私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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9 アルディシアの空気

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9 アルディシアの空気

 アルディシア公国へ向かう日取りが正式に決まると、ランベール侯爵家の屋敷は急に慌ただしくなった。

 とはいえ、その慌ただしさの中心にあるのはフィオレッタの感情ではなく、あくまで家としての準備だった。同行する使用人の選定、持参品の確認、衣装箱の数、途中の宿泊地、国境を越える際の手続き。書類と指示が行き交い、父は「遺漏のないように」と執事たちへ命じ、義母は「恥ずかしくないよう整えて差し上げなければ」ともっともらしい顔をしていた。

 誰も彼もが忙しそうだったが、その忙しさがフィオレッタの心を軽くすることはなかった。

 自分が嫁ぐのだ。

 人生が変わるのだ。

 そのはずなのに、屋敷の中ではまるで、高価な荷を丁寧に送り出す準備をしているような気配がある。

 ただひとつ違ったのは、アルディシア公国から届く便りだった。

 フェリクスからの書簡は、必要以上に親しげではない。けれど毎回、フィオレッタがこれから触れることになる土地と暮らしを、少しずつ現実のものに変えていった。

 公国の首都は王都よりやや小さいが、城壁よりも水路と石橋で知られていること。

 春はこの国より少し遅く、朝晩の冷え込みが残ること。

 社交界では派手な流行より、仕立ての良さと色合わせの品位が重視されること。

 大公家ではなく公爵家であっても、アルディシアでは領政に深く関わるのが当然であること。

 そうした一つひとつが、フィオレッタの中で漠然としていた“遠い国”の輪郭を少しずつ形にしていく。

 夜、机の上に地図を広げてその便りを読み返していると、エマがそっと茶を置いた。

「最近のお嬢様、以前より地図を見る時間が増えましたね」

「そうね」

 フィオレッタは指先で地図の上をなぞる。

「前はただ“遠い”としか思っていなかったけれど、今は少し違うの。ここに川があって、ここに城があって、ここは葡萄の産地で、ここでは冬に霧が深い――そういうことがわかってくると、知らない場所というより、まだ行ったことのない場所になるのね」

 エマは微笑んだ。

「それは、とても大きな違いでございますね」

「ええ」

 怖さが消えたわけではない。

 けれど恐怖というものは、正体がわからぬ時ほど大きいのだと、フィオレッタはあらためて思う。フェリクスはその“わからなさ”を、ひとつずつ取り除こうとしていた。

 数日後、アルディシア公国から今度は人が来た。

 正式な使者というほど大仰ではなく、先に送り込まれた実務担当の女官と補佐役だった。フィオレッタの受け入れ準備のすり合わせと、本人が困っていることがないかを確認するためだという。

 その時点でもう、ランベール侯爵家の者たちは少し驚いていた。

 婚約者が嫁ぐ前に、ここまで細かく配慮を寄越す家は珍しいのだろう。

 応接間に通されたのは、三十代半ばほどの凛とした女性だった。深緑の衣装をきっちりと着こなし、視線は穏やかだが曖昧さがない。名をレオノーラと名乗った。

「フィオレッタ様。アルディシア公爵家にて、閣下の身辺と内政補佐を一部預かっております、レオノーラ・ヴェイセルと申します」

 礼は簡潔で美しい。

 ただの侍女頭という雰囲気ではない。相当の裁量を持つ人物なのだろう。

「ようこそお越しくださいました」

 フィオレッタも応じる。

 その場には父と義母も同席していたが、レオノーラは最初の挨拶を終えると、自然にフィオレッタへ話の軸を移した。

「本日は、正式なご挨拶というより、今後フィオレッタ様にご不便がないよう確認のために参りました」

 父が満足そうにうなずく。

 義母も社交用の笑みを浮かべた。

 だがフィオレッタは、その言葉の中身のほうに注意を向けていた。確認のために参った。つまり、自分を受け取る物としてではなく、これから家へ迎える相手として扱っている。

 レオノーラは続ける。

「閣下より、生活面で不安が残らぬようにとの指示を受けております。食事、住まい、言葉、日々の時間の使い方、同行される侍女のことなど、気になる点があれば何でもお聞かせください」

