私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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8 対等に扱う人

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8 対等に扱う人

 フェリクス・アルディシア公爵の来訪から三日後、フィオレッタのもとへ一通の書簡が届けられた。

 封蝋にはアルディシア公国の紋章。

 厚みのある上質な紙。

 差出人を確かめるまでもなかった。

 エマが、少し緊張したようにそれを差し出す。

「アルディシア公爵閣下よりでございます」

「ありがとう」

 フィオレッタは受け取った封書をしばらく見つめた。

 侯爵家で暮らしてきた以上、高位貴族からの手紙は珍しくない。けれど今、その重みはこれまでとはまったく違って感じられた。これは社交辞令の挨拶状ではなく、自分のこれからに直接つながる手紙なのだ。

 封を切る。

 中には、簡潔だが整った文面が綴られていた。

 先日の面会への礼。

 今後の婚約継続にあたって、アルディシア公国側で準備を進めること。

 そして、フィオレッタが異国での暮らしに不安を抱かぬよう、必要な情報を順次送るつもりであること。

 その最後に、一文だけ少しだけ柔らかな筆致で書かれていた。

 ――あなたが新しい環境に入る前に、少しでも「知らない」を減らしたいと考えています。

 フィオレッタは、その一文を二度読んだ。

 知らないを減らす。

 それはあまりにも当たり前のようでいて、これまで彼女の周囲にはなかった気遣いだった。侯爵家でも、ギルベルトとの婚約でも、自分はいつも「決まったことに合わせる側」でしかなかったからだ。

 何が決まり、何が必要で、何を覚えねばならないか。

 それらはたいてい、「決まってから」「間に合う範囲で」「当然のように」与えられてきた。

 けれどフェリクスは違う。

 まだ始まってもいない段階で、自分が不安を抱くことを前提に動いている。

「お嬢様……いかがでしたか」

 エマがおそるおそる尋ねる。

 フィオレッタは手紙を畳み、静かに答えた。

「とても、実務的なお手紙だったわ」

「実務的」

「ええ。でも……」

 少しだけ言葉を選ぶ。

「雑ではなかったの。決まったことだから従え、という感じではなくて、ちゃんと“私が入る側の家”として考えてくださっているのがわかる文面だった」

 エマの顔が、ほんの少しだけ明るくなる。

「それは……よろしゅうございました」

「本当にね」

 フィオレッタはもう一度手紙へ目を落とした。

 その日から、アルディシア公国からは定期的に資料や書簡が届くようになった。

 公国の地図。

 主要な都市。

 季節ごとの気候。

 貴族社会で重んじられる慣習。

 言葉の違いと、よく使われる表現。

 宮廷ではなく公国政庁における儀礼の流れ。

 どれも淡々とした内容なのに、妙に読みやすい。単に情報を詰め込むのではなく、初めてその土地に入る者に必要な順で整理されているのがわかる。

 しかも数日後には、衣装や侍女についての確認まで届いた。

 アルディシア公国側で用意できるものと、フィオレッタ自身が持参したいもの。

 同行させたい侍女の希望。

 食事や香料で苦手なものがあるか。

 長旅のあいだ体調を崩しやすいかどうか。

 どれも細かい。

 だがその細かさが、フィオレッタには意外なほどありがたかった。

「まるで……」

 書簡を読みながら、彼女は小さく呟いた。

「本当に、人を迎えるみたい」

 エマが微笑む。

「迎えるのでございましょう」

「そうなのだけれど」

 フィオレッタは少し首を傾げた。

「もっとこう、形式だけのものだと思っていたのよ。婚約者なのだから従って当然、必要なことはそちらで覚えろという感じかと」

「ギルベルト様でしたら、そうなさりそうですものね」

 エマがぽつりと言ったので、フィオレッタは思わず小さく笑った。

「本当に、あなたは最近ずいぶん正直ね」

「最近はもう、取り繕う気になれません」

「私もよ」

 その言葉を口にしてから、フィオレッタは少しだけ驚いた。

 気づかぬうちに、自分の中でも何かが変わっている。以前なら、婚約者を悪く言うような話題は侍女相手でも避けていたはずだ。未来の公爵夫人として、相手の体面を保つことも自分の務めだと思っていたから。

