ベランダ越しに始まる禁断の恋

空見原 禄乃

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心の交流

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梅雨入りが発表された翌日、朝から雨が降り続いていた。窓越しに見える空は灰色で、ベランダの手すりには雨粒が無数に跳ねている。琴葉は窓の前に立ち、外を眺めていた。
ベランダに出られない。それだけで、なんだか息苦しい気がした。柊と会えないのもある。ここ数日、柊との会話が琴葉の日常の一部になっていたからだ。
ふと、スマホが振動した。琴葉は画面を見る。柊からのLIMEだった。

『雨、すごいですね。ベランダ出られなくて残念です』

琴葉は少し考えてから、返信した。

『そうですね……しばらくこんな天気が続きそうです』

すぐに返信が来た。

『水瀬さん、今日は何してるんですか?』
『特に何も……家事くらいです』
『暇そうですね。よかったら、話しません?』

琴葉は夫の書斎の方を見た。相変わらずキーボードを叩く音が聞こえている。夫は仕事に集中していて、琴葉のことなど気にも留めていない。

『はい、大丈夫です』

返信すると、柊から次々とメッセージが届いた。他愛のない話だったが、琴葉は楽しかった。柊は琴葉の返信を待ち、琴葉が何か言うたびに反応してくれる。夫とは違う。夫は琴葉の話を聞き流すだけ。でも、柊は違った。
気づけば、昼食の時間になっていた。琴葉は夫に昼食を運び、自分も簡単なサンドイッチを作って食べた。夫は「ありがとう」と言うだけで、すぐに仕事に戻った。琴葉は一人でリビングのテーブルに座り、サンドイッチを食べながら、またスマホを見た。柊からメッセージが届いている。

『お昼食べました?』
『今、食べてます』
『俺もです。一人で食べるの、寂しいですよね』

琴葉は思わず笑みがこぼれた。柊は琴葉の気持ちをわかってくれる。

『そうですね……一人は寂しいです』
『旦那さんは?』
『仕事中です。一緒に食べることはほとんどないです』
『そうなんですね。それは寂しいな』

柊の言葉を読んで、琴葉の喉の奥が熱くなった。誰かが自分の気持ちを理解してくれる。それだけで、救われるような気がした。

***

雨の日が続いた。琴葉は毎日、柊とLIMEで会話した。朝の挨拶から始まり、昼食の話、午後の雑談、夜の「おやすみ」まで。些細なやり取りだったが、琴葉にとってはかけがえのない時間だった。
ある日、琴葉が夫との些細な喧嘩の後、落ち込んでいた時のことだった。夫は琴葉が話しかけても上の空で、最終的には「今、忙しいから」と言って書斎に閉じこもってしまった。琴葉は一人でリビングに残され、虚しさに襲われた。
琴葉はベランダに出ようとしたが、外は相変わらず雨だった。窓越しに隣のベランダを見ると、柊の部屋の明かりがついている。琴葉はスマホを取り出し、柊にメッセージを送った。

『今、お時間ありますか?』

すぐに返信が来た。

『ありますよ。どうかしました?』

琴葉は少し迷ったが、素直に気持ちを書いた。

『なんだか、落ち込んでて……』
『そうなんですね。よかったら、話聞きますよ』

琴葉の目元が熱くなった。夫は琴葉の話を聞いてくれない。でも、柊は違う。

『ありがとうございます……夫と、ちょっと喧嘩というか……』
『大丈夫ですか?』
『まぁ、よくあることなんですが……でも、こんな話、聞かせちゃってごめんなさい』
『謝らないでください。俺、水瀬さんの話、ちゃんと聞きたいです』

その言葉に、琴葉の涙が溢れた。誰かに話を聞いてほしかった。誰かに理解してほしかった。柊は、それをわかってくれる。
琴葉は、夫との関係が冷え切っていること、会話がほとんどないこと、自分が「いい妻」を演じるだけの毎日に疲れていることを、少しずつ柊に打ち明けた。柊は黙って聞き、時折「わかります」「辛いですよね」と共感を示してくれた。

