私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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7 遠い国の迎え

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7 遠い国の迎え

 フェリクス・アルディシア公爵がランベール侯爵家を訪れたのは、それから五日後のことだった。

 その日の朝、屋敷の空気は目に見えて張りつめていた。普段は落ち着いている執事たちまで動きに無駄がなく、侍女たちも緊張した面持ちで廊下を行き来している。相手がただの高位貴族ではなく、他国の公爵当主ともなれば当然だった。

 それも今回は、単なる親善訪問ではない。

 婚約相手の差し替えという、どう取り繕っても美しいとは言えない事情を抱えたまま、それでもなお縁を結ぶべきかを見定めるための訪問だ。

 侯爵家にとっては、失礼のないように迎えなければならない相手であり、同時に、これ以上醜態を晒したくない相手でもある。

 フィオレッタは自室の鏡の前で立っていた。

 今日の装いは華やかすぎず、しかし地味にも見えぬよう選ばれた深い青の昼用ドレス。胸元にも裾にも過剰な飾りはなく、上質な布と仕立ての良さだけで品格を出すかたちだ。髪も必要以上に盛らず、きちんとまとめてある。

 エマが最後の乱れを整えながら、そっと言った。

「お嬢様、本当にお美しゅうございます」

「ありがとう」

 フィオレッタは鏡の中の自分を見た。

 この数日で、自分の顔つきが少し変わったように思う。やつれたわけではない。むしろ、余計な期待が削ぎ落ちたぶんだけ、どこか静かに引き締まった気がする。

 ギルベルトとのことは終わった。

 義妹に奪われた婚約も、家に差し出された将来も、もう元には戻らない。

 それならせめて、この先に来るものを正面から見るしかない。

「お嬢様」

 エマが少しためらってから続ける。

「怖くは……ございませんか」

 フィオレッタは、小さく息を吐いた。

「怖いわよ」

 率直に答えると、エマは一瞬だけ目を見開いた。

「怖くないはずがないもの。知らない国の公爵様と会うのよ。しかも、本来の婚約相手ではなかった私が」

 だが、とフィオレッタは鏡から目を離した。

「だからといって、怯えた顔を見せる気はないわ」

 エマは強くうなずく。

「はい」

 ほどなくして、正門前にアルディシア公国の紋章を掲げた馬車が到着したとの知らせが入った。

 屋敷全体が、さらにひとつ息を詰める。

 フィオレッタは父、義母、カトリーヌとともに大応接間へ向かった。歩くあいだ、誰も余計なことは口にしない。義母だけが「どうか穏便にまとまりますように」と小さく呟いたが、その言葉の中に本当に願われているのが誰のための穏便さかは、もはや考えるまでもなかった。

 大応接間の扉が開く。

 すでに中には、アルディシア公国側の随員が数名控えていた。衣装の仕立てはこの国の様式に似ているようでいて、細部の意匠が異なる。金糸銀糸を見せびらかすのではなく、むしろ端正な線と色の調和で格を示すような装いだった。

 そして中央には、フェリクス・アルディシア公爵が立っていた。

 あの夜会で一度見ているはずなのに、あらためて正面から向き合うと、やはり目を引く人だった。

 淡い金髪は端正に整えられ、薄い色の瞳は静かで、感情をむやみに表へ出さない。だが冷たいのではない。むしろ、表に出しすぎないぶんだけ、内側に強い理性があるように見える。

 長身で、立ち姿に無駄がない。

 周囲に傅かせる威圧ではなく、自然に場の重心になってしまうような存在感。

 フィオレッタはその姿を見た瞬間、胸の奥で小さく思った。

 カトリーヌは、この人を拒んだのね。

 怖いから、遠いからという理由で。

 そしてその代わりに、ギルベルトを選んだ。

 なんて皮肉だろう。

 父が前に出て、侯爵家当主としての挨拶を述べる。フェリクスもまた、礼儀に欠けぬ簡潔な言葉で応じた。どちらも無駄にへりくだらず、かといって居丈高でもない。そうしたやり取りだけで、相手が軽い人間ではないことがわかる。

