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第6章
27話 疲労の朝と「静かに過ごしたい」店主
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6-1 疲労の朝と「静かに過ごしたい」店主
朝の柔らかな光が、喫茶店「雪の庭」の窓から差し込んでいた。
白いカーテンを通した光はやさしく、店内の木製カウンターや棚に並ぶティーカップを淡く照らしている。外の通りはまだ静かで、馬車の音も人の話し声もほとんど聞こえない。
その静けさの中で、雪乃はゆっくりと紅茶を注いでいた。
「……はぁ……」
思わず漏れた溜息は、紅茶の湯気に溶けるように消えていく。
王宮晩餐会。
貴族の貸切営業。
ここ数日の出来事を思い返すだけで、肩の奥がずしりと重くなる。
(……私、よく倒れなかったわね)
雪乃は心の中で自分を褒めながら、カウンター奥の特等席に腰を下ろした。ここは彼女のお気に入りの場所で、客席全体を見渡せる上に、外の様子もほどよく目に入る。何より、紅茶を飲みながらぼんやりするのに最適だった。
――本当なら、今日は休みにしてもよかった。
いや、むしろ休むべきだったのだ。
それでも彼女は、いつも通り鍵を開け、看板を出し、店を開けてしまった。
「……今日は、静かに過ごしたいわ」
ぽつりと漏らした本音は、誰に向けたものでもない独り言だった。
「できれば……本当に、誰も来ないでほしい……」
その言葉を聞き逃さなかったのは、厨房から顔を出した弥生だった。
「お嬢様」
半眼になったまま、呆れたような声が飛ぶ。
「それなら、最初から店を休みにすればよかったのでは?」
正論だった。あまりにも正論すぎた。
雪乃は一瞬だけ視線を泳がせ、それから胸を張る。
「それとこれとは別よ」
「どこが別なんですか」
「私は店長なの。店を開ける責任があるのよ」
きっぱりと言い切るその姿は、どこか誇らしげですらあった。
弥生は思わず、額に手を当てる。
「責任感があるのは立派ですけど……その責任の上で“誰も来ないでいい”と願うのは矛盾していませんか?」
「してないわ」
雪乃は即答した。
「店は開ける。でも、静かであってほしい。それだけよ」
「それだけ、が通るなら苦労しません……」
弥生の小さな呟きを、雪乃は都合よく聞かなかったことにする。
そのやり取りを、忍は少し離れた場所から静かに見ていた。
彼女はすでに掃除を始めており、テーブルの脚や床の隅まで丁寧に整えている。無駄のない動き、感情を感じさせない表情――いつも通りだ。
「……」
忍は何も言わなかったが、心の中では確実に一言浮かべていた。
(営業する意味とは……)
しかし、それを口に出すほど、彼女も野暮ではない。
雪乃は紅茶を一口含み、ほうっと息をついた。
「静かな朝って、それだけで贅沢なのよ」
カップを両手で包み込み、目を細める。
「紅茶の香りがちゃんと分かって、音がなくて、誰にも呼ばれなくて……最高だわ」
「お嬢様」
弥生が少し声の調子を変える。
「その理想、“営業中”である必要はありますか?」
「あるわ」
雪乃は即座に答えた。
「だって、営業してるのに誰も来ない、っていう状況が一番平和じゃない?」
「その発想がもう……」
弥生は言葉を失った。
忍は静かに窓の外へ視線を向ける。
朝の通りは相変わらず静かで、誰かがこちらへ向かってくる気配もない。
「……お嬢様」
忍が、控えめに声を出す。
「現時点では、来客の兆しはありません」
その報告に、雪乃の表情が一気に明るくなった。
「本当!?」
「はい。少なくとも、今は」
雪乃は小さくガッツポーズを作った。
「素晴らしいわ……今日は、いける気がする……!」
「何が、ですか?」
「“何も起きない一日”よ」
堂々と宣言する雪乃に、弥生と忍は同時に思った。
(……それが一番起きないやつだ)
だが、そんな二人の内心など知らぬ顔で、雪乃は再び紅茶を啜る。
「昨日まで、あんなに頑張ったんだもの」
ぽつりと、珍しく弱音の混じった声。
「今日は、静かでいいのよ。何もなくていい。誰も来なくていい」
その言葉には、冗談ではない本気が込められていた。
弥生はそれを聞いて、少しだけ表情を緩める。
「……お嬢様も、お疲れなんですね」
「当たり前じゃない」
雪乃は肩をすくめた。
「人前に出て、笑って、働いて……私は基本、昼下がりに紅茶を飲む生き物なのよ」
「店長として、それはどうかと思いますけど」
「でも、事実だもの」
くすっと笑いながら、雪乃はカップを置いた。
「だから今日は、静かに過ごすの。奇跡的に誰も来なかったら……それはもう、ご褒美よ」
その時点で、彼女はまだ知らなかった。
この“奇跡的な静けさ”が、本当に訪れることを。
そしてそれが、別の意味での騒動の前触れになることを。
だが、今はただ――
