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第6章
28話奇跡の無人営業
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28話奇跡の無人営業
開店から一時間。
――本当に、誰も来なかった。
喫茶店「雪の庭」の扉は静まり返り、ベルが鳴る気配すらない。
通りを行き交う人影もまばらで、馬車の音も遠く、まるで世界から切り離されたかのような静寂が店内を満たしていた。
雪乃は、その現実を何度も確かめるように、ゆっくりと店内を見回した。
「……」
椅子はすべて整然と並び、テーブルの上には埃ひとつない。
窓辺に置かれた小さな花瓶の花も、朝の光を受けて静かに佇んでいる。
「……誰も、来ない……?」
信じられない、というように呟いた声は、店内に吸い込まれて消えた。
忍が壁際で腕を組んだまま、淡々と報告する。
「現時点で来客ゼロ。異常ありません」
「異常よ!!」
雪乃は即座に反応した。
「こんなこと、今まであった!?」
「……記憶にありません」
「でしょう!?」
雪乃はカウンター席にゆっくり腰を下ろし、紅茶を手に取る。その動きは慎重で、まるでこの静けさを壊してしまうのを恐れているかのようだった。
「これは……奇跡……?」
弥生が厨房から顔を出し、半ば疑わしそうに店内を見渡す。
「お嬢様。さすがにまだ午前中ですし、これから――」
「しっ!」
雪乃は人差し指を口元に当てた。
「“これから”なんて言葉、今日は使っちゃだめよ」
「え?」
「静寂はね、繊細なの。余計なフラグを立てたら逃げてしまうの」
弥生は思わず苦笑した。
「……フラグって」
だが、雪乃は本気だった。
彼女はカップを両手で包み込み、目を閉じる。
「聞いて。今、店内にある音……紅茶の湯気の立つ音、私の呼吸、時計の秒針。それだけよ」
「秒針は聞こえませんが」
「気分よ、気分!」
雪乃は満足そうに頷いた。
「これが理想の喫茶店なのよ。静かで、誰もいなくて、私が紅茶を飲んでいる」
「営業の定義が壊れていませんか」
忍の冷静な指摘にも、雪乃は動じない。
「いいの。今日は“営業しているという事実”が大事なの」
「客がいないのに?」
「客がいないからいいのよ」
その堂々たる言い切りに、弥生と忍は言葉を失った。
しかし――。
奇妙なことに、雪乃の言葉通りだった。
二時間目に入っても、扉は一度も開かれない。
ベルは沈黙を守り続け、雪乃の紅茶は二杯目、三杯目へと進んでいく。
「……すごい」
弥生が小声で呟いた。
「本当に、誰も来ませんね……」
「でしょう?」
雪乃は勝ち誇ったように微笑む。
「これはね、私が昨日まで頑張ったご褒美なのよ。世界が気を利かせてくれたの」
「世界が、ですか」
「そう。たぶんね」
忍は視線を外に向ける。
通りの先で、確かに人は歩いている。
だが、不思議なことに、誰一人として「雪の庭」に視線を向けない。
「……確かに、店の前は通っているのに、誰も入ろうとしません」
「ほら!」
雪乃は嬉しそうに手を叩いた。
「私、今とても運がいいわ!」
「その運、営業的には最悪では……」
「細かいことを気にするから疲れるのよ、弥生」
雪乃は紅茶を飲み干し、背もたれに体を預ける。
「今日はね、“店主が何もしない日”なの」
「堂々と言い切らないでください」
忍のツッコミにも、雪乃は微動だにしない。
「何もしない、というのも立派な仕事よ。雰囲気を保つ、というね」
「……それ、毎日言ってますよね」
「今日は特別に説得力があるでしょ?」
確かに、反論しづらいほどの静けさだった。
弥生は厨房に戻り、仕込みの様子を確認するが、やることがない。
忍も掃除を終えてしまい、手持ち無沙汰になる。
「……暇ですね」
忍がぽつりと言う。
「でしょ?」
雪乃は満足そうに頷いた。
「これが“奇跡の無人営業”よ。伝説になるわ」
「ならなくていいです」
三人はそれぞれの持ち場にいながら、ゆっくりと時間を過ごす。
雪乃は紅茶を飲み、
弥生は次のスイーツの構想をぼんやり考え、
忍は外の様子を警戒しつつ、特に何も起きないことを確認し続ける。
――何も起きない。
それが、こんなにも心地いい。
雪乃は、ふと目を細めて呟いた。
「……ねえ」
「なんですか、お嬢様」
「毎日、こうならいいのにね」
忍は即答した。
「それは無理です」
「どうして!?」
「お嬢様が“こうならいい”と思った時点で、必ず何か起きますから」
「ひどい予言ね……」
雪乃は苦笑しつつも、どこか納得してしまった。
だが、それでも。
今、この瞬間だけは――。
誰も来ない。
呼ばれない。
働かされない。
紅茶と静寂に祝福された、奇跡のような時間。
雪乃はカップを胸元に引き寄せ、そっと囁いた。
「……もう少しだけ、続いて」