『俺も、昔は誰かと一緒にいるのが窮屈で……一人の方が楽だと思ってたんです』

柊がそう書いてきた時、琴葉は驚いた。

『今は違うんですか?』
『わからないです。でも、人と話すのも悪くないなって思い始めてます。特に、水瀬さんと話してると』

スマホを持つ手が震えた。柊も、自分との会話を楽しんでくれているのだろうか。

『私も……柊さんと話してると、楽しいです』
『それ、嬉しいです』

琴葉は涙を拭いながら、微笑んだ。結婚して見知らぬ土地に来て友人もいない。そんな中で、こんなふうに誰かと心を通わせるのは、いつぶりだろう。

雨が上がった翌日、琴葉はベランダに出た。久しぶりの晴れ間に、洗濯物を干す。すると、隣のベランダに柊が出てきた。

「水瀬さん、久しぶりですね」

柊は笑顔で声をかけてきた。琴葉も笑顔で答える。

「本当に。ずっと雨でしたね」
「そうですね。でも、LIMEで話せてよかったです」
「私も……ありがとうございました」

柊は少し真面目な顔になった。

「水瀬さん、大丈夫ですか? この前、落ち込んでるって」
「ああ……はい、もう大丈夫です。柊さんが話を聞いてくれたから」
「よかった。でも、いつでも話してくださいね。俺、聞きますから」

柊の優しさに、琴葉の胸が満たされていく。

「ありがとうございます」

二人はしばらくベランダ越しに会話を楽しんだ。天気の話、食べ物の話、テレビの話。どれも他愛のない内容だったが、琴葉は心から楽しんでいた。
柊は琴葉の表情をじっと見つめながら言った。

「水瀬さん、笑ってる方が素敵ですよ」

琴葉は驚いて顔を上げた。

「え……?」
「いや、なんでもないです。でも、水瀬さんの笑顔、いいなって思って」

柊は少し照れたように笑った。琴葉は頬が熱くなるのを感じた。

「ありがとうございます……」

琴葉は嬉しさと恥ずかしさが入り混じった気持ちで、柊から視線を逸らした。でも、心の中では柊の言葉が何度もリフレインしていた。

それから、琴葉と柊の関係はさらに深まっていった。ベランダ越しの会話だけでなく、LIMEでのやり取りも増えた。朝起きると柊から「おはようございます」とメッセージが届き、夜寝る前には「おやすみなさい」のメッセージを交換する。まるで、恋人同士のようだった。

でも、琴葉は自分に言い聞かせていた。これは、ただの隣人との会話。左手薬指を見て何度もそう心の中で繰り返す。

ある日、柊が「水瀬さん、コーヒー好きって言ってましたよね」とLIMEで聞いてきた。

『はい、好きです』
『近所のカフェで、いい豆を売ってるんです。よかったら、今度一緒に行きません?』

琴葉は驚いた。一緒に外出する、という提案だった。でも、それは……。

『でも、私、結婚してるし……』
『あ、そうですよね。ごめんなさい、変なこと言っちゃって』
『いえ……』

琴葉は少し考えてから、続けた。

『でも、お茶くらいなら……いいかもしれないです』
『本当ですか? じゃあ、今度時間がある時に』
『はい』


大丈夫。何もおかしなことではない。隣人の友人と食事をする事くらい普通のことだ。
別に結婚したからと言って異性の友人がいるのもおかしなことではないだろう。
琴葉は返信してから、しばらくリビングのソファーから動けないでいた。

翌週、健太が出張に出かけた。二泊三日の予定だった。琴葉は夫を見送り、一人で部屋に戻った。静かな部屋に、一人きり。
琴葉はスマホを取り出し、柊にメッセージを送った。

『夫が出張に出かけました』

すぐに返信が来た。

『そうなんですね。一人は寂しくないですか?』
『少し……』
『よかったら、今日の午後、カフェに行きませんか? あの、前に話してた店』

琴葉は迷った。でも、一人で家にいるよりは、誰かと過ごしたかった。

『はい、行きます』
『じゃあ、14時にマンションの前で待ち合わせしましょう』
『わかりました』

琴葉は返信してから、クローゼットを開けた。何を着ていこうか。そう考えている自分が、女性のようで、琴葉は少し戸惑った。
これは、ただのお茶。隣人との外出。そう自分に言い聞かせながら、琴葉は服を選んだ。