 義母が横からやわらかく言う。

「まあ、本当に細やかですこと」

 レオノーラは礼儀として微笑んだが、返事はフィオレッタへ向いたままだった。

「閣下は、環境の違いで余計な負担をかけることを嫌われます」

 その一言が、妙に心に残る。

 余計な負担。

 たとえばこの侯爵家では、娘がどれほど心を削ろうと、それは“務め”の一言で片づけられてきた。だがフェリクスの家では、余計な負担は減らすべきものとして扱われるらしい。

 それだけで、空気が違う。

 応接間での話し合いは長く続いた。

 レオノーラは実に実務的だった。フィオレッタが持参したい本の数、侍女エマを同行させることの可否、香油や茶葉の好み、早朝の礼拝の習慣があるかどうかまで確認していく。

 しかもそれは尋問のようではない。

 必要だから聞いている、というだけのことがよくわかる口調なのだ。

 父は途中で満足げに言った。

「アルディシア公爵家はずいぶん整っておられるようだ」

「整っていなければ、人を迎える資格はないと閣下はお考えです」

 レオノーラは静かに答えた。

 その言葉に、フィオレッタは一瞬だけ視線を伏せた。

 人を迎える資格。

 それを当然のように言い切るのか、この家は。

 話がひと段落したあと、レオノーラのほうから申し出があった。

「差し支えなければ、少しだけフィオレッタ様と二人でお話ししてもよろしいでしょうか。実務の詳細は当主様方にも必要ですが、個人的なご不安はご本人の前でしか伺えないものもございますので」

