婚約破棄は致しません。ただ、あなたを主語から外しただけです』

しおしお

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第二話 市場は嘘をつきませんわ

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第二話 市場は嘘をつきませんわ

 翌朝の王都は、何事もなかったかのように晴れていた。

 だが空気は違う。

 石畳の上を行き交う商人たちの声はどこか低く、王宮へと続く大通りでは、普段よりも馬車の数が多い。急ぎ足で運ばれる書簡、閉じられた扉の向こうで交わされる会話。

 市場は、昨日の舞踏会を忘れていない。

 グラシアス公爵邸の執務室で、レティシアはすでに朝の報告を受けていた。

「王立銀行株、開場直後に三%下落。港湾建設債は売りが優勢です」

 淡々と読み上げるのは、執事長エルネスト。

「王宮側からの連絡は?」

「ございません。……いえ、正確には、何も言えない状態かと」

 レティシアは紅茶を口に運ぶ。

 表情は静かだ。昨夜と変わらない。

「当然ですわね。公式記録に残りましたもの」

 婚約破棄の宣言は、王宮書記官によってその場で文書化された。
 王太子の発言は、国家の意思として扱われる。

 そして同時に、レティシアの“契約終了”宣言も。

「市場はどう動くと思いますか、エルネスト」

「殿下の判断力に疑義が生じた、と解釈するでしょう」

「ええ」

 彼女は頷いた。

「市場は感情では動きません。信用で動きますの」

 王家の信用は、グラシアス家の金融支援によって裏打ちされていた。
 それが消えた。

 融資回収はまだ始まっていない。だが「始まる」と公言したこと自体が影響する。

 商会は考える。

 王家は、資金繰りに余裕があるのか。
 港湾整備は予定通り進むのか。
 軍備拡張は継続可能か。

 疑念は数字を冷やす。

「王太子殿下は、これを恋愛問題だと思っておられるでしょう」

「……はい」

「ですが、私は違います」

 レティシアは机上の帳簿を閉じた。

「国家の契約は、恋愛より重いのです」

 その頃、王宮では空気が張り詰めていた。

「なぜだ!」

 セドリックの声が執務室に響く。

「融資の即時回収など聞いていない!」

「殿下、契約条項第七項に……」

「私は王太子だぞ!」

 財務官は額に汗を浮かべながらも言葉を選ぶ。

「殿下のご発言が公式決定として記録されました以上、グラシアス家は法的に動けます」

「ただの女だ!」

「王国最大の出資者でもございます」

 沈黙。

 窓の外では鐘が鳴る。午前十時。

「港湾債が売られております。これ以上信用が揺らげば、利率が跳ね上がります」

「……王家が債務不履行に陥るとでも?」

「可能性は否定できません」

 その言葉に、セドリックは初めて顔を強張らせた。

 王宮は、思っている以上に金を使う。
 軍、儀礼、外交、建設。
 そして王太子自身の政策構想。

 理想には資金が必要だ。

「彼女が戻れば済む話だ」

 ぽつりと呟く。

「謝罪なさいますか?」

「……いや」

 セドリックは顔を背けた。

「私は間違っていない」

 その頃、王都最大の商会連合では緊急会合が開かれていた。

「王家の後ろ盾が揺らいだ」

「グラシアス家は?」

「まだ回収には動いていない」

「だが宣言した」

 机を叩く音。

「信用は落ちる」

 最終的な結論は単純だった。

 “様子を見る”。

 だが様子見とは、投資を止めるということ。

 午後、港湾建設の資材搬入が遅れた。
 翌日、穀物輸送の契約更新が保留となった。
 三日後、王立銀行の株はさらに下落した。

 レティシアはそれらの報告を、ただ受け取る。

「……殿下からの書簡です」

 差し出された封筒には、王太子の紋章。

 彼女は開封し、目を通す。

『昨日の発言は、国家のためだ。個人的感情ではない。君も理解するべきだ』

 短い文面。

 レティシアは静かに紙を折りたたんだ。

「理解しておりますわ」

「ご返信は」

「不要です」

 そして付け加える。

「私は殿下を責めておりません。殿下は正しいと信じて選択なさいました」

 エルネストは目を伏せる。

「ですが」

 レティシアは立ち上がり、窓辺に向かった。

「市場もまた、正しいと信じる方向へ動きますの」

 窓の外、王都の屋根が連なる。

「信用を切ったのは、私ではありませんわ」

 視線は遠い。

「殿下ご自身です」

 その夜、王都に小さな噂が流れ始める。

 王家は資金難に陥るのではないか。
 新しい融資先を探しているらしい。
 隣国が動くかもしれない。

 噂は形を持たない。

 だが信用を削るには十分だった。

 王宮の燭台が、いつもより少なく灯される。

 財務官は眠れぬ夜を過ごす。

 そしてセドリックは、まだ理解していない。

 これは報復ではない。

 計算でもない。

 ただ、契約が終わっただけ。

 だが国家において――
 契約の終わりは、秩序の始まりでもある。

 レティシアは帳簿を閉じ、静かに呟いた。

「市場は嘘をつきませんわ」

 それは宣戦布告ではない。

 事実の確認だった。

 そして、王国の均衡はゆっくりと傾き始めていた。
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