれたんだ?
僕は君とこんな風に出会いたく、無かった……)

すうと、一雫の涙が頬に流れる。
清らかな想いを秘めたクリストファーの涙。

初恋が一瞬にして砕かれていく。
対なる君の血に目覚めたら僕は……。

きっと君を壊してしまう。
君を哀しませてしまう。

そんな僕が君の愛を得る事なんて、生涯ない事なんだ……。
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