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第6章
29話 ご褒美スイーツ計画
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29話 ご褒美スイーツ計画
奇跡の無人営業は、なおも続いていた。
静寂という名の幸福に包まれながら、雪乃はカウンター席で三杯目の紅茶を飲み終え、深く息を吐いた。
「……最高ね」
その声には、一片の疲労も、不満もない。
あるのは、完全なる満足感だけだった。
弥生は厨房の入り口にもたれ、腕を組んで店内を見渡す。
「お嬢様。そろそろ……何か、することは?」
「あるわ」
雪乃は即答した。
「今から、“ご褒美スイーツ”を作るの」
忍が、嫌な予感しかしないという顔で口を開く。
「……ご褒美、とは?」
「私へのご褒美よ」
「……理由は?」
「昨日まで、王宮晩餐会に、貸切営業に、求婚騒動まであったでしょ?」
「ありましたね」
「私はよく頑張った」
雪乃は胸を張った。
「だから今日は、“私が”“私のために”“私が食べる”スイーツを作る日なの」
弥生は目を瞬かせた。
「……お嬢様が、自ら?」
「そうよ?」
「それは……珍しいですね」
「でしょ? だから“特別”なの」
忍が静かに補足する。
「なお、その“特別”が始まると、店主業務が完全に停止する可能性が高いです」
「細かいことは気にしないの!」
雪乃は立ち上がり、優雅な足取りで厨房へ向かった。
弥生は思わず後を追う。
「お嬢様、今日は仕込みも落ち着いていますし、私が作りましょうか?」
「だめ」
即答だった。
「これは“自分へのご褒美”なの。誰かに作らせるなんて、意味がないわ」
「……なるほど」
弥生は納得したように頷くが、内心では不安が募っていた。
(お嬢様の“自分で作る”は、だいたい途中から指示役になるのよね……)
雪乃は作業台の前に立ち、腕をまくる。
「さて……今日は何を作ろうかしら」
「もう決まっているような口調ですね」
忍の言葉に、雪乃はふふんと笑った。
「アップルパイよ」
「……意外と王道ですね」
「王道は、裏切らないの」
雪乃は籠から林檎を取り出し、手に取る。
「しかも今日は、“完全に私好み”にするわ。甘さ控えめ、香り強め、食感は……理想的に」
「理想が高すぎませんか」
「妥協しないから“ご褒美”なのよ」
林檎を剥きながら、雪乃は真剣な眼差しになる。
包丁の動きは、意外なほど手慣れていた。
「……お嬢様、料理はそこそこできますよね」
「当然よ。最低限、自分の食べるものくらいは自分で作れるわ」
弥生は思わず感心する。
雪乃は林檎を薄くスライスし、砂糖とシナモンを振りかける。
「この香り……もう勝ち確定ね」
「まだ焼いてませんよ」
「気分の話よ」
忍は腕を組んだまま、淡々と告げる。
「なお、お嬢様。“自分のためだけ”と言いましたが、量が明らかに三人分以上あります」
「気のせいよ」
「直径三十センチのパイ皿ですが」
「……余ったら、食べればいいのよ」
「誰が、とは聞きません」
雪乃は生地を広げ、林檎を丁寧に並べ始めた。
「見て。配置が大事なの。ここで雑にすると、焼きムラが出るわ」
「……配置、芸術的ですね」
「でしょう?」
雪乃は満足げに頷く。
「アップルパイはね、味だけじゃないの。“心”が入るのよ」
「心……」
「そう。これは“私が私を労わる心”で焼くの」
忍と弥生は、あえて突っ込まなかった。
オーブンにパイを入れ、扉を閉める。
しばらくすると、甘く温かな香りが厨房に広がり始めた。
「……これは……」
弥生が息を呑む。
「反則的な香りですね……」
「でしょう?」
雪乃は得意げに胸を張った。
「これが“ご褒美スイーツ”の力よ」
オーブンの前で、雪乃はじっと焼き上がりを見守る。
――見守る。
ただそれだけの時間なのに、彼女の表情はどこか真剣だった。
「……お嬢様?」
「今ね、大事なところなの」
「何がですか?」
「焼き上がりを迎える“覚悟”よ」
「覚悟……」
忍は遠い目をした。
やがて、オーブンから取り出されたアップルパイは、見事な黄金色に輝いていた。
「……完璧」
雪乃は小さく息を吐く。
「これは……天才の所業ね」
「自画自賛が過ぎます」
「事実よ」
切り分けられたアップルパイに、バニラアイスとキャラメルソースが添えられる。
フォークを入れ、一口。
「……っ」
雪乃の表情が、完全に崩れた。
「……幸せ……」
弥生と忍は、その様子を見て苦笑する。
「お嬢様、完全にオフですね」
「今日は……いい日……」
雪乃は頬を緩めたまま、呟いた。
「これがあるから、生きていけるのよ……」