 義母は一瞬だけ目を丸くしたが、父はすぐに了承した。

 別室へ移る。

 小さな談話室に入ると、レオノーラは一息ついてから、少しだけ表情を和らげた。

「ここからは、公式の確認ではございません」

 フィオレッタは向かいへ座る。

「ええ」

「率直にお聞きします。今、ご不安はどのあたりにございますか」

 あまりにもまっすぐな問いだった。

 大丈夫です、と答えればおそらくそれでも通るのだろう。だがフィオレッタは、目の前の女性に対してその答えを選ぶ必要を感じなかった。

「……たくさんあります」

 レオノーラは静かにうなずく。

「でしょうね」

「環境も、言葉も、習慣も違いますし……」

 そこで少しだけ迷い、しかし言った。

「何より、私は本来の婚約相手ではありませんでした。アルディシア公爵家の方々が、それをどう見ておられるのかが不安です」

 レオノーラはしばらく黙っていたが、やがてはっきりと答えた。

「率直に申し上げます。快く思わぬ者がいないわけではありません」

 フィオレッタは目を伏せず、その言葉を受け止めた。

 むしろ、そのほうが納得できる。

「ですが」

 レオノーラは続ける。

「閣下が決められたことに、家中が軽々しく異を唱えられるわけではございません。そして閣下は、ただ都合でお決めになったのではなく、ご自身で見て判断なさいました」

 フィオレッタは小さく息をついた。

「……そうですか」

「ええ。ですから、必要以上に恐れなくて結構です」

 レオノーラの声は穏やかだった。

「アルディシアでは、涙ぐんで見せるより、務めを理解して立てる人間のほうが重んじられます」

 その一言に、フィオレッタはわずかに目を見開いた。

 それはまるで、この家と真逆の価値観だ。

 泣く妹。

 耐える姉。

 この侯爵家では、前者ばかりが守られてきた。だがアルディシアではそうではないらしい。

「もちろん、情がないわけではございません」

 レオノーラは淡く微笑む。

「ですが少なくとも、可憐であるだけでは尊ばれません」

 フィオレッタは、その言葉を胸の中で静かに繰り返した。

 可憐であるだけでは尊ばれない。

 その世界は、彼女にとって少し眩しいもののように思えた。

「閣下は、あなたがあの夜会で立っておられたことを高く買っておいでです」

 レオノーラが言った。

「聞いておりますか」

「少しだけ」

「でしたら、信じてよろしいかと。閣下は、安易な慰めのために同じことを繰り返す方ではございませんので」

 その言葉に、フィオレッタは少しだけ笑った。

「皆さま、揃ってそう仰るのですね」

「揃うのは、事実だからでしょう」

 談話室を出る頃には、フィオレッタの中にあった“遠い国”の空気は、さらに少しだけ変わっていた。

 未知であることには変わりない。

 けれどその未知は、ただ冷たく恐ろしいものではない。

 少なくともそこには、泣けば守られ、我慢すれば押しつけられるという単純な構図とは違う規律がある。

 そして、その規律の中でなら、自分はもう少しまともに扱われるのかもしれない。

 応接間へ戻ると、義母がすぐににこやかな顔で尋ねた。

「どんなお話をなさったの?」

「生活面での確認が主でした」

 フィオレッタは淡々と答える。

 義母はそれ以上深くは聞かなかったが、どこか落ち着かない様子だった。おそらく、アルディシア公爵家の“空気”が自分たちのやり方とかなり違うことを、うすうす感じ始めているのだろう。

 夕方、レオノーラたちが帰ったあと、フィオレッタは一人で庭を歩いた。

 春風はまだ少し冷たく、若葉の匂いが混じっている。

 見慣れた侯爵家の庭。

 けれどもう、この景色も永遠ではない。

 ここを離れる日が近づいている。

 そのことに胸が痛まないわけではない。母の面影の残る部屋も、本の並ぶ書棚も、馴染んだ窓辺の光も、すべて置いていくのだ。

 だが同時に、ここを離れることが救いでもあるのかもしれないと、今のフィオレッタは思ってしまう。

 その時、後ろから控えめな足音がした。

 振り返ると、カトリーヌが立っている。

 薄い色のドレスに身を包み、相変わらず可憐に見えるが、顔色はどこか冴えなかった。

「お姉様」

「何かしら」

 義妹は少しためらってから言った。

「アルディシアの方は……ずいぶん厳しそうですのね」

 フィオレッタは、その問いの奥にあるものをすぐに悟った。

 羨ましい、ではない。

 怖い、だ。

 自分が拒んだ相手がどんな世界の人間なのか、今さら少し気になっているのだろう。

「厳しいというより、きちんとしているのではないかしら」

「そう……」

「少なくとも、何でも涙で済ませるような家ではなさそうね」

 カトリーヌの顔がわずかにこわばる。

 その一瞬を見て、フィオレッタは自分でも少し意外なくらい、冷静だった。

 以前ならもっと怒りが先に立ったかもしれない。だが今は、義妹に何をぶつけても、自分の人生が戻るわけではないとわかっている。

「ギルベルト様は、お優しいですわ」

 カトリーヌはまた同じことを言った。

 おそらく、自分自身に言い聞かせるように。

「そう」

 フィオレッタはそれだけ答えた。

 義妹は何か言いたげだったが、結局そのまま去っていく。

 背を見送りながら、フィオレッタは思った。

 優しい、ね。

 その優しさが、どこまで本物なのか。

 それを知るのは、きっとこれからだ。

 夜、自室に戻ると、フェリクスから新しい書簡が届いていた。

 短い文面だった。

 ――本日、レオノーラより報告を受ける予定です。
 ――新しい環境に不安が残るのは自然なことです。焦らず慣れていただければ十分です。
 ――アルディシアの空気を、いつかあなた自身の目で見てください。

 フィオレッタは、その最後の一文をゆっくり読み返した。

 いつかあなた自身の目で見てください。

 見せてやる、ではない。

 耐えろ、でもない。

 あなた自身の目で、と言う。

 その言葉に、胸の奥で何かが静かにほどけた。

 遠い国。

 差し出された未来。

 けれどその先にある空気を、自分の目で見る日が来るのだ。

 そう思うと、不思議と怖さだけではなくなった。

 フィオレッタは窓を開け、夜風を吸い込む。

 侯爵家の庭の匂いの向こうに、まだ知らない土地の空気を想像した。

 それはもう、罰のような未来ではなかった。
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