 父が順に家族を紹介する。

「長女、フィオレッタ・ランベールです」

 名を呼ばれ、フィオレッタは一歩前へ出て一礼した。

「初めてお目にかかります、フェリクス・アルディシア公爵閣下」

 フェリクスはフィオレッタを見た。

 その視線は長すぎず、短すぎず、値踏みのような不躾さもなかった。ただ、確かに相手を見ている目だった。

「先日は夜会で、短くご挨拶しただけでした」

 低く整った声が響く。

「本日は正式にお目にかかれて光栄です、フィオレッタ嬢」

 その言葉に、義母の肩がほんのわずかに緩むのが見えた。少なくとも、露骨な不快感は示されていない。侯爵家にとってはそれだけでも救いなのだろう。

 次にカトリーヌの紹介がなされる。

 義妹は、いかにも儚げな所作で一礼した。

「カトリーヌ・ランベールでございます」

 フェリクスは礼儀としてうなずいたが、その反応は極めて淡泊だった。冷遇というほどではない。ただ、必要以上の情感がない。

 フィオレッタはそれを見て、ほんの少しだけ胸の中が静まるのを感じた。

 少なくともこの人は、可憐さや涙だけで判断を曲げる男ではなさそうだ。

 一通りの挨拶が終わると、茶が運ばれ、当たり障りのない会話が始まった。アルディシア公国の春の気候、この国との交易、近頃の王都の流行。どれも社交の定番でしかないが、そこにいる全員が本題は別にあると知っている。

 父は慎重に言葉を選んでいた。義母も余計なことを言わぬよう気を張っているのがわかる。カトリーヌはなるべく可憐に見えるよう努めているらしく、笑顔を作ってはいるが、どこか落ち着かない。

 ただ一人、フェリクスだけが変わらず静かだった。

 やがて、茶器が一巡したあとで、彼は自然な調子で口を開いた。

「差し支えなければ」

 その一言で、空気がわずかに変わる。

「フィオレッタ嬢と、少しだけ二人で話す機会を頂けますか」

 義母の指先がぴくりと動いた。

 父も一瞬だけ目を細めたが、すぐに当主の顔に戻る。

「もちろんです」

 拒む理由はない。いや、あっても拒めない。

 カトリーヌの顔が、ごくわずかにこわばったのをフィオレッタは見逃さなかった。自分が拒んだ相手と姉が二人きりで話す。そのこと自体が、今の義妹には妙に落ち着かないのだろう。

 庭園に面した小さな談話室へ案内されると、付き添いの使用人たちも外に下がった。

 扉が閉まる。

 二人きり。

 フィオレッタは一瞬だけ呼吸を整えた。

「突然このような申し出をして、失礼しました」

 先に口を開いたのはフェリクスだった。

「いいえ」

 フィオレッタは椅子に腰を下ろしながら答える。

「むしろ、必要なことだと思います」

 フェリクスも向かいへ座る。近くで見ると、その整った顔立ちはますます端正だった。だが、美貌より先に印象に残るのはやはり静けさだ。むやみに圧をかけてくることもなく、かといって曖昧に笑って流すこともない。

「まず最初に申し上げておきたい」

 彼はまっすぐフィオレッタを見た。

「今回の件について、あなたに非があるとは考えていません」

 その言葉はあまりにも率直で、フィオレッタは一瞬だけ目を瞬いた。

 夜会での短い一言と同じだ。

 慰めではなく、判断としての言葉。

「ありがとうございます」

 静かに答える。

「そう言っていただけるだけで、救われます」

「救いになるのであれば幸いですが、これは社交辞令ではありません」

 フェリクスの声は淡々としていた。

「私は、感情に流されて婚約相手を差し替えるような真似を好みません」

 その一言に、フィオレッタは胸の奥で少しだけ笑いそうになった。

 感情に流されて。

 それこそ、カトリーヌとギルベルトがやったことそのものだ。

 フェリクスは続ける。

「ですので、本来であればこの縁談そのものを白紙に戻す選択もありました」

 フィオレッタは黙って聞いた。

「けれど、夜会でのあなたの振る舞いを見て、考えが変わりました」

 薄い色の瞳が、静かにこちらを見ている。

「公の場であれほどの屈辱を受けながら、感情に溺れず、言うべきことだけを言って立っていられた。あれは、誰にでもできることではありません」

 フィオレッタはすぐには言葉を返せなかった。

 この数日、周囲から向けられたのはほとんどが同情か、面白がる視線か、そのどちらかだった。父や義母にとっては家の都合。カトリーヌにとっては手に入れた幸福。ギルベルトにとっては正しい決断。

