私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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13 しつけという名の支配

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13 しつけという名の支配

 ロシュフォール公爵家へ嫁いでから十日ほどが過ぎた頃、カトリーヌはようやく一度だけ社交の場へ姿を見せた。

 王都の西にある由緒ある侯爵家で開かれた、小規模な晩餐会だったという。招かれた客は多くなく、顔ぶれもほとんどが身内に近い高位貴族ばかり。新たな婚約者を得たロシュフォール家としては、広く見せびらかすより、まずは確実に味方へ印象づけたい相手だけに見せる場を選んだのだろう。

 その場にいた夫人たちの話は、翌日には当然のように王都へ広がった。

 花嫁はやつれていた。

 けれど、それが病み上がりのせいなのか、婚家にまだ慣れていないせいなのか、あるいは別の理由なのかまでは、誰もはっきり言わなかった。

 ただ一つ、多くの者が同じように口にしたのは、

「ギルベルト様が、ひどく奥様を気にしておられた」

 ということだった。

 その言葉だけ聞けば、優しい夫のように思える。

 だが、話の続きを聞くと少し違った。

 隣の席から離さない。

 誰かと二言三言以上話すとすぐ会話へ割って入る。

 ダンスの申し込みも、体調を理由にすべて断る。

 杯に口をつけるタイミングまで視線で追っていた。

 それは“気にかけている”というより、“監視している”に近かった。

 もちろん、社交界の人間がそこまで露骨な言い方をすることはない。

 皆、上品な微笑みと婉曲な表現で包む。

 だがそういう場に長くいる者ほど、包まれた言葉の中身を読む。

 だからこそ、ランベール侯爵家へ届く空気も、日に日に少しずつ変わっていった。

 最初は「愛されているのね」で済んでいたものが、

「少し熱が高すぎるのではなくて」

 へ変わり、

「奥様は、まだお若くて気疲れもあるのでしょう」

 となり、

 ついには、

「ご夫君のお気持ちに、少々押し潰されていらっしゃるのかもしれませんわね」

 という言い方まで混じり始める。

 遠回しで、上品で、しかし十分に嫌な噂だった。

 フィオレッタはそれを、茶会の帰りに立ち寄った夫人たちの会話や、義母の顔色、使用人たちの緊張した気配から感じ取っていた。

 ある日の夕方、義母が珍しくフィオレッタを自室へ呼んだ。

 部屋へ入ると、義母は窓辺の椅子に座ったまま、いつものような整った笑みを作れていなかった。

 膝の上には、一通の手紙がある。

「カトリーヌから?」

 フィオレッタが尋ねると、義母はゆっくりとうなずいた。

「ええ」

「何かあったの」

 義母はすぐには答えなかった。

 やがて、その手紙を見つめたまま小さく言う。

「あの子……最近、手紙が短いの」

 フィオレッタは黙っていた。

「前はもっと、どうでもいいことでも書いてきたわ。ドレスの色がどうだったとか、誰に褒められたとか、食後の菓子が美味しかったとか……。でも今は、無事です、元気です、心配いりません、ばかり」

