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23話 親心

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「お前、本当に……冬馬の事が好きなんだな」
 父にそう言われて私の思考は一瞬フリーズした。
 いや、だって、父親にこんなことを言われるっていうのはなかなかに恥ずかしいことだよ。
 おまけに正面からじっと見据えられたら、とてもごまかせる気がしない。
 ただでさえ人の嘘を見抜く能力にたけた人だっていうのに。
 私達の婚約はあくまで偽装だ。
 父をずっと騙せるとは、はなから思っていない。
 でもね……この気持ちは本物だから。
 冬馬先生を思う気持ちに偽りはない。
 だから、胸をはって言える。
「わたしっ、私ね、トーマ先生の事が……好きだよ。ずっと、好きだった」
「それならば、なぜっ!?」
 それまでずっと穏やかだった父が急に感情をあらわにした事に驚いて、私は思わずのけぞった。
 どうしよう?
 今すぐ逃げ出すべき?
 私がチラッと視線だけ扉の方に向けたのと同じタイミングで父が頭を下げた。
「……すまない」
「…………」
 お父さんが私に謝るなんて……。
「すまない……でも、これだけは聞かせてくれ。……ではなぜあの日、お前は別の男と駆け落ちしたんだ……?」
 それはお父さんが私をむりやり結婚させようとしたからじゃない!
 そう言いたいけど、ホントはね、分かってる。
 あの日、勇気を出して言えば良かったのにね。
 私は先生が好き。
 だから他の人とは結婚したくないって。
 でも、そんな勇気はなかった。
 だって、先生はお姉ちゃんとデートをするような仲だったし、私の事なんて妹の様にしか思っていなかったんだから。
 到底かなわない想いだった。
 それでも、さっきの、冬馬先生がずっと好きだ、という発言は自分でも矛盾してると思う。
 父が納得いかないのも分かるよ。
 片想いとは言え先生が好きなくせにタツキ君と駆け落ちして、戻って来たと思ったら赤ちゃん連れって……。
 それは、どう考えても変だもんね。
 これまでの父だったら『一体どうなっているんだ!?』って怒鳴り散らしてもおかしくない状況だ。
 でも……今夜、父が必死に耐えているのが分かる。
 なんとか冷静に私と話をしようとしてくれている。
 デスクチェアのアームを握りしめる手に力をこめてぐっと眉根を寄せている。
 その表情は怒りを……こらえているの?
 ううん……そうじゃない。
……悲しみを、こらえているんだ……。

 私があの日。
……家族を捨てたから。

『私が家を出たのはお父さんと離れたかったからだよ!』
『お父さんのせいで、私がどれだけ我慢してきたと思ってるの!?』
 少し前の私だったら、きっとそう告げていた。
 それが父を傷つける一番の言葉だから。
 私はあの頃より強くなった。
 ちゃんと言うべきことは言える。
 私にはその権利があるんだ。
 そう思っていたから。

……でも、父にこれまでの仕返しをしたいだなんてこと、父の顔を見たら思えなくなってしまった。
 父が、どれだけの努力をして今の仕事についたのか。
 祖父の後を継いで苦労しながら働いて収入を得てきたのか?
 社会人になった今なら嫌というほど分かる。
 そして、私が子供の頃からどれほど恵まれた暮らしをさせて貰っていたのかも。
 好きな服が着られない。
 通いたくもない学校に通わされているって、あの頃の私は不満ばかり言っていた。
 それがどんなに贅沢な悩みなのか気が付きもせずに……!
 家を出て、未婚の母になり、蓮を育てること、生きていく事に精一杯だったこの一年半。
 ただ、目の前の暮らしに追われる日々だった。
 こんな生活を送る私がどうしたら息子を幸せに出来るのか?
 それが分からなかった。
 そういう時、何を思うって、結局自分の親の事を思い出すものなんだよ。
 ああ、あの時お母さんは私にどうしてくれたっけ?
 何を言ってくれたんだっけ?
 お父さんは……? って。
 思い出すのは優しい母のほほ笑みや、父の大きな背中、姉の笑い声。
 家族を捨てた私に残っていたのは愛された記憶ばかりだった。
 傲慢だと嫌っていた父の態度でさえ離れて振り返ってみれば理解できることもあった。
 体のラインが分かってしまう様な洋服を着て治安が悪い街に中学生だけで出かけさせたくないと娘を心配する気持ちも。
 例え家から離れていようとも少しでも良い環境で学ばせたいという親心も。
 すべては娘の為。

