15 / 38
第3章
15話 働かない店主、堂々と主張する
しおりを挟む
働かない店主、堂々と主張する
午後の光が、店内の床にやわらかく伸びていた。
喫茶店「雪の庭」は、遅いながらも確かに営業中だった。
席はすべて埋まっているわけではないが、空席が出ればすぐに誰かが腰を下ろす。甘い香りと静かな話し声が、穏やかな空間を形作っていた。
忙しく動いているのは――忍と弥生の二人だけである。
「すみません、こちらのお皿お下げしますね」 「お水、足りますか?」
忍は店内を行き来し、弥生は厨房と客席を何度も往復していた。
プリンの追加を用意し、器具を洗い、次の提供に備える。
一方で。
カウンター席の中央に、まるで置物のように鎮座している人物がいた。
店主・雪乃である。
雪乃は、背筋を伸ばして椅子に座り、紅茶のカップを手にしていた。
視線は店内全体を穏やかに見渡し、時折、満足そうに小さく頷く。
――だが、動かない。
忍は、皿を抱えたまま一瞬立ち止まり、深く息を吸った。
「……お嬢様」
なるべく穏やかな声を選ぶ。
「お客様、増えてきています」
「ええ」
雪乃は当然のように答える。
「とてもいい流れね」
「……少しは、手伝っていただけませんか」
言葉を選んだつもりだったが、語尾には抑えきれない感情が滲んだ。
雪乃は、きょとんとした顔で忍を見る。
「どうして?」
忍は一瞬、言葉を失った。
「どうして、って……」
「だって、ちゃんと回ってるでしょう?」
雪乃は紅茶を一口含み、静かに続ける。
「忍も弥生も、とても優秀だもの」
それは事実だった。
だが、それとこれとは話が違う。
「お嬢様は……店主です」
「ええ」
「“店主”というのは、働く立場です」
「そうかしら?」
雪乃は、少し首を傾げる。
「私は、この店の“空気”を管理しているのよ」
「……空気?」
「ええ」
雪乃は、ゆっくりと店内を見渡した。
「皆、落ち着いているでしょう? 急かされていないし、騒がしくもない」
確かに、客たちは穏やかな表情で過ごしている。
「私がバタバタ動いたら、この雰囲気は壊れるわ」
忍は、反射的に言い返した。
「それは、ただ動きたくないだけでは……」
「違うわ」
即答だった。
「“働きすぎない”のも、仕事よ」
堂々と言い切られ、忍は思わず口を閉じた。
その様子を見て、弥生が厨房から声をかける。
「忍さん……お客様、追加のプリンです」
「……はい」
忍は返事をしながらも、内心ではぐらぐらしていた。
(理屈としては、納得できません……)
だが。
客の表情を見れば、完全に否定もできない。
「……不思議ですね」
忍は、弥生に小さく呟いた。
「お嬢様、何もしてないのに……」
「でも、皆さん楽しそうです」
弥生は苦笑しながら答える。
雪乃は、その会話を聞きながら、満足そうに頷いた。
「ほら。ちゃんと伝わってるわ」
忍は、額を押さえた。
(この人……本気で言ってる……)
それでも、店内は穏やかに回っている。
誰も怒らず、誰も急かされず、ただ甘味と茶を楽しんでいる。
雪乃は、紅茶を置き、静かに言った。
「喫茶店はね、“効率”より“居心地”よ」
その言葉に、忍は反論できなかった。
忙しさの中で忘れかけていた何かを、突きつけられた気がしたからだ。
店は、まだ開いている。
客も、まだいる。
そして――
この平穏が、どれほど続くのかは、誰にもわからない。
雪乃が、次に何を思いつくか次第なのだから。
-
午後の光が、店内の床にやわらかく伸びていた。
喫茶店「雪の庭」は、遅いながらも確かに営業中だった。
席はすべて埋まっているわけではないが、空席が出ればすぐに誰かが腰を下ろす。甘い香りと静かな話し声が、穏やかな空間を形作っていた。
忙しく動いているのは――忍と弥生の二人だけである。
「すみません、こちらのお皿お下げしますね」 「お水、足りますか?」
忍は店内を行き来し、弥生は厨房と客席を何度も往復していた。
プリンの追加を用意し、器具を洗い、次の提供に備える。
一方で。
カウンター席の中央に、まるで置物のように鎮座している人物がいた。
店主・雪乃である。
雪乃は、背筋を伸ばして椅子に座り、紅茶のカップを手にしていた。
視線は店内全体を穏やかに見渡し、時折、満足そうに小さく頷く。
――だが、動かない。
忍は、皿を抱えたまま一瞬立ち止まり、深く息を吸った。
「……お嬢様」
なるべく穏やかな声を選ぶ。
「お客様、増えてきています」
「ええ」
雪乃は当然のように答える。
「とてもいい流れね」
「……少しは、手伝っていただけませんか」
言葉を選んだつもりだったが、語尾には抑えきれない感情が滲んだ。
雪乃は、きょとんとした顔で忍を見る。
「どうして?」
忍は一瞬、言葉を失った。
「どうして、って……」
「だって、ちゃんと回ってるでしょう?」
雪乃は紅茶を一口含み、静かに続ける。
「忍も弥生も、とても優秀だもの」
それは事実だった。
だが、それとこれとは話が違う。
「お嬢様は……店主です」
「ええ」
「“店主”というのは、働く立場です」
「そうかしら?」
雪乃は、少し首を傾げる。
「私は、この店の“空気”を管理しているのよ」
「……空気?」
「ええ」
雪乃は、ゆっくりと店内を見渡した。
「皆、落ち着いているでしょう? 急かされていないし、騒がしくもない」
確かに、客たちは穏やかな表情で過ごしている。
「私がバタバタ動いたら、この雰囲気は壊れるわ」
忍は、反射的に言い返した。
「それは、ただ動きたくないだけでは……」
「違うわ」
即答だった。
「“働きすぎない”のも、仕事よ」
堂々と言い切られ、忍は思わず口を閉じた。
その様子を見て、弥生が厨房から声をかける。
「忍さん……お客様、追加のプリンです」
「……はい」
忍は返事をしながらも、内心ではぐらぐらしていた。
(理屈としては、納得できません……)
だが。
客の表情を見れば、完全に否定もできない。
「……不思議ですね」
忍は、弥生に小さく呟いた。
「お嬢様、何もしてないのに……」
「でも、皆さん楽しそうです」
弥生は苦笑しながら答える。
雪乃は、その会話を聞きながら、満足そうに頷いた。
「ほら。ちゃんと伝わってるわ」
忍は、額を押さえた。
(この人……本気で言ってる……)
それでも、店内は穏やかに回っている。
誰も怒らず、誰も急かされず、ただ甘味と茶を楽しんでいる。
雪乃は、紅茶を置き、静かに言った。
「喫茶店はね、“効率”より“居心地”よ」
その言葉に、忍は反論できなかった。
忙しさの中で忘れかけていた何かを、突きつけられた気がしたからだ。
店は、まだ開いている。
客も、まだいる。
そして――
この平穏が、どれほど続くのかは、誰にもわからない。
雪乃が、次に何を思いつくか次第なのだから。
-
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども
神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」
と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。
大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。
文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい
よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。
王子の答えはこうだった。
「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」
え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?!
思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。
ショックを受けたリリアーナは……。
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる