私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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10 ランベール侯爵家の継承

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10 ランベール侯爵家の継承

 フィオレッタがアルディシア公国へ向かう準備を進める一方で、ランベール侯爵家そのものもまた、大きく形を変えようとしていた。

 きっかけはもちろん、今回の婚約者交換騒ぎである。

 社交界では表向き、話はすでにそれらしい体裁に整えられていた。

 ロシュフォール公爵家嫡男ギルベルト・ド・ロシュフォールは、フィオレッタとの婚約を解消し、義妹カトリーヌとの婚約を正式に結んだ。

 一方フィオレッタは、アルディシア公国の公爵フェリクス・アルディシアとの婚約を継続する。

 文字にすればそれだけだ。

 だが、その裏で侯爵家の中に残った歪みまで消えるわけではない。

 むしろ、表向き整えれば整えるほど、家の内側では別の整理が必要になる。

 誰が家を継ぐのか。

 誰がこれからのランベール侯爵家を担うのか。

 その問題が、婚約騒動を機に急に現実味を帯びていた。

 そもそもフィオレッタは長女ではあったが、侯爵家を継ぐ立場として育てられていたわけではなかった。母が存命だった頃は、彼女が侯爵家の中心に近い娘であることは確かだったが、貴族社会において家督の中心は基本的に男子へ流れる。

 そして後妻が入り、異母弟が生まれた時点で、その流れはほぼ固まっていた。

 フィオレッタも、それは理解していた。

 自分は侯爵家を継ぐのではなく、婚姻によって家の外へ出て、別の家を支える役割を担う。そういう立場だと。

 ただ、理解していたことと、それが急に目の前の現実として迫ってくることは別だった。

 ある日の午後、父に呼ばれて小応接間へ行くと、そこには父だけでなく、異母弟のレナールもいた。

 レナール・ランベール。

 まだ十七歳になったばかりの少年で、フィオレッタとは六つ違う。母に似た柔らかな顔立ちをしているが、性格は義母ほど甘くはなく、父ほど重くもない。どちらかといえば無口で、周囲をよく見ている。

 幼い頃からフィオレッタと特別仲が良かったわけではない。

 けれど、露骨に敵意を向けてきたこともない。

 この家では珍しく、彼はフィオレッタに対して必要以上に甘くも厳しくもなかった。

「お姉様」

 レナールが立ち上がり、一礼した。

「急にお呼び立てして申し訳ありません」

 父の前でこうした言葉が自然に出るだけでも、義母やカトリーヌとは違う育ち方をしたのだとわかる。

 フィオレッタも軽く礼を返した。

「かまわないわ。何のお話かしら」

 父が椅子を勧める。

「座りなさい」

 三人が席につくと、父はしばらくのあいだ沈黙してから口を開いた。

「フィオレッタ。お前がアルディシア公国へ嫁ぐことは、もう正式に動いている」

「はい」

「それに伴い、侯爵家としても今後の体制を整える必要がある」

 やはりその話ね、とフィオレッタは思った。

 父は続ける。

「レナールを正式に後継として前面に出す。これまで以上に社交へ出し、婚約も進める」

 レナールは黙って座っていたが、その横顔には緊張があった。

 当然だろう。

 これまで“いずれそうなる”と皆が思っていたことが、今ここで明確に言葉にされるのだから。

「そうですか」

 フィオレッタは静かに答えた。

 驚きはなかった。痛みがまったくないわけではないが、もともと自分の場所ではなかった座が、正式に遠ざかるだけのことだ。

 ただ、それでも胸の奥ではひとつの時代が終わる音がした。

 父は言う。

「お前にも伝えておくべきだと思った。家の中で立場が曖昧なままでは、後々余計な憶測を呼ぶ」

「ええ、その通りだと思います」

「不満はないのか」

 その問いに、フィオレッタはほんの少しだけ目を細めた。

 不満。

 この状況でその言葉を使うのね。

 けれど今さら、その程度で腹を立てる気にもなれなかった。

「家督については、もともとレナールが継ぐものと理解しておりました」

 フィオレッタは淡々と答える。

「ですから、異論はありません」

 父は少しだけ息を吐いた。

 安堵したのかもしれない。フィオレッタがここで何か言えば、それもまた“面倒”になるのだろうから。

 その横で、レナールが初めて口を開いた。

「お姉様」

「何かしら」

「……私は、お姉様の立場を奪ったと思われるのが嫌でした」

 意外な言葉だった。

 父も一瞬だけ息を止めたようだったが、口は挟まない。

 レナールは続ける。

「もともと家督は私が継ぐつもりで教育されてきましたし、お姉様も別家へ嫁ぐものと皆が思っていた。それでも今回の件のあとでは、外から見れば、姉が家を追われ、弟が家を得たように見えるかもしれません」

 フィオレッタは弟を見た。

 この子は、本当によく見ている。

 表向き整えられたことの裏で、どう見えるかまで考えている。

「気にしなくていいわ」

 フィオレッタは静かに言った。

「今回の件で傷ついたのは事実だけれど、家督のことまであなたに背負わせるつもりはないもの」

「ですが」

「本当に」

 少しだけ声を和らげる。

「少なくともそこは、最初からあなたの場所だったわ」

 レナールは口を閉ざした。

 納得しきれたわけではないだろう。けれど、フィオレッタが本心からそう言ったことは伝わったらしい。

 父が場を収めるように言った。

「婚約についても、まもなくレナールの相手を正式に定める」

「もう決まっているのですか」

 フィオレッタが尋ねると、父はうなずいた。

「ほぼな。侯爵家同士の娘だ。年頃も釣り合う」

 レナールの顔がわずかに固くなる。

 まだ若い彼にとって、婚約は現実味の薄い未来だっただろう。だが侯爵家は待ってくれない。長女が婚約交換という形で外へ出る以上、次に家の軸を見せるためには、後継の婚約を早めるのが手っ取り早い。

 家はいつもそうだ。

 感情ではなく配置で動く。

 そのことを、フィオレッタは骨の髄まで知っていた。

 話はそれで終わったかに見えたが、レナールが少しためらってからまた口を開いた。

「お姉様が出立される前に、一度きちんとお話ししたかったのです」

「いま、しているではない」

「父上の前ではなく」

 その言葉に、父の眉が少し動いた。

 だがレナールは引かなかった。

「後で、二人で」

 フィオレッタは少しだけ驚いたが、やがてうなずいた。

「ええ、いいわ」

 父は何も言わなかった。内心では思うところがあるのだろうが、今さら姉弟の会話まで止める理由はないと判断したのかもしれない。

 その日の夕方、レナールは本当にフィオレッタの部屋を訪ねてきた。

 応接用の小机をはさんで向かい合うと、彼は昼間より少しだけ肩の力を抜いたように見えた。まだ若いのだ。父の前ではどうしても緊張するのだろう。

「お茶でいいかしら」

「はい」

 エマが用意した茶器を置いて下がると、部屋は急に静かになった。

 レナールが、先に口を開く。

「お姉様は……怒っておられますか」

 フィオレッタは少し首を傾げた。

「何に対して?」

「この家に、です」

 ずいぶんまっすぐな問いだった。

 おそらく彼は、フィオレッタが今どんな顔をしているのか掴みかねているのだろう。泣きもしない。騒ぎもしない。けれど確かに深く傷ついているはず。そういう相手は、かえってわかりにくい。