午後二時、琴葉はマンションの前で柊を待っていた。緊張で指先が冷たくなっている。なぜ、こんなに緊張しているのだろう。

「お待たせしました」

柊が現れた。白いシャツに黒いパンツ、いつものシンプルな格好だけど、ベランダ越しではなく正面から見るのは初めてだった。琴葉は柊を見て、改めて彼が魅力的な男性だと感じた。

「いえ、私もちょうど来たところです」
「じゃあ、行きましょう」

二人は並んで歩き始めた。柊が案内したカフェは、マンションから徒歩十分ほどの場所にあった。小さな店だったが、木目調の内装と落ち着いた照明が心地よく、窓からは緑が見える。琴葉は店の雰囲気が気に入った。
二人はカウンター席に座った。隣り合わせの席で、柊との距離が近い。コーヒーを注文する。店内には他に客がおらず、静かだった。カウンターの向こうでマスターが豆を挽く音だけが響いている。

「ここ、いいお店ですね」

琴葉が言うと、柊は嬉しそうに頷いた。

「でしょ? 俺のお気に入りなんです。豆もここで買えるし」
「そうなんですね」

コーヒーが運ばれてきた。湯気が立ち上り、芳醇な香りが広がる。琴葉は一口飲んで、その味わいに驚いた。

「おいしい……」
「よかった」

柊は柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔を見て、琴葉も自然と笑顔になる。
二人はコーヒーを飲みながら、会話を楽しんだ。ベランダ越しやLIMEでは話せなかったことも、こうして直接会って話すと、より深く理解し合える気がした。
柊は自分の仕事のこと、昔の恋愛のこと、一人暮らしを始めた理由などを話してくれた。琴葉も、自分の過去や、夫との出会い、今の生活のことを話した。

「水瀬さん、昔はアパレルの販売員だったんですね」
「はい。結婚する前は、自分の店を持ちたいって思ってたんです」
「素敵な夢ですね。今は?」
「今は……もう、そんな夢は諦めました」

琴葉は少し寂しそうに笑った。柊は真剣な顔で琴葉を見つめる。

「諦める必要、ないと思いますよ」
「でも、もう遅いです」
「そんなことないです。水瀬さんなら、できますよ」

柊の言葉に、琴葉は思わず息を呑んだ。誰も、こんなふうに自分の夢を肯定してくれたことはなかった。夫は琴葉の夢を「非現実的だ」と一蹴した。でも、柊は違った。

「ありがとうございます……」

琴葉は涙が出そうになるのをこらえながら、柊に微笑んだ。柊も優しく微笑み返す。その瞬間、二人の視線が絡み合った。
カフェを出た後、二人はマンションまで一緒に歩いた。夕暮れ時の街並みは、オレンジ色に染まっていた。

「今日は、ありがとうございました」

琴葉が言うと、柊は首を横に振った。

「こちらこそ。楽しかったです」
「私も……」

二人はマンションの前で立ち止まった。エレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。静かなエレベーターの中、琴葉は柊の横顔をそっと見つめていた。柊もふと琴葉の方を向き、二人の視線が合う。柊が何か言いかけて、でもすぐに口を閉じた。
エレベーターが五階に到着し、ドアが開く。二人は廊下を歩き、それぞれの部屋の前で立ち止まった。

「じゃあ、また」

柊が言うと、琴葉は頷いた。

「はい、また」

柊は自分の部屋に入り、琴葉も自分の部屋に入った。ドアを閉めてから、琴葉は深く息をついた。心臓がまだ速く打っている。頬に手を当てると、熱を持っていた。
琴葉はリビングのソファに座り込み、目を閉じた。柊の笑顔、柊の言葉、柊との距離。すべてが頭の中で繰り返される。これは、ただの隣人との外出だったはずなのに。
必死に目を瞑り、一人きりの静かな部屋で湧き出てきそうになる感情に必死に蓋をしていた。
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