その願いは、皮肉にも――
あと少しだけ、叶えられることになる。
だが、その代償が“アップルパイ”であることを、彼女はまだ知らなかった。
開店から一時間。
――本当に、誰も来なかった。
喫茶店「雪の庭」の扉は静まり返り、ベルが鳴る気配すらない。
通りを行き交う人影もまばらで、馬車の音も遠く、まるで世界から切り離されたかのような静寂が店内を満たしていた。
雪乃は、その現実を何度も確かめるように、ゆっくりと店内を見回した。
「……」
椅子はすべて整然と並び、テーブルの上には埃ひとつない。
窓辺に置かれた小さな花瓶の花も、朝の光を受けて静かに佇んでいる。
「……誰も、来ない……?」
信じられない、というように呟いた声は、店内に吸い込まれて消えた。
忍が壁際で腕を組んだまま、淡々と報告する。
「現時点で来客ゼロ。異常ありません」
「異常よ!!」
雪乃は即座に反応した。
「こんなこと、今まであった!?」
「……記憶にありません」
「でしょう!?」
雪乃はカウンター席にゆっくり腰を下ろし、紅茶を手に取る。その動きは慎重で、まるでこの静けさを壊してしまうのを恐れているかのようだった。
「これは……奇跡……?」
弥生が厨房から顔を出し、半ば疑わしそうに店内を見渡す。
「お嬢様。さすがにまだ午前中ですし、これから――」
「しっ!」
雪乃は人差し指を口元に当てた。
「“これから”なんて言葉、今日は使っちゃだめよ」
「え?」
「静寂はね、繊細なの。余計なフラグを立てたら逃げてしまうの」
弥生は思わず苦笑した。
「……フラグって」
だが、雪乃は本気だった。
彼女はカップを両手で包み込み、目を閉じる。
「聞いて。今、店内にある音……紅茶の湯気の立つ音、私の呼吸、時計の秒針。それだけよ」
「秒針は聞こえませんが」
「気分よ、気分!」
雪乃は満足そうに頷いた。
「これが理想の喫茶店なのよ。静かで、誰もいなくて、私が紅茶を飲んでいる」
「営業の定義が壊れていませんか」
忍の冷静な指摘にも、雪乃は動じない。
「いいの。今日は“営業しているという事実”が大事なの」
「客がいないのに?」
「客がいないからいいのよ」
その堂々たる言い切りに、弥生と忍は言葉を失った。
しかし――。
奇妙なことに、雪乃の言葉通りだった。
二時間目に入っても、扉は一度も開かれない。
ベルは沈黙を守り続け、雪乃の紅茶は二杯目、三杯目へと進んでいく。
「……すごい」
弥生が小声で呟いた。
「本当に、誰も来ませんね……」
「でしょう?」
雪乃は勝ち誇ったように微笑む。
「これはね、私が昨日まで頑張ったご褒美なのよ。世界が気を利かせてくれたの」
「世界が、ですか」
「そう。たぶんね」
忍は視線を外に向ける。
通りの先で、確かに人は歩いている。
だが、不思議なことに、誰一人として「雪の庭」に視線を向けない。
「……確かに、店の前は通っているのに、誰も入ろうとしません」
「ほら!」
雪乃は嬉しそうに手を叩いた。
「私、今とても運がいいわ!」
「その運、営業的には最悪では……」
「細かいことを気にするから疲れるのよ、弥生」
雪乃は紅茶を飲み干し、背もたれに体を預ける。
「今日はね、“店主が何もしない日”なの」
「堂々と言い切らないでください」
忍のツッコミにも、雪乃は微動だにしない。
「何もしない、というのも立派な仕事よ。雰囲気を保つ、というね」
「……それ、毎日言ってますよね」
「今日は特別に説得力があるでしょ?」
確かに、反論しづらいほどの静けさだった。
弥生は厨房に戻り、仕込みの様子を確認するが、やることがない。
忍も掃除を終えてしまい、手持ち無沙汰になる。
「……暇ですね」
忍がぽつりと言う。
「でしょ?」
雪乃は満足そうに頷いた。
「これが“奇跡の無人営業”よ。伝説になるわ」
「ならなくていいです」
三人はそれぞれの持ち場にいながら、ゆっくりと時間を過ごす。
雪乃は紅茶を飲み、
弥生は次のスイーツの構想をぼんやり考え、
忍は外の様子を警戒しつつ、特に何も起きないことを確認し続ける。
――何も起きない。
それが、こんなにも心地いい。
雪乃は、ふと目を細めて呟いた。
「……ねえ」
「なんですか、お嬢様」
「毎日、こうならいいのにね」
忍は即答した。
「それは無理です」
「どうして!?」
「お嬢様が“こうならいい”と思った時点で、必ず何か起きますから」
「ひどい予言ね……」
雪乃は苦笑しつつも、どこか納得してしまった。
だが、それでも。
今、この瞬間だけは――。
誰も来ない。
呼ばれない。
働かされない。
紅茶と静寂に祝福された、奇跡のような時間。
雪乃はカップを胸元に引き寄せ、そっと囁いた。
「……もう少しだけ、続いて」
その願いは、皮肉にも――
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