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11 幸福を手にしたはずの妹
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11 幸福を手にしたはずの妹
カトリーヌとギルベルトの婚約が正式に整えられてから、王都の社交界ではしばらくその話でもちきりだった。
もともと公の場で婚約破棄が宣言されたのだ。噂にならないはずがない。
しかも相手はロシュフォール公爵家の嫡男とランベール侯爵家の姉妹。家格も高ければ、騒動の形も派手だった。表向きは誰もが上品な微笑みを崩さずにいたが、水面下ではさまざまな憶測が飛び交っていた。
冷たい姉より、可憐な妹が選ばれたのだという者もいた。
いや、妹がずっと裏で立ち回っていたらしいと囁く者もいた。
ギルベルトは“真実の愛”に目覚めたのだと夢見るように語る若い令嬢もいれば、公爵家の嫡男ともあろう者が婚約をあんな形で扱うのは軽率すぎると眉をひそめる年長の夫人もいる。
つまり、華やかに整えられたわりには、少しも綺麗には片づいていなかった。
それでもカトリーヌだけは、少なくとも表向きには、幸福の絶頂にいる娘として振る舞っていた。
その日の午後も、ランベール侯爵家の大広間では数人の令嬢たちを招いた小さな茶会が開かれていた。
招いたのは義母だ。
名目はカトリーヌの正式な婚約祝い。
だが実際には、「次の婚約者はこの娘なのです」と社交界のごく近い範囲へあらためて印象づけるための場だった。
フィオレッタは参加しなかった。
参加しないのではなく、参加する必要がないと義母のほうが判断したのだろう。あるいは、姉妹を並べると都合が悪いと思ったのかもしれない。どちらでもよかった。
代わりにフィオレッタは、自室でアルディシア公国の言葉の練習をしていた。
窓の外からは、庭園越しに茶会のざわめきがかすかに聞こえてくる。笑い声、茶器の触れ合う音、女たちのやわらかな囁き。耳を澄ませば、話題の中心が誰なのかくらいはわかる。
カトリーヌだ。
いまや彼女は、婚約者を勝ち取った妹として注目を集めている。
「お嬢様」
エマが静かに入ってくる。
「茶会のほう、かなりにぎやかでございます」
「そう」
「カトリーヌ様は……とてもご機嫌のようで」
フィオレッタは手元の冊子を閉じた。
「それはよかったわね」
口調は淡々としていたが、皮肉は隠さなかった。
エマもそれを察して、少しだけ声を落とす。
「申し訳ございません。お耳に入れたくはなかったのですが……」
「いいのよ。隠したところで、どうせ同じ屋敷だもの」
フィオレッタは立ち上がり、窓辺へ寄った。
遠くに見える東の庭園では、色とりどりのパラソルの下に令嬢たちの姿がある。中心にいる淡い桃色のドレスは、きっとカトリーヌだろう。鳥籠の中の小鳥のように、あいかわらず愛らしく見える。
ただ、その輪の中にギルベルトの姿はない。
婚約祝いの場なのに。
「ギルベルト様はお見えになっていないのね」
エマが少し驚いたように目を上げる。
「お気づきでしたか」
「ええ」
「今日は公務があるとかで」
「公務」
フィオレッタはその言葉を繰り返した。
ロシュフォール公爵家の嫡男なのだから、もちろん公務もあるだろう。だが、正式な婚約祝いの茶会に顔も出さず、理由が“公務”だけというのは、少し薄い。
もっとも、それが本当に薄いのか、それとも自分が穿って見ているだけなのかはまだわからない。
その時、廊下の向こうから軽い足音がして、ノックもそこそこにカトリーヌが入ってきた。
「お姉様!」
いつになく弾んだ声だった。
フィオレッタは振り返る。
義妹は頬を紅潮させ、瞳まできらきらとさせていた。茶会の途中で抜けてきたのだろう、ドレスも髪もよそゆきのままだ。
「どうしたの」
「お客様方が、皆とても羨ましいとおっしゃるのです」
いきなりそう来たか、とフィオレッタは思った。
エマが背後で、わずかに顔をしかめる気配がする。
カトリーヌは気づきもせずに続けた。
「ロシュフォール公爵家の嫡男と結ばれるなんて、夢のようですって。しかもギルベルト様は、私をとても大切にしてくださるでしょう?」
