私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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12 最初の夜の違和感

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12 最初の夜の違和感

 カトリーヌがロシュフォール公爵家へ正式に迎えられたのは、初夏の気配が濃くなり始めた頃だった。

 婚約が整ってからは早かった。

 ロシュフォール家は家格の高さに見合う華やかな手順で話を進め、ランベール侯爵家もまた、それに見劣りせぬよう必死に体裁を整えた。社交界では「公開婚約破棄のあとに、妹が正式な婚約者となった」という刺激的な話題性もあって、当初のざわつきは次第に“新しい恋の成就”という形へ塗り替えられつつあった。

 もちろん、そう見たがる者たちの中でだけ、だが。

 フィオレッタは、その一連の流れを少し離れた場所から見ていた。

 義妹は望んだものを手に入れた。

 近くにいられる公爵令息。

 見知った社交界。

 異国へ渡らずに済む未来。

 甘く守ってくれそうな男。

 少なくとも表向きには、すべて望み通りだった。

 ロシュフォール家へ輿入れする朝、カトリーヌはひどく美しかった。

 淡い象牙色のドレスに身を包み、白い花を編み込んだ髪はやわらかく肩に落ち、頬は緊張と高揚でほんのり紅潮している。いかにも幸福な花嫁という姿だ。

 義母は何度も目元を押さえ、父は父で、侯爵家の娘として恥のないようにと厳粛な顔を作っていた。

 フィオレッタは玄関広間で、その様子を静かに見ていた。

「お姉様」

 出立直前、カトリーヌが振り返る。

 瞳は潤み、しかし口元は幸福にほどけていた。

「今まで……ありがとうございました」

 その言葉が本心かどうかは、もはや重要ではなかった。

 フィオレッタはただ穏やかに答える。

「お幸せに」

 カトリーヌは一瞬だけ目を見開いた。

 たぶん、もっと棘のある返事を予想していたのだろう。

 だがフィオレッタには、いまさらここで何かを刺し返す気はなかった。刺したところで過去は戻らないし、義妹が望んだものを手にした事実も消えない。

 ならばもう、あとはその先を見ればいいだけだ。

 馬車が門を出ていく。

 義母は小さくすすり泣き、父は「大げさにするな」と言いながらも、どこか安堵したような顔をしていた。

 ひとつ片づいたのだ、この家にとって。

 フィオレッタはその様子を見ながら、胸の内で静かに思う。

 片づいた、ね。

 家にとってはそうなのだろう。だが人の人生は、片づいたからといって綺麗に収まるものではない。

 その日の夜、ロシュフォール公爵家では小規模ながら華やかな祝宴が開かれたらしい。

 フィオレッタがその様子を直接見ることはない。けれど翌日には、使用人を通じて、社交界を通じて、断片的な話がいくつも流れ込んできた。

 ギルベルトは終始機嫌が良かったこと。

 花嫁姿のカトリーヌを「自分の選んだ娘」として誇らしげに扱っていたこと。

 若い貴族たちは、真実の愛の勝利だなどと軽口を叩いていたこと。

 義母はその話を聞いて大いに満足した様子だった。

「やっぱり、あの子にはあちらが合っていたのだわ」

 昼食の席でそう言った義母に、父も否定はしなかった。

 フィオレッタは黙って茶器を置いただけだ。

 本当にそうかしら、と胸の中でだけ思う。

 合っていたのか。

 それとも、気分よく酔っているだけなのか。

 その答えが出るには、まだ早い。

 だが、思ったより早く最初の違和感は届いた。

 三日後の午後だった。

 義母付きの侍女が、やや青ざめた顔で屋敷内を急いでいるのをエマが見つけ、その後すぐ、義母が慌てて私室へ引きこもったという話が広がった。

 何事かと屋敷の空気がざわつく中、夕刻になって、カトリーヌ付きだった元侍女の一人がこっそりエマを訪ねてきた。

 その侍女は、ロシュフォール家へ同行はしていない。婚約後の身の回りは向こうで整えるという話になり、侯爵家からの侍女は最低限しか連れていかなかったからだ。だが元主人のことが気になっていたのだろう。