――その幸福が、あと少しで破られることを、
彼女はまだ知らなかった。
扉のベルが鳴る、その“前”までは。
奇跡の無人営業は、なおも続いていた。
静寂という名の幸福に包まれながら、雪乃はカウンター席で三杯目の紅茶を飲み終え、深く息を吐いた。
「……最高ね」
その声には、一片の疲労も、不満もない。
あるのは、完全なる満足感だけだった。
弥生は厨房の入り口にもたれ、腕を組んで店内を見渡す。
「お嬢様。そろそろ……何か、することは?」
「あるわ」
雪乃は即答した。
「今から、“ご褒美スイーツ”を作るの」
忍が、嫌な予感しかしないという顔で口を開く。
「……ご褒美、とは?」
「私へのご褒美よ」
「……理由は?」
「昨日まで、王宮晩餐会に、貸切営業に、求婚騒動まであったでしょ?」
「ありましたね」
「私はよく頑張った」
雪乃は胸を張った。
「だから今日は、“私が”“私のために”“私が食べる”スイーツを作る日なの」
弥生は目を瞬かせた。
「……お嬢様が、自ら?」
「そうよ?」
「それは……珍しいですね」
「でしょ? だから“特別”なの」
忍が静かに補足する。
「なお、その“特別”が始まると、店主業務が完全に停止する可能性が高いです」
「細かいことは気にしないの!」
雪乃は立ち上がり、優雅な足取りで厨房へ向かった。
弥生は思わず後を追う。
「お嬢様、今日は仕込みも落ち着いていますし、私が作りましょうか?」
「だめ」
即答だった。
「これは“自分へのご褒美”なの。誰かに作らせるなんて、意味がないわ」
「……なるほど」
弥生は納得したように頷くが、内心では不安が募っていた。
(お嬢様の“自分で作る”は、だいたい途中から指示役になるのよね……)
雪乃は作業台の前に立ち、腕をまくる。
「さて……今日は何を作ろうかしら」
「もう決まっているような口調ですね」
忍の言葉に、雪乃はふふんと笑った。
「アップルパイよ」
「……意外と王道ですね」
「王道は、裏切らないの」
雪乃は籠から林檎を取り出し、手に取る。
「しかも今日は、“完全に私好み”にするわ。甘さ控えめ、香り強め、食感は……理想的に」
「理想が高すぎませんか」
「妥協しないから“ご褒美”なのよ」
林檎を剥きながら、雪乃は真剣な眼差しになる。
包丁の動きは、意外なほど手慣れていた。
「……お嬢様、料理はそこそこできますよね」
「当然よ。最低限、自分の食べるものくらいは自分で作れるわ」
弥生は思わず感心する。
雪乃は林檎を薄くスライスし、砂糖とシナモンを振りかける。
「この香り……もう勝ち確定ね」
「まだ焼いてませんよ」
「気分の話よ」
忍は腕を組んだまま、淡々と告げる。
「なお、お嬢様。“自分のためだけ”と言いましたが、量が明らかに三人分以上あります」
「気のせいよ」
「直径三十センチのパイ皿ですが」
「……余ったら、食べればいいのよ」
「誰が、とは聞きません」
雪乃は生地を広げ、林檎を丁寧に並べ始めた。
「見て。配置が大事なの。ここで雑にすると、焼きムラが出るわ」
「……配置、芸術的ですね」
「でしょう?」
雪乃は満足げに頷く。
「アップルパイはね、味だけじゃないの。“心”が入るのよ」
「心……」
「そう。これは“私が私を労わる心”で焼くの」
忍と弥生は、あえて突っ込まなかった。
オーブンにパイを入れ、扉を閉める。
しばらくすると、甘く温かな香りが厨房に広がり始めた。
「……これは……」
弥生が息を呑む。
「反則的な香りですね……」
「でしょう?」
雪乃は得意げに胸を張った。
「これが“ご褒美スイーツ”の力よ」
オーブンの前で、雪乃はじっと焼き上がりを見守る。
――見守る。
ただそれだけの時間なのに、彼女の表情はどこか真剣だった。
「……お嬢様?」
「今ね、大事なところなの」
「何がですか?」
「焼き上がりを迎える“覚悟”よ」
「覚悟……」
忍は遠い目をした。
やがて、オーブンから取り出されたアップルパイは、見事な黄金色に輝いていた。
「……完璧」
雪乃は小さく息を吐く。
「これは……天才の所業ね」
「自画自賛が過ぎます」
「事実よ」
切り分けられたアップルパイに、バニラアイスとキャラメルソースが添えられる。
フォークを入れ、一口。
「……っ」
雪乃の表情が、完全に崩れた。
「……幸せ……」
弥生と忍は、その様子を見て苦笑する。
「お嬢様、完全にオフですね」
「今日は……いい日……」
雪乃は頬を緩めたまま、呟いた。
「これがあるから、生きていけるのよ……」
――その幸福が、あと少しで破られることを、
彼女はまだ知らなかった。
扉のベルが鳴る、その“前”までは。
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