「そう」
「ええ。先日も、新しく仕立てるドレスの色について、私の好きにしてよいと仰ってくださいましたの」
フィオレッタは黙って義妹を見た。
たぶん、彼女は本当に浮かれているのだ。自分が勝者であり、今こそ姉より上に立ったのだと感じている。その高揚のままここへ来て、わざわざ見せに来た。
可愛い妹は守られ、選ばれ、幸せになる。
そういう物語の中心にいる気分なのだろう。
「それは、よかったわね」
フィオレッタがそう返すと、カトリーヌは少しだけ首を傾げた。
「お姉様、怒っていらっしゃらないの?」
「何に対して?」
「……私が、ギルベルト様の婚約者になったこと」
その問いに、フィオレッタは少しだけ笑った。
「いまさらその確認をするの?」
カトリーヌの顔がわずかに曇る。
「だって……お姉様は、あまり何も仰らないから」
「騒いだところで、何か変わるのかしら」
「それは……」
「あなたはもう正式な婚約者になった。私はアルディシアへ行く。それだけの話でしょう」
カトリーヌは一瞬だけ唇を噛んだ。
どうやら彼女は、もっとわかりやすい反応を期待していたらしい。嫉妬、怒り、悔し涙。そうしたものが返ってくれば、自分の勝利はもっと鮮やかに感じられただろう。
けれど現実に向けられるのは、静かな視線だけだ。
「お姉様は……本当に、平気ですのね」
その言い方には、少しだけ刺があった。
フィオレッタはその棘を、淡々と受け止める。
「平気に見えるのなら、そう見せているだけよ」
カトリーヌが目を見張る。
「でも、あなたはとても嬉しそうね」
「もちろんですわ」
義妹はすぐに勢いを取り戻した。
「だって私、ようやく本当に欲しかったものを手に入れたのですもの」
その一言に、フィオレッタはほんの少しだけ目を細めた。
ようやく本当に欲しかったもの。
つまり、最初からそれだったのだ。
異国へ行くのが怖い、というだけではない。ギルベルトが欲しかった。近くにいられて、自分を甘やかしてくれて、社交界でも華やかな地位を与えてくれる男が。
「そう」
フィオレッタは静かに言った。
「なら、その言葉は忘れないことね」
「え?」
「あなたが、本当に欲しかったものを手に入れたと言ったことよ」
カトリーヌの表情が一瞬だけ揺れる。
フィオレッタは続けた。
「これから先、何があっても、それはあなたが欲しがって手に入れたものなのだから」
義妹は、ほんのわずかに顔をこわばらせた。
やはりまだそこまで考えていないのだろう。手に入れる瞬間だけを夢見て、その先に続く現実までは見ていない。
「お姉様って……そういうところが本当に……」
「本当に?」
カトリーヌは、言葉を濁した。
「冷たいですわ」
フィオレッタはふっと息をついた。
「そう。なら、そう思っていればいいわ」
それ以上話すことはないと示すように、机上の冊子へ手を伸ばす。
カトリーヌはまだ何か言いたげだったが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「お姉様には、わからないでしょうね」
「何が?」
「愛されることの幸福が」
言い残して、義妹は踵を返した。
扉が閉まる。
しばらく部屋は静まり返っていたが、やがてエマが、ほとんど噛みつくような低い声で言った。
「……本当に、あの方は」
「いいのよ」
フィオレッタは冊子を開きながら答えた。
「浮かれているだけだから」
「浮かれているからといって、あのような」
「ええ」
そこでフィオレッタは手を止めた。
愛されることの幸福。
その言葉が、妙に耳に残る。
たしかにギルベルトは、婚約中のフィオレッタに向けるよりはるかに甘い目を、カトリーヌに向けていた。それは事実だ。だが、それが“愛されること”と同義なのかと問われれば、フィオレッタには少し違うように思えた。
必要とされること。
気分よくさせること。
所有したくなること。
そうしたものと、敬意をもって大切に扱われることは、似ているようでずいぶん違う。
夕方近くになると、茶会はお開きになったらしく、令嬢たちの馬車が順に屋敷を去っていった。
その後、義母付きの侍女から、珍しくフィオレッタ宛に伝言が来た。
「奥様が、少しお時間をいただきたいと」
フィオレッタは嫌な予感を覚えながらも、大応接間の隣にある小部屋へ向かった。
そこには義母一人が座っていた。
いつものように柔らかな微笑みを作っているが、その目の奥にはどこか探る色がある。
「フィオレッタさん、座ってちょうだい」
「何かしら」
座りながら問うと、義母は少しためらうようにティーカップの縁を撫でた。
「今日の茶会でね、カトリーヌはとても可愛らしく振る舞っていたの。皆さんにも好評だったわ」
「それは何よりですわ」
「ええ。でも……少しだけ気になることもあって」
やはりそう来るか、とフィオレッタは思った。
「ギルベルト様がお見えにならなかったことですか」
義母がぴくりとまぶたを動かす。
「あなたも気づいていたのね」
「婚約祝いの場ですもの。普通なら少しは顔を出してもおかしくないでしょう」
「公務だと伺っているわ」
「そうなのでしょうね」
フィオレッタの返答があまりに淡々としていたせいか、義母は少し苛立ったように言う。
「あなた、何か思うところがあるならはっきり仰いなさい」
「私が何か言う必要があります?」
「私は母として、娘の婚約が順調か気にしているだけです」
その言い方に、フィオレッタは少しだけ目を細めた。
今さら“母として”を持ち出すのね。
けれど口にはしなかった。
「順調かどうかは、カトリーヌとギルベルト様のお二人で築くことですわ」
「冷たい言い方ね」
「現実的と言ってくださいませ」
義母は息を吐いた。
それから少し声を落とす。
「あなたは……ギルベルト様のことをよくご存じだったでしょう。婚約者として長く接してきたのだから」
「ええ」
「その方が、カトリーヌにとって本当に良い相手かどうか」
ようやく本音が見えた。
フィオレッタは、義母の顔を静かに見つめた。
「今になって、気になるのですか」
その一言で、義母の表情がかすかに固まる。
「私はただ」
「カトリーヌが欲しいと言った時は、止めませんでしたわよね」
フィオレッタはやわらかな声音で言った。
「むしろ、お義母様はあの子の味方をなさった。怖がっているのだから、可哀想なのだから、と」
「それは……」
「なら、今さら私に相手の品定めをさせるのは、少し筋が違うのではなくて?」
義母は口を閉ざした。
責め立てるつもりはなかった。だが、少なくとも今ここで自分に“姉として心配してほしい”顔をされるのは、違うだろうと思った。
しばし沈黙が落ちる。
やがて義母は、小さく息を吐いた。
「あなたは本当に、そういう時だけお父様にそっくりね」
その言葉が褒め言葉でないことはよくわかった。
フィオレッタは立ち上がる。
「他にご用件がなければ、失礼してよろしいでしょうか」
義母は引き止めなかった。
部屋を出て、長い廊下を歩きながら、フィオレッタは小さく息をついた。
幸福を手にしたはずの妹。
けれど、もうほんの少しだけ、その幸福の輪郭には揺らぎが見え始めている。
ギルベルトが婚約祝いの場に現れなかったこと。
義母がそれを気にし始めたこと。
そしてカトリーヌ自身が、嬉しさを誇示しながら、どこか落ち着かないこと。
まだ小さな違和感だ。
けれど、表面だけで成り立つ幸福は、たいていこういう小さなひびから始まる。
夜になり、自室でアルディシア公国から届いた冊子を読んでいると、今度は短い書簡が挟まっていた。
フェリクスの筆跡だ。
――迎えの時期について、近く正式にお伝えします。
――焦る必要はありません。
――ただ、もしこの家で息苦しさを覚えるようなら、あなたはもう「出ていく者」であることを忘れないでください。
その一文を読んで、フィオレッタはしばらく動かなかった。
出ていく者。
それは冷たい宣告ではなく、むしろ救いのように響いた。
この家に縛られ続ける必要はないのだと、誰かに言葉で許された気がしたからだ。
フィオレッタは手紙をそっと畳む。
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしている。
義妹は幸福を手にしたつもりでいる。