 そんな中で、あの夜の自分をひとつの行為として正しく見ていた人がここにいる。

 それだけのことが、思った以上に胸に沁みた。

「……必死だっただけです」

 フィオレッタはようやく言った。

「本当は、平気ではありませんでした」

「でしょうね」

 フェリクスはあっさりと言った。

「平気である必要はありません。必要なのは、平気なふりをしてでもその場に立つことでした。そしてあなたは、それを成した」

 その言い方は不思議だった。

 褒めそやすのではなく、事実を確認するような口調。だがだからこそ、軽く聞こえない。

「私も、ひとつ正直に申し上げてもよろしいでしょうか」

 フィオレッタがそう問うと、フェリクスはうなずいた。

「もちろん」

「私は、いまでもこの婚約が自分の意思で結ばれるものだとは思っておりません」

 談話室の空気が静かに張る。

 だがフェリクスの表情は変わらなかった。

「家の都合で、そう決まりました。妹が拒んだ縁談を、私が引き受ける形になった。それが現実です」

「ええ」

「ですから、閣下に対して不誠実な幻想をお見せするつもりはありません。これを運命だとか、望まれた縁だとか、美しい言葉で飾ることはできません」

 そこまで言って、フィオレッタはまっすぐ彼を見た。

「それでもよろしいのですか」

 言葉にした瞬間、自分でも少しだけ心臓が強く打つのを感じた。

 ここでフェリクスが眉をひそめ、「やはり難しい」と言えば、それで終わるかもしれない。

 だが彼はしばらくフィオレッタを見てから、静かに答えた。

「かまいません」

 あまりにもあっさりした返答だったので、フィオレッタは少しだけ意表を突かれた。

 フェリクスは続ける。

「私もまた、この件を美しく飾る気はありません。始まりが望ましいものでなかったことは、変えようのない事実です」

 その一言で、フィオレッタはほんの少しだけ肩の力が抜けた。

「では、なぜ」

「あなたが誠実だからです」

 その答えは短かった。

「美辞麗句で取り繕わず、自分が何を失い、どうここにいるのかをわかった上で、それでも前を向こうとしている。それは、伴侶候補として大きな資質だと私は考えます」

 伴侶候補。

 その言葉に、フィオレッタはわずかに目を伏せた。

 ギルベルトは、婚約者を自分の気分を満たす存在として見ていた。けれどこの人は違う。少なくとも、ただ愛らしいかどうかでは選んでいない。

「……光栄です」

「私は、あなたにただ従順であることを求めません」

 フェリクスの声は低く落ち着いている。

「もちろん、公爵家に入る以上、家としての務めはあります。ですが、あなた個人の尊厳まで押しつぶすつもりはない」

 その言葉に、フィオレッタは顔を上げた。

 尊厳。

 今の自分に一番欠けていたものを、まるで当然の前提のように口にされて、一瞬だけ返す言葉を失う。

 フェリクスは続けた。

「あなたがこの婚約を受け入れるにあたり、不安があるのは当然です。異国での暮らし、習慣の違い、言葉、社交、家臣との関係……どれも容易ではない」

「はい」

「ですが、それらについては私の側で整えます。少なくとも、“知らぬ間に放り出される”ようなことはありません」

 フィオレッタは、その一言にわずかに胸が詰まるのを感じた。

 知らぬ間に放り出される。

 まるで今までの自分の状況を言い当てられたようだった。侯爵家でも、ギルベルトとの婚約でも、自分はいつも、何かが決まったあとで“仕方がない”と告げられる側だったからだ。