「怒っているわ」

 フィオレッタは正直に言った。

 レナールが目を見開く。

「そうでしょうね……」

「でも、それはあなたに対してではないの」

「では父上と母上に」

「お義母様には、かなり」

 そこは少しだけ皮肉を込めて答えると、レナールは思わず苦笑した。

「やはり」

「お父様にも、ないわけではないわ。ただ……」

 フィオレッタは茶器の縁へ視線を落とす。

「もう、今さらなのよ。あの方はずっと“家のため”で動いてきた人だもの。今回だけ突然娘の気持ちを最優先にするとは、最初から期待していなかった」

 期待していなかった。

 そう口にすると、少しだけ胸の内が冷えた。

 それは傷つかないための諦めでもあったのだろう。

 レナールはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。

「カトリーヌ姉上のことは……」

 姉上、と呼ぶその声に、どこか距離があった。

「どう思っておられますか」

 フィオレッタは少しだけ窓の方を見た。

 夕暮れの光が、庭木の影を長くしている。

「かわいそうだと思う日もあったわ」

「え」

「でも、もう違う」

 静かに言う。

「怖いから、嫌だから、泣けば誰かがなんとかしてくれると思っている。そのまま私の婚約者まで欲しがった。かわいそうだけでは済まないでしょう」

 レナールは黙ってうなずく。

 彼もまた、母と姉の気質をわかっているのだろう。

「ギルベルト様は、どういう方なのですか」

 その問いには少し迷ったが、フィオレッタは飾らず答えた。

「傲慢な方よ」

「やはり」

「自分が世界の中心だと思っているわ。愛する相手を守りたいのではなく、守る自分に酔うタイプ」

 レナールが複雑そうな顔をする。

「それを、カトリーヌ姉上はわかっておられないのですね」

「たぶんまだ」

 フィオレッタは言った。

「でも、結婚は夜会の甘い言葉では続かないもの」

 その一言に、部屋の空気が少しだけ重くなった。

 レナールはまだ若く、婚約もこれからだ。そんな彼の前で結婚の冷たさを語るのは、少し酷かもしれないと思った。だが、この家では甘い夢ばかり見ていては足元を掬われる。

「お姉様は、アルディシア公爵閣下のことをどう思っておられますか」

 今度の問いに、フィオレッタは一瞬言葉を失った。

 どう思っているか。

 それは、まだ自分でもうまく名前をつけられていない感情だった。

「……わからないわ」

 正直に答える。

「まだ何も始まっていないもの。ただ」

「ただ?」

「少なくとも、人を物のようには扱わない方だと思う」

 レナールは、ほっとしたような顔をした。

「それなら、少し安心しました」

「あなたが?」

「はい」

 少年らしい率直さだった。

「お姉様はこの家でいつも、平気な顔をして耐えてこられました。だから皆、お姉様は何でも平気だと勘違いしている。でも私は……」

 そこで少しためらい、それでも続ける。

「そうではないと知っています」

 フィオレッタは、その言葉に少しだけ目を伏せた。

 この家で、そう言われたことは一度もなかった。

 強いから平気。

 しっかりしているから大丈夫。

 できるから任せてよい。

 そんな言葉ばかりだった。

 なのにこの弟は、まだ若いのにちゃんと見ていたのだ。

「ありがとう」

 短くそう言うのが精一杯だった。

 レナールは少し照れたように視線をそらす。

「……お姉様が行ってしまうと、この家はきっとだいぶ静かになります」

「そうかしら」

「少なくとも、父上と母上の言葉の裏をきちんと読む人が一人減るので」

 その言い方に、フィオレッタは思わず笑った。

「あなた、思っていたより辛辣なのね」

「お姉様ほどではありません」

「そんなことないわ」

 久しぶりに、心から笑った気がした。

 その夜、レナールが帰ったあと、フィオレッタは窓辺に立って庭を見下ろした。

 弟が家を継ぐ。

 弟にも婚約者が決まる。

 侯爵家はこれから、自分がいない形で回っていく。

 寂しさがないわけではない。けれど、それ以上に強かったのは奇妙な解放感だった。もうこの家の長女として、期待と我慢を背負い続けなくていいのだと。

 もちろん、次にはアルディシア公国という新しい責任が待っている。楽な未来ではないだろう。

 それでも、少なくともあちらでは、“耐えられるから押しつける”ことを当然にはしないらしい。

 その違いは大きい。

 机の上には、今日届いたアルディシア公国からの新しい書簡がある。

 封はまだ切っていない。

 フィオレッタはそれを手に取り、そっと指先でなぞった。

 侯爵家の継承は、もう自分の手を離れた。

 この家は弟夫婦の代へ向かう。

 ならば自分もまた、自分の行く先へ進まなければならない。

 そう思いながら封を切ると、中には短い文面が綴られていた。

 ――あなたがこちらへ来られる日が近づいていると聞きました。
 ――準備は急がず、必要なものを選んでください。
 ――この国の空気に慣れるまでは、誰にでも時間がかかります。

 最後の一文を読んで、フィオレッタは静かに息を吐く。

 そう。時間がかかるのだ。

 何もかもすぐに平気になる必要はない。

 そのことを認めてくれる場所があるのなら、自分はそこへ行ってみたいと、今は素直に思えた。
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