けれど自分もまた、失っただけではないのかもしれないと、静かに思った。
カトリーヌとギルベルトの婚約が正式に整えられてから、王都の社交界ではしばらくその話でもちきりだった。
もともと公の場で婚約破棄が宣言されたのだ。噂にならないはずがない。
しかも相手はロシュフォール公爵家の嫡男とランベール侯爵家の姉妹。家格も高ければ、騒動の形も派手だった。表向きは誰もが上品な微笑みを崩さずにいたが、水面下ではさまざまな憶測が飛び交っていた。
冷たい姉より、可憐な妹が選ばれたのだという者もいた。
いや、妹がずっと裏で立ち回っていたらしいと囁く者もいた。
ギルベルトは“真実の愛”に目覚めたのだと夢見るように語る若い令嬢もいれば、公爵家の嫡男ともあろう者が婚約をあんな形で扱うのは軽率すぎると眉をひそめる年長の夫人もいる。
つまり、華やかに整えられたわりには、少しも綺麗には片づいていなかった。
それでもカトリーヌだけは、少なくとも表向きには、幸福の絶頂にいる娘として振る舞っていた。
その日の午後も、ランベール侯爵家の大広間では数人の令嬢たちを招いた小さな茶会が開かれていた。
招いたのは義母だ。
名目はカトリーヌの正式な婚約祝い。
だが実際には、「次の婚約者はこの娘なのです」と社交界のごく近い範囲へあらためて印象づけるための場だった。
フィオレッタは参加しなかった。
参加しないのではなく、参加する必要がないと義母のほうが判断したのだろう。あるいは、姉妹を並べると都合が悪いと思ったのかもしれない。どちらでもよかった。
代わりにフィオレッタは、自室でアルディシア公国の言葉の練習をしていた。
窓の外からは、庭園越しに茶会のざわめきがかすかに聞こえてくる。笑い声、茶器の触れ合う音、女たちのやわらかな囁き。耳を澄ませば、話題の中心が誰なのかくらいはわかる。
カトリーヌだ。
いまや彼女は、婚約者を勝ち取った妹として注目を集めている。
「お嬢様」
エマが静かに入ってくる。
「茶会のほう、かなりにぎやかでございます」
「そう」
「カトリーヌ様は……とてもご機嫌のようで」
フィオレッタは手元の冊子を閉じた。
「それはよかったわね」
口調は淡々としていたが、皮肉は隠さなかった。
エマもそれを察して、少しだけ声を落とす。
「申し訳ございません。お耳に入れたくはなかったのですが……」
「いいのよ。隠したところで、どうせ同じ屋敷だもの」
フィオレッタは立ち上がり、窓辺へ寄った。
遠くに見える東の庭園では、色とりどりのパラソルの下に令嬢たちの姿がある。中心にいる淡い桃色のドレスは、きっとカトリーヌだろう。鳥籠の中の小鳥のように、あいかわらず愛らしく見える。
ただ、その輪の中にギルベルトの姿はない。
婚約祝いの場なのに。
「ギルベルト様はお見えになっていないのね」
エマが少し驚いたように目を上げる。
「お気づきでしたか」
「ええ」
「今日は公務があるとかで」
「公務」
フィオレッタはその言葉を繰り返した。
ロシュフォール公爵家の嫡男なのだから、もちろん公務もあるだろう。だが、正式な婚約祝いの茶会に顔も出さず、理由が“公務”だけというのは、少し薄い。
もっとも、それが本当に薄いのか、それとも自分が穿って見ているだけなのかはまだわからない。
その時、廊下の向こうから軽い足音がして、ノックもそこそこにカトリーヌが入ってきた。
「お姉様!」
いつになく弾んだ声だった。
フィオレッタは振り返る。
義妹は頬を紅潮させ、瞳まできらきらとさせていた。茶会の途中で抜けてきたのだろう、ドレスも髪もよそゆきのままだ。
「どうしたの」
「お客様方が、皆とても羨ましいとおっしゃるのです」
いきなりそう来たか、とフィオレッタは思った。
エマが背後で、わずかに顔をしかめる気配がする。
カトリーヌは気づきもせずに続けた。
「ロシュフォール公爵家の嫡男と結ばれるなんて、夢のようですって。しかもギルベルト様は、私をとても大切にしてくださるでしょう?」
「そう」
「ええ。先日も、新しく仕立てるドレスの色について、私の好きにしてよいと仰ってくださいましたの」
フィオレッタは黙って義妹を見た。
