『有能すぎる王太子秘書官、馬鹿がいいと言われ婚約破棄されましたが、国を賢者にして去ります』

しおしお

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第8話 去る秘書官

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第8話 去る秘書官

 アヴェンタドール・ローウェンは、私室で静かに荷造りをしていた。

 大きなトランクは使わない。
 必要最低限の衣類と、書き慣れた筆記具、数冊の記録帳だけ。

(……案外、少ないものですね)

 王宮で過ごした年月を思えば、驚くほど身軽だった。

 ノックの音がする。

「どうぞ」

 扉の向こうに立っていたのは、事務官の一人だった。
 かつて、彼女と幾度も書類をやり取りした人物。

「……本当に、お辞めになるのですか」

「ええ」

 アヴェンタドールは、穏やかに頷く。

「王太子殿下付き秘書官という役目は、終わりましたから」

 事務官は、唇を噛んだ。

「殿下は……何もおっしゃっていません」

「でしょうね」

 それ以上、言うことはない。

 アヴェンタドールは、トランクを閉じた。

 その日の午後。
 彼女は、王宮の書類室に立ち寄った。

 最後に確認するのは、自分が関わった案件の進捗。

(ここは……もう、手を入れなくていい)

 ペンを取ることはしなかった。

 ――それが、最後の“修正しない”という選択だった。

 廊下を歩くと、周囲の視線を感じる。

「……本当に、出ていくの?」 「もったいない……」 「殿下は、分かっているのかしら」

 小声の囁きが、背中に刺さる。

 だが、アヴェンタドールは振り返らない。

(分かっていなくても、構いません)

 分かってもらうために、働いてきたわけではない。

 王宮の門が見えてきた、その時。

「――待て」

 聞き覚えのある声が、背後から響いた。

 振り返ると、エリシオンが立っていた。

 整った衣装。
 だが、その表情は、どこか落ち着きがない。

「……本当に、出ていくつもりか」

「はい」

 即答だった。

「婚約も、役目も、終わりましたので」

「……」

 エリシオンは、言葉を探すように視線を彷徨わせる。

「別に……その……」

 何か言いたげだが、形にならない。

「書類の件は……」

「殿下の政策は、今後も殿下ご自身でお進めください」

 丁寧だが、距離のある言葉。

 エリシオンは、なぜか胸がざわついた。

(……おかしい)

 自分が望んだ結果のはずだ。

 賢い女がいなくなり、
 可愛げのある妃を迎える準備が整った。

 なのに。

(なぜ、こんなに……)

「……後悔しても、遅いですわよ」

 アヴェンタドールは、ふと、そう言った。

 責める口調ではない。
 忠告ですらない。

 ただの事実の確認。

「な、何を――」

「いいえ」

 彼女は、首を振った。

「何も」

 一礼し、背を向ける。

 エリシオンは、その背中を見送ることしかできなかった。

 王宮の門をくぐった瞬間、
 アヴェンタドールは、小さく息を吸った。

(……これで、完全に終わり)

 振り返らない。
 未練もない。

 その頃――。

「殿下、この数値ですが……」

 官僚が持ってきた書類を、エリシオンは受け取った。

 目を通し、眉をひそめる。

「……何だ、これは」

「殿下の原案通りですが」

 紙面の数字が、噛み合っていない。

(……前なら)

 一瞬、思い浮かぶ影。

 だが、もういない。

「……修正しろ」

「どのように?」

 その問いに、エリシオンは答えられなかった。

 王宮は、何も変わっていない。
 だが――

 確実に、何かが抜け落ちていた。


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