 ああ、そうか……今思えば、父は私に愛情を与えようとしていたんだ……。
 例えそれが私が望むものじゃなくても。

 あの頃の私は子供だった。
 ぶっきら棒で不器用な父の本心を到底思い至れなかった。
 姉や冬馬先生が気安く話しかけたり言い返せているのが不思議でならなかった。
 あの日、父に勝手に結婚させられるのは嫌だと本心を言えずに逃げ出した私はいかに愚かで弱かったのか。

 タツキ君と偽装駆け落ちした事は悔やんではいない。
 私がタツキ君に救われたことは事実だ。
 家を出たからこそ分かったことが沢山あるし、おかげで強くなれた。
 それでも、あの日の選択が多くの人を傷つけてしまったことは確かだ。

 今、私の父に対する恨みや恐怖心が完全に消えたわけじゃない。
 ただ……私も大人になって、親になって、世間的にはどんなに立派な大人だって思い悩むし、間違うことがある、そのことを知っただけだ……。



 なぜあの日駆け落ちしたのか、という父の問いかけに随分長い事沈黙していた。
 でも、父はそんな私をせかすことなく答えを待ってくれている。
 悲しみに耐えながら。
 気が付いたら私の頬は濡れていた。
 涙が次から次にあふれてくる。
 こみ上げてくる感情を抑えきれずに私は涙をぬぐった。
「っ、お、お父さんっ、……ひ……っく、ホ、ホントにっ……ご、ごめんなさいっ……!」
 家を出た理由は言えない。
 蓮の父親についても話せない。
 私に出来ることは謝ることだけだ。
 これまで大事に育てて貰ったのに、よりにもよって成人式の日に駆け落ちするなんて、なんと勝手なことをしでかしたのか?
 一度ちゃんと謝るべきだと素直に思えた。
 嗚咽がこみ上げてきてしゃくりあげながらもなんとか言葉を紡ぐ。
「ご、ごめんなさい……ごめん、うっ……ふっ……」
「もういい、分かった」
 父の手がそっと私の肩に触れた。
「千尋……すまなかった……俺が、悪かった」
「お、お父さんっ……!!」
 父のその言葉に涙が止まらなくなって、私は涙が枯れるまで泣いた。
 その間父はずっとそばにいてくれた。



「なあ、千尋。冬馬といればお前は幸せになれるのか?」
 父にティッシュを渡されて私は鼻をかんだ。
……私の……幸せ……? 
「……分からない、でも……今はトーマ先生と一緒にいたい。だからお父さん、私、永田先生とは結婚できません」
 私はがばっと頭を下げた。
 この縁談も私の事を考えてのことかもしれないけどお受けする気はありません。
 私の未来は私が決める。
 まあ、偽装婚約なんてしているうちは賢くなったとはとても言えないけど……。
「永田……?」
 父はきょとんとした顔で呟く。
 え? しらばっくれないでよ。
「お父さんが私と永田先生を結婚させようとしているって冬馬先生から聞いて知ってるんだから……」
「あ? そ、そうか……。わ、分かった……俺はもう、何も言わん。勝手にしなさい」
 父はそう言いながらも大きくうなずいた。
 冬馬先生との婚約の件で『勝手にしなさい』って言われるのはこれで二度目だ。
 お父さんの『勝手にしなさい』は『どうでもいい』って見捨てることじゃない。
 あんなに大きくうなずくって事は『許す』ってことなんだ……。
 ほんっと、なんて不器用なんだろう!
「う、うん……あ、ありがとう! お父さん! ありがとう、先生の家の事も教えてくれてホントありがとう!」
 私の大げさな感謝の言葉に父は戸惑った顔をしている。
「あ、ああ……お前は明日も早いんだろう? もう部屋に戻って寝なさい」
「うん、ありがとう」

 私は父に何度もお礼を言って書斎を出た。
 今夜、父のもとを訪ねて良かった。
 なんだかちょっぴり分かり合えた気がする……。
 ああ、これも冬馬先生のおかげかも知れないな……。
 先生があんまり気安く父と言いあうから、私まで平気になったのかも知れない。
 だって、先生と一緒にいる父はちっとも怖くないんだもの。
 やっぱり先生はすごい人だ……。



「そういえば、お父さん。今日は蓮の父親については聞かなかったな……」
 私がそう気が付いたのは、もう眠くてウトウトし始めた頃の事だった……。
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