 でももう、その必要はない。

 あの婚約は終わったのだ。

 そして、今こうして届く書簡の一つひとつが、終わったものと新しく始まるものの違いを静かに示していた。

 数日後、父に呼ばれて書斎へ向かうと、珍しく彼は少しだけ機嫌がよさそうだった。

「アルディシア公国側とのやり取りは順調だ」

 机の上にはまたいくつかの書類が並んでいる。

「向こうは必要以上に急かしもせず、だが遅れもなく、実に整然としている」

 それは褒めているのだろう。

 父は有能な相手には敬意を払う。たとえそれが、自分の娘を事実上“受け取る”側であっても。

「そうですか」

「お前の受け入れ準備も、かなり細かく確認してきている。衣装や侍女の人数まで向こうから提案があった」

 フィオレッタは少しだけ皮肉を込めて答える。

「ずいぶん丁寧ですのね」

 父はその棘に気づいたらしく、わずかに眉を寄せたが、今日は咎めなかった。

「公爵本人の意向が強いらしい」

 その一言に、フィオレッタはわずかに目を上げた。

 本人の意向。

 つまり、家臣任せではなくフェリクス自身が関与しているということだ。

 父は続ける。

「お前と直接話したことで、判断を固めたのだろう」

 その言葉を聞いて、フィオレッタの胸の奥に小さな波紋が広がる。

 判断を固めた。

 それは当然、婚約を進めると決めたという意味だ。

 だが、不思議と嫌ではなかった。少なくともギルベルトのように、気分の赴くまま選んだという軽さではないのがわかるからだろう。

 書斎を出ると、廊下の向こうからカトリーヌが歩いてきた。

 以前なら、義妹はこういう場面で必ず可憐な笑顔を作ってみせたものだ。だが最近の彼女は、フィオレッタと二人きりになると、どこか落ち着かない顔をする。

「お姉様」

「カトリーヌ」

 短い挨拶だけで通り過ぎるつもりだった。だが義妹は少し躊躇ってから、思い切ったように口を開いた。

「アルディシア公国から、またお手紙が届いたと聞きましたわ」

「ええ」

「……ご親切なのですね」

 その言い方には、微妙な棘が混じっていた。

 羨ましさか、後悔か、それともただ落ち着かないだけか。

 フィオレッタは義妹を見た。

「そうね。少なくとも、相手が何も知らないまま来ることを前提にはしていないようだわ」

 カトリーヌの唇がぴくりと動く。

 このくらいの言葉なら、十分伝わるだろう。

 婚約中、ギルベルトはカトリーヌに甘い言葉は囁いても、具体的な未来の話はほとんどしていなかった。社交界で並ぶ未来、屋敷のこと、家の務め――そういった現実には、きっとまだ何も触れていないはずだ。

「ギルベルト様も、お優しいですわ」

 義妹がむきになったように言う。

「そう」

 フィオレッタはそれ以上何も返さなかった。

 むしろその一言だけで、義妹の不安がよく見えたからだ。

 自分で選んだ相手。

 自分で奪った婚約。

 なのに、なぜか落ち着かない。

 その理由を、カトリーヌ自身もうすうす感じ始めているのかもしれない。

 部屋へ戻ると、アルディシア公国から新たに届いた箱が机の上に置かれていた。

 中には、公国で一般的に用いられる花の香りを薄く移した便箋と、女性たちの装いの簡単な見本布、そして小さな冊子が入っていた。

 冊子の表紙には整った文字でこう書かれている。

 アルディシア公国における日常的な礼法の覚え書き

 フィオレッタは思わず笑ってしまった。

「……ここまで?」

 エマも冊子を覗き込み、目を丸くする。

「本当に、細やかでいらっしゃいますね」

 中を開くと、公式の場ではなく「日常」で迷いやすい部分が簡潔にまとめられていた。食卓での順序、家臣が同席する場での座り方、庭園散策に適した服装、客人を迎える際の一言目まで。

 しかも最後の頁には、短い走り書きが添えられている。

 ――最初から完璧である必要はありません。迷いやすい点のみ抜粋しました。必要があれば、こちらで何度でも整えます。
                         フェリクス・アルディシア

 フィオレッタはその文字を見つめた。

 何度でも整えます。

 その言葉が妙に胸に残る。

 この家では、誰もそんなふうに言わなかった。間違えぬように努力しなさい、恥をかかぬようにしなさい、長女なのだから、婚約者なのだから――そういう言葉ばかりだった。

 けれどフェリクスは、最初から完璧でなくていいと言う。

 それは甘やかしではない。必要なところは整えるが、自分も責任を持つという意味だ。

「対等、って……」

 気づけば、小さく呟いていた。

 エマが首を傾げる。

「お嬢様?」

「ううん」

 フィオレッタは冊子を閉じた。

「ただ、少し不思議だったの」

「何がでございますか」

「婚約者というのは、もっと一方的なものだと思っていたから。家が決めて、女はそれに合わせるだけ。多少気に入られていれば幸運、そうでなければ義務として過ごすだけ」

 エマは少し考えてから言う。

「でも、アルディシア公爵閣下は違うのでございますね」

「ええ」

 フィオレッタは静かにうなずいた。

「少なくとも今のところは、違うわ」

 夕方、庭園を歩いていると、ふいに背後から父に呼び止められた。

「フィオレッタ」

 振り返ると、父が珍しく一人で立っている。

「何かしら、お父様」

「少し話がある」

 二人で並んで歩くことなど、いつ以来だろう。

 父はしばらく無言だったが、やがてぽつりと言った。

「アルディシア公爵は、お前を高く評価しているようだ」

 その言葉は、父なりの気まずい認め方なのだろう。

 フィオレッタは少しだけ間を置いて答えた。

「ありがたいことです」

「……お前には、苦労をかけた」

 思いがけない言葉に、フィオレッタは足を止めかけた。

 父の顔は庭木の影で少し暗い。

「だが、あれが侯爵家にとって必要な判断だったことも理解しているな」

 次の一言で、結局そこへ戻るのね、と思った。

 謝罪ではない。

 理解を求めるための前置き。

「理解しております」

 フィオレッタは平静に答える。

「ただ、納得とは別ですけれど」

 父は苦い顔をした。

 それ以上は何も言わず、ただ短くうなずいただけだった。

 部屋へ戻るころには、窓の外は茜色に染まり始めていた。

 机の上には、フェリクスからの書簡と冊子がまだ置かれている。

 フィオレッタは椅子に座り、その封書の表をそっと指先でなぞった。

 対等に扱われる。

 それは、恋の甘い言葉よりもずっと遅く、ずっと静かに胸へ染み込むものなのだと、今の彼女は少しずつ知り始めていた。

 奪われた婚約の先に、こんな形の敬意が待っているとは思わなかった。

 まだ信じ切るには早い。

 異国へ渡ってから何があるかもわからない。

 それでも――

 少なくとも、ここへ来る前から自分を“置き物”ではなく“迎える相手”として扱っている人がいる。

 その事実だけで、遠い国の輪郭は少しずつ恐ろしいだけのものではなくなっていった。
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