「どうしたの?」

 フィオレッタが直接尋ねると、侍女はひどく言いづらそうに視線を伏せた。

「ロシュフォール公爵家の使用人筋から……少し妙なお話が」

 妙。

 その一言で、フィオレッタの胸の内に小さな警戒が走る。

「どんな話」

「それが……はっきりしたことではないのです。ただ、カトリーヌ様が初日の夜から少しお加減を崩されたと」

 エマが眉をひそめる。

「加減を?」

「はい。お部屋から出てこられず、朝のお支度にも遅れがちで、食事もあまり召し上がっていないと……」

 フィオレッタはしばらく黙っていた。

 花嫁が環境の変化で疲れることはある。緊張もするだろう。慣れぬ屋敷、慣れぬ人間関係、婚儀の後の気疲れ。どれを取ってもおかしくはない。

 だが、なぜそんな話で義母が青ざめるのか。

 なぜ使用人たちがわざわざ“妙だ”と囁くのか。

「他には?」

 侍女はますます困った顔になる。

「……ギルベルト様が、花嫁様をとても大事になさっている、とも」

「それは普通のことではなくて?」

「いえ、普通なら……」

 言い淀む。

 フィオレッタはその先を察した。

「外へ出さないのね」

 侍女がはっと顔を上げた。

「お嬢様……」

「違うの?」

「……ロシュフォール家の奥向きで、“花嫁様はしばらく静養が必要だから人前へあまり出さぬように”というお達しがあったそうです」

 エマがきゅっと唇を引き結ぶ。

 フィオレッタはゆっくり息を吐いた。

 それだけではまだ断定できない。だが、嫌な輪郭は見え始めている。

 ギルベルト・ド・ロシュフォールは、守るという言葉が好きな男だ。

 だが彼の言う“守る”は、相手を尊重することではなく、自分の手の中に置くことに近い。

 婚約中、フィオレッタがそれを露骨に感じることは少なかった。彼女には隙がなく、必要以上に甘えも頼りもしなかったからだ。彼にとっては、少し物足りなくても支配欲を刺激される相手ではなかったのだろう。

 だが、カトリーヌは違う。

 可憐で、頼ってきて、守ってほしい顔をする。

 そういう相手を手に入れたギルベルトが、そこで止まる男だろうか。

「お義母様は、その話をご存じなのね」

 フィオレッタが侍女に問うと、相手はこくりとうなずいた。

「先ほど……それとなく伝わったようで」

「そう」

 義母は今ごろ混乱しているに違いない。娘は望み通りの結婚をしたはず。皆に羨まれる婚約者を手に入れ、華やかな公爵家へ嫁いだ。なのに、初日から“静養が必要”だの“外へ出さぬように”だのという話が聞こえてくる。

 それが単なる疲れならいい。

 だが、そうでなかったら。

「お嬢様」

 エマが小さく言う。

「まさか……」

「まだ何もわからないわ」

 フィオレッタはそう答えた。

 だが本当は、何もわからないわけではなかった。

 わからないのは程度だけだ。

 方向は、ひどく嫌なほうへ向かっている気がした。

 その夜、義母は夕食の席にも現れなかった。父は苛立った様子で「また体調か」と言ったが、使用人の間に流れる空気はそれだけではないと告げていた。

 カトリーヌからの正式な便りは、まだ届かない。

 普通なら、嫁いで数日もすれば実家へ形式的な無事の報せくらい送るものだ。とくに義母があれほど娘離れできていないのだから、なおさら早いはずだった。

 なのに何もない。

 その沈黙が、かえって不気味だった。

 フィオレッタは自室へ戻ると、窓辺に立って夜の庭を見た。

 風はなく、木々の影だけが静かに揺れている。

 幸福を手にしたはずの妹。

 愛されることの幸福を知るのだと、自分に言い聞かせるように言っていた妹。

 その最初の夜に、すでに違和感が生まれている。

 それは同情ではなかった。

 まして喜びでもない。

 ただ、避けようのない予感だった。

 欲しがって奪ったものほど、実際に手にした瞬間から形を変えることがある。しかも相手がギルベルトのような男なら、なおさらだ。

 数日後、ようやくカトリーヌから短い便りが届いた。

 義母宛のもので、文面は驚くほど整っていた。

 ロシュフォール家の皆様はお優しく、屋敷は立派で、少し疲れただけですぐに回復したこと。ギルベルト様は自分をとても気にかけてくださっていること。心配はいらないこと。

 どこにも非の打ち所のない、花嫁の手紙だった。

 だが、義母はそれを読み終えたあとも顔色を戻さなかった。

「どうして?」

 夕暮れ時、廊下の角でそう呟いた義母の声を、フィオレッタはたまたま聞いてしまった。

「どうしてこんなに、きちんとしすぎているの……」

 その違和感は、フィオレッタにもわかった。

 カトリーヌはもともと、こういう“きちんとした安心”を書く娘ではない。もっと甘く、もっと感情的で、自分がどれだけ幸せかを飾りたがるはずだ。

 なのに届いた手紙は、まるで人に読まれることを前提に整えられた報告書のようだった。

 つまり――

 誰かの目を気にして書いたのだ。

 あるいは、誰かの前で書かされたのか。

 フィオレッタはその場を静かに通り過ぎ、自室へ戻った。

 机の上には、アルディシア公国から届いた新しい冊子と、フェリクスからの短い書簡が置かれている。

 こちらの文字はいつも通り簡潔だった。

 ――こちらはようやく雨の季節を抜けました。
 ――あなたが来る頃には庭の葡萄棚も落ち着くでしょう。
 ――慌ただしい時期でしょうが、どうか睡眠だけは削らないでください。

 最後の一文に、フィオレッタはふっと目を細めた。

 睡眠だけは削らないでください。

 そんなことまで気にする人なのだ、この男は。

 そしてその対比が、いやでも浮かび上がる。

 片や、まだ屋敷に入ってもいない婚約者へ、眠る時間まで気遣う男。

 片や、手に入れた花嫁を早々に自分の檻へ閉じ込め始める気配のある男。

 もちろん、まだ確かなことはわからない。

 でも、最初の夜の違和感は、たしかにもう始まっていた。
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