たぶん、彼女は本当に浮かれているのだ。自分が勝者であり、今こそ姉より上に立ったのだと感じている。その高揚のままここへ来て、わざわざ見せに来た。
可愛い妹は守られ、選ばれ、幸せになる。
そういう物語の中心にいる気分なのだろう。
「それは、よかったわね」
フィオレッタがそう返すと、カトリーヌは少しだけ首を傾げた。
「お姉様、怒っていらっしゃらないの?」
「何に対して?」
「……私が、ギルベルト様の婚約者になったこと」
その問いに、フィオレッタは少しだけ笑った。
「いまさらその確認をするの?」
カトリーヌの顔がわずかに曇る。
「だって……お姉様は、あまり何も仰らないから」
「騒いだところで、何か変わるのかしら」
「それは……」
「あなたはもう正式な婚約者になった。私はアルディシアへ行く。それだけの話でしょう」
カトリーヌは一瞬だけ唇を噛んだ。
どうやら彼女は、もっとわかりやすい反応を期待していたらしい。嫉妬、怒り、悔し涙。そうしたものが返ってくれば、自分の勝利はもっと鮮やかに感じられただろう。
けれど現実に向けられるのは、静かな視線だけだ。
「お姉様は……本当に、平気ですのね」
その言い方には、少しだけ刺があった。
フィオレッタはその棘を、淡々と受け止める。
「平気に見えるのなら、そう見せているだけよ」
カトリーヌが目を見張る。
「でも、あなたはとても嬉しそうね」
「もちろんですわ」
義妹はすぐに勢いを取り戻した。
「だって私、ようやく本当に欲しかったものを手に入れたのですもの」
その一言に、フィオレッタはほんの少しだけ目を細めた。
ようやく本当に欲しかったもの。
つまり、最初からそれだったのだ。
異国へ行くのが怖い、というだけではない。ギルベルトが欲しかった。近くにいられて、自分を甘やかしてくれて、社交界でも華やかな地位を与えてくれる男が。
「そう」
フィオレッタは静かに言った。
「なら、その言葉は忘れないことね」
「え?」
「あなたが、本当に欲しかったものを手に入れたと言ったことよ」
カトリーヌの表情が一瞬だけ揺れる。
フィオレッタは続けた。
「これから先、何があっても、それはあなたが欲しがって手に入れたものなのだから」
義妹は、ほんのわずかに顔をこわばらせた。
やはりまだそこまで考えていないのだろう。手に入れる瞬間だけを夢見て、その先に続く現実までは見ていない。
「お姉様って……そういうところが本当に……」
「本当に?」
カトリーヌは、言葉を濁した。
「冷たいですわ」
フィオレッタはふっと息をついた。
「そう。なら、そう思っていればいいわ」
それ以上話すことはないと示すように、机上の冊子へ手を伸ばす。
カトリーヌはまだ何か言いたげだったが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「お姉様には、わからないでしょうね」
「何が?」
「愛されることの幸福が」
言い残して、義妹は踵を返した。
扉が閉まる。
しばらく部屋は静まり返っていたが、やがてエマが、ほとんど噛みつくような低い声で言った。
「……本当に、あの方は」
「いいのよ」
フィオレッタは冊子を開きながら答えた。
「浮かれているだけだから」
「浮かれているからといって、あのような」
「ええ」
そこでフィオレッタは手を止めた。
愛されることの幸福。
その言葉が、妙に耳に残る。
たしかにギルベルトは、婚約中のフィオレッタに向けるよりはるかに甘い目を、カトリーヌに向けていた。それは事実だ。だが、それが“愛されること”と同義なのかと問われれば、フィオレッタには少し違うように思えた。
必要とされること。
気分よくさせること。
所有したくなること。
そうしたものと、敬意をもって大切に扱われることは、似ているようでずいぶん違う。
夕方近くになると、茶会はお開きになったらしく、令嬢たちの馬車が順に屋敷を去っていった。
その後、義母付きの侍女から、珍しくフィオレッタ宛に伝言が来た。
「奥様が、少しお時間をいただきたいと」
フィオレッタは嫌な予感を覚えながらも、大応接間の隣にある小部屋へ向かった。