「……ありがとうございます」

 それしか言えなかった。

 フェリクスは少しだけ表情を和らげた。

「礼はまだ早いでしょう。実際にあなたがアルディシアへ来てから、私の言葉が嘘でないと確かめてください」

 その物言いに、フィオレッタはほんの少しだけ口元を緩めた。

「ずいぶん正直でいらっしゃるのですね」

「お嫌いですか」

「いいえ」

 首を振る。

「むしろ、そのほうが信じられます」

 談話室の窓の向こうでは、春の庭が静かに揺れていた。柔らかな陽射しが差し込み、薄いレース越しに床へ淡い影を落としている。

 ふと、フィオレッタは気づく。

 この部屋に入るまでは、ずっと肩に力が入っていたのだと。試されるのではないか、値踏みされるのではないか、結局は自分もまた差し替え可能な女として扱われるのではないかと。

 けれど今、胸の内にあるのは恐怖だけではなかった。

 もちろん不安はある。知らない国へ嫁ぐのだ。しかも始まりは決して美しくない。

 それでも、目の前の男は少なくとも、自分を子供じみた慰めで丸め込む気はないらしい。

 そのことが、思いがけず心強かった。

「もうひとつだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 フィオレッタが言うと、フェリクスはうなずいた。

「どうぞ」

「夜会の時……なぜ、私に声をかけてくださったのですか」

 フェリクスは一瞬だけ目を細めた。

「必要だと思ったからです」

「必要?」

「ええ。あの場には、あなたを見物する者か、哀れむ者しかいなかった」

 容赦のない言い方だった。

 だが事実だ。

「そのどちらでもない言葉を、一つくらい置いていくべきだと考えました」

 フィオレッタは静かにその言葉を受け止めた。

 あの時、自分に向けられた一言がどれほど救いになったかを、うまく説明することはできない。けれど目の前のこの人は、それを大げさに恩着せがましくする気もないらしい。

「……あの言葉を、忘れません」

「忘れなくて結構です」

 フェリクスはごくわずかに、しかし確かに微笑んだ。

 それは社交用の作り笑いではなく、ほんの一瞬だけ感情が表に出たような、静かな笑みだった。

「アルディシアで再び会う時には、もう少し穏やかな形でお迎えしたいものです」

 その一言に、フィオレッタは胸の内で小さく息を呑んだ。

 再び会う時。

 お迎えしたい。

 当然といえば当然の言葉だ。婚約が進む以上、次は自分がアルディシアへ向かうことになるのだから。

 けれど、その言い方にはわずかに、未来を前提とした温度があった。

「……その時までに、少しでも恥をかかぬよう努力いたします」

 フィオレッタがそう返すと、フェリクスは首を横に振った。

「恥をかくとは思っていません」

 また、そう言う。

 この人は簡単に断言する。だが、その断言に根拠のない軽さがないのが不思議だった。

 談話室の扉の外で、控えめな気配がした。そろそろ時間なのだろう。これ以上二人きりでいれば、かえって侯爵家側が落ち着かなくなるに違いない。

 フェリクスが立ち上がる。

「本日はありがとうございました」

 フィオレッタも立ち上がり、一礼した。

「こちらこそ」

 扉が開き、再び屋敷の空気が流れ込んでくる。

 大応接間へ戻るまでの短い廊下で、フィオレッタは胸の奥にあるものを静かに見つめていた。

 安心、と呼ぶにはまだ早い。

 希望、というには危うい。

 でも少なくとも、絶望だけではなかった。

 入れ替わった婚約。

 奪われた未来。

 差し出された異国。

 その先に待つのがただの罰ではなく、まだ見ぬ何かであるかもしれないと、今日初めて思えた。

 大応接間へ戻ると、義母はすぐに二人の表情を読み取ろうとし、カトリーヌは落ち着かなげに指を絡め、父は当主らしい顔を保ちながら内心を隠している。

 だがフェリクスは、先ほどと変わらぬ静かな声音で父に告げた。

「お時間をいただき感謝します。フィオレッタ嬢とは、良いお話ができました」

 それだけで十分だった。

 義母の顔にほっとした色が浮かび、父もわずかに息をつく。カトリーヌだけが、なぜかほんの少しだけ青ざめていた。

 フィオレッタはそれを見て思う。

 もう、入れ替わっただけの人生ではないのかもしれない。

 失ったものは確かにある。

 けれど、その先で得るものまで、まだ誰にも決められてはいないのだと。
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