朝の光と紅茶の香りに包まれた、穏やかな時間が流れていた。
雪乃の願いが、ひとときだけ叶っていることを、誰もまだ疑っていなかった。
朝の柔らかな光が、喫茶店「雪の庭」の窓から差し込んでいた。
白いカーテンを通した光はやさしく、店内の木製カウンターや棚に並ぶティーカップを淡く照らしている。外の通りはまだ静かで、馬車の音も人の話し声もほとんど聞こえない。
その静けさの中で、雪乃はゆっくりと紅茶を注いでいた。
「……はぁ……」
思わず漏れた溜息は、紅茶の湯気に溶けるように消えていく。
王宮晩餐会。
貴族の貸切営業。
ここ数日の出来事を思い返すだけで、肩の奥がずしりと重くなる。
(……私、よく倒れなかったわね)
雪乃は心の中で自分を褒めながら、カウンター奥の特等席に腰を下ろした。ここは彼女のお気に入りの場所で、客席全体を見渡せる上に、外の様子もほどよく目に入る。何より、紅茶を飲みながらぼんやりするのに最適だった。
――本当なら、今日は休みにしてもよかった。
いや、むしろ休むべきだったのだ。
それでも彼女は、いつも通り鍵を開け、看板を出し、店を開けてしまった。
「……今日は、静かに過ごしたいわ」
ぽつりと漏らした本音は、誰に向けたものでもない独り言だった。
「できれば……本当に、誰も来ないでほしい……」
その言葉を聞き逃さなかったのは、厨房から顔を出した弥生だった。
「お嬢様」
半眼になったまま、呆れたような声が飛ぶ。
「それなら、最初から店を休みにすればよかったのでは?」
正論だった。あまりにも正論すぎた。
雪乃は一瞬だけ視線を泳がせ、それから胸を張る。
「それとこれとは別よ」
「どこが別なんですか」
「私は店長なの。店を開ける責任があるのよ」
きっぱりと言い切るその姿は、どこか誇らしげですらあった。
弥生は思わず、額に手を当てる。
「責任感があるのは立派ですけど……その責任の上で“誰も来ないでいい”と願うのは矛盾していませんか?」
「してないわ」
雪乃は即答した。
「店は開ける。でも、静かであってほしい。それだけよ」
「それだけ、が通るなら苦労しません……」
弥生の小さな呟きを、雪乃は都合よく聞かなかったことにする。
そのやり取りを、忍は少し離れた場所から静かに見ていた。
彼女はすでに掃除を始めており、テーブルの脚や床の隅まで丁寧に整えている。無駄のない動き、感情を感じさせない表情――いつも通りだ。
「……」
忍は何も言わなかったが、心の中では確実に一言浮かべていた。
(営業する意味とは……)
しかし、それを口に出すほど、彼女も野暮ではない。
雪乃は紅茶を一口含み、ほうっと息をついた。
「静かな朝って、それだけで贅沢なのよ」
カップを両手で包み込み、目を細める。
「紅茶の香りがちゃんと分かって、音がなくて、誰にも呼ばれなくて……最高だわ」
「お嬢様」
弥生が少し声の調子を変える。
「その理想、“営業中”である必要はありますか?」
「あるわ」
雪乃は即座に答えた。
「だって、営業してるのに誰も来ない、っていう状況が一番平和じゃない?」
「その発想がもう……」
弥生は言葉を失った。
忍は静かに窓の外へ視線を向ける。
朝の通りは相変わらず静かで、誰かがこちらへ向かってくる気配もない。
「……お嬢様」
忍が、控えめに声を出す。
「現時点では、来客の兆しはありません」
その報告に、雪乃の表情が一気に明るくなった。
「本当!?」
「はい。少なくとも、今は」
雪乃は小さくガッツポーズを作った。
「素晴らしいわ……今日は、いける気がする……!」
「何が、ですか?」
「“何も起きない一日”よ」
堂々と宣言する雪乃に、弥生と忍は同時に思った。
(……それが一番起きないやつだ)
だが、そんな二人の内心など知らぬ顔で、雪乃は再び紅茶を啜る。
「昨日まで、あんなに頑張ったんだもの」
ぽつりと、珍しく弱音の混じった声。
「今日は、静かでいいのよ。何もなくていい。誰も来なくていい」
その言葉には、冗談ではない本気が込められていた。
弥生はそれを聞いて、少しだけ表情を緩める。
「……お嬢様も、お疲れなんですね」
「当たり前じゃない」
雪乃は肩をすくめた。
「人前に出て、笑って、働いて……私は基本、昼下がりに紅茶を飲む生き物なのよ」
「店長として、それはどうかと思いますけど」
「でも、事実だもの」
くすっと笑いながら、雪乃はカップを置いた。
「だから今日は、静かに過ごすの。奇跡的に誰も来なかったら……それはもう、ご褒美よ」
その時点で、彼女はまだ知らなかった。
この“奇跡的な静けさ”が、本当に訪れることを。
そしてそれが、別の意味での騒動の前触れになることを。
だが、今はただ――
朝の光と紅茶の香りに包まれた、穏やかな時間が流れていた。
雪乃の願いが、ひとときだけ叶っていることを、誰もまだ疑っていなかった。
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