そこには義母一人が座っていた。
いつものように柔らかな微笑みを作っているが、その目の奥にはどこか探る色がある。
「フィオレッタさん、座ってちょうだい」
「何かしら」
座りながら問うと、義母は少しためらうようにティーカップの縁を撫でた。
「今日の茶会でね、カトリーヌはとても可愛らしく振る舞っていたの。皆さんにも好評だったわ」
「それは何よりですわ」
「ええ。でも……少しだけ気になることもあって」
やはりそう来るか、とフィオレッタは思った。
「ギルベルト様がお見えにならなかったことですか」
義母がぴくりとまぶたを動かす。
「あなたも気づいていたのね」
「婚約祝いの場ですもの。普通なら少しは顔を出してもおかしくないでしょう」
「公務だと伺っているわ」
「そうなのでしょうね」
フィオレッタの返答があまりに淡々としていたせいか、義母は少し苛立ったように言う。
「あなた、何か思うところがあるならはっきり仰いなさい」
「私が何か言う必要があります?」
「私は母として、娘の婚約が順調か気にしているだけです」
その言い方に、フィオレッタは少しだけ目を細めた。
今さら“母として”を持ち出すのね。
けれど口にはしなかった。
「順調かどうかは、カトリーヌとギルベルト様のお二人で築くことですわ」
「冷たい言い方ね」
「現実的と言ってくださいませ」
義母は息を吐いた。
それから少し声を落とす。
「あなたは……ギルベルト様のことをよくご存じだったでしょう。婚約者として長く接してきたのだから」
「ええ」
「その方が、カトリーヌにとって本当に良い相手かどうか」
ようやく本音が見えた。
フィオレッタは、義母の顔を静かに見つめた。
「今になって、気になるのですか」
その一言で、義母の表情がかすかに固まる。
「私はただ」
「カトリーヌが欲しいと言った時は、止めませんでしたわよね」
フィオレッタはやわらかな声音で言った。
「むしろ、お義母様はあの子の味方をなさった。怖がっているのだから、可哀想なのだから、と」
「それは……」
「なら、今さら私に相手の品定めをさせるのは、少し筋が違うのではなくて?」
義母は口を閉ざした。
責め立てるつもりはなかった。だが、少なくとも今ここで自分に“姉として心配してほしい”顔をされるのは、違うだろうと思った。
しばし沈黙が落ちる。
やがて義母は、小さく息を吐いた。
「あなたは本当に、そういう時だけお父様にそっくりね」
その言葉が褒め言葉でないことはよくわかった。
フィオレッタは立ち上がる。
「他にご用件がなければ、失礼してよろしいでしょうか」
義母は引き止めなかった。
部屋を出て、長い廊下を歩きながら、フィオレッタは小さく息をついた。
幸福を手にしたはずの妹。
けれど、もうほんの少しだけ、その幸福の輪郭には揺らぎが見え始めている。
ギルベルトが婚約祝いの場に現れなかったこと。
義母がそれを気にし始めたこと。
そしてカトリーヌ自身が、嬉しさを誇示しながら、どこか落ち着かないこと。
まだ小さな違和感だ。
けれど、表面だけで成り立つ幸福は、たいていこういう小さなひびから始まる。
夜になり、自室でアルディシア公国から届いた冊子を読んでいると、今度は短い書簡が挟まっていた。
フェリクスの筆跡だ。
――迎えの時期について、近く正式にお伝えします。
――焦る必要はありません。
――ただ、もしこの家で息苦しさを覚えるようなら、あなたはもう「出ていく者」であることを忘れないでください。
その一文を読んで、フィオレッタはしばらく動かなかった。
出ていく者。
それは冷たい宣告ではなく、むしろ救いのように響いた。
この家に縛られ続ける必要はないのだと、誰かに言葉で許された気がしたからだ。
フィオレッタは手紙をそっと畳む。
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしている。
義妹は幸福を手にしたつもりでいる。
けれど自分もまた、失っただけではないのかもしれないと、静かに思った。
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