「そう」

「それに、字も」

 義母が手紙を持ち上げる。

「揃いすぎているのよ。あの子、嬉しい時や焦っている時は、もっと文字が跳ねるのに」

 そこまで聞いて、フィオレッタはようやく小さく息を吐いた。

 やはり、義母も気づいているのだ。

 娘の“普通”ではないことに。

 ただし、それを認めたくないからこそ、こんなふうに遠回しに確認しているのだろう。

「私に、どうしてほしいのですか」

 はっきり尋ねると、義母の肩がかすかに揺れた。

「どうしてほしい、というわけでは……」

「では、なぜ私をお呼びになったの」

 義母は、手紙を握る指先に力をこめた。

「あなたは……ギルベルト様と長く婚約していたでしょう」

 やはりそこへ戻るのね、とフィオレッタは思った。

「だから、あの方がどういう方か、私よりはよくわかっているのではないかと」

「わかっていたなら、婚約者交換を止められたかもしれない、と?」

 義母が顔を上げる。

「そんなつもりでは」

「では、どういうつもりですか」

 少しだけ声が冷たくなった。

「お義母様は、あの時、カトリーヌの望みを叶える側に立ったのではありませんか。怖がっているのだから。可哀想なのだから。あの子にはあちらがふさわしいのだから、と」

 義母は唇を噛む。

「……そうよ。でも、私はまさか」

「まさか、何?」

「こんなに早く、雰囲気が変わるとは思わなかったの」

 その言葉は、心底から出たものらしかった。

 フィオレッタはしばらく義母を見つめ、それから静かに言った。

「ギルベルト様は、もともと所有欲の強い方でした」

 義母が息を止める。

「婚約中の私は、そこまで露骨にそれを向けられませんでした。私があの方の望む“守ってほしがる女”ではなかったからでしょう」

「所有欲……」

「ええ」

 フィオレッタは目を伏せた。

「自分が気分よくいられるように、相手も世界もあるべきだと思っている方です。愛情がないとは申しません。でもその愛情は、相手の自由まで尊重するものではありません」

 義母の顔色が変わっていく。

 たぶんこの人は、ようやく自分の娘が嫁いだ先の男を、恋に酔った貴公子ではなく、一人の人間として見始めたのだ。

「カトリーヌは……」

 義母の声が震える。

「あの子は、可愛がられているだけではないの?」

 その問いに、フィオレッタはすぐには答えなかった。

 言葉を選ぶ必要があったからではない。ただ、あまりにもその問いが都合よく聞こえて、胸の奥で少し乾いたものが広がったのだ。

「可愛がられているのでしょう」

 やがて、そう答える。

「でも可愛がることと、相手を尊重することは別です」

 義母は何も言えなくなった。

 その日の夜遅く、ロシュフォール家からもう一通、急ぎの便りが届いた。

 今度は義母宛ではなく、父宛だった。

 食後、父は書斎へ呼び出され、しばらくしてからひどく険しい顔で出てきた。義母もすぐに呼ばれ、二人だけで話し込む。

 屋敷の空気がまた少し張りつめる。

 フィオレッタは直接呼ばれはしなかったが、翌朝にはだいたいの事情が伝わってきた。

 カトリーヌが、侍女を一人泣かせたのだという。

 泣かせた、という言い方だけなら、花嫁が気難しくて当たったのかとも思える。だが、実際は逆だった。

 ロシュフォール家付きの侍女が、夜の支度の際にカトリーヌの肩口へうっすら残った痣を見つけたらしい。

 驚いて問いかけたところ、カトリーヌは「何でもない」と言った。

 だがその時ちょうど部屋へ入ってきたギルベルトが、侍女の問いを聞いて不機嫌になり、

「余計な口を利くな」

 と冷たく言い放ったという。

 それだけならまだしも、その侍女はその翌日に別棟の雑務へ回された。

 罰ではない、配置換えだ、と表向きは説明されたが、誰がどう見ても、花嫁へ余計な言葉をかけた報いだった。

 その話を聞いた時、フィオレッタは胸の奥で静かに思った。

 始まったのだ。

 まだ表へ出るほど大きな傷ではない。けれど、確かに始まっている。

 ギルベルトは、自分の妻へ向けられる他人の視線すら、自分の許可なく触れてよいものとは思っていないのだ。

 その日の昼、珍しく父がフィオレッタのもとを訪ねてきた。

 執務の途中らしく、上着もきちんと整えていない。いつも以上に重い顔だった。

「少し話がある」

「どうぞ」

 父は娘の部屋の応接椅子へ座り、しばらく黙っていたが、やがて低く言った。

「ロシュフォール家でのこと、少し耳に入っているだろう」

「ええ」

「どこまで知っている」

 フィオレッタは父を見た。

 この人もまた、今さらになって娘の元婚約者の本性を測り直そうとしているのかもしれない。

「痣のことと、侍女が下げられたことは」

 父の眉間の皺が深くなる。

「やはり広がっているか」

「屋敷の中で隠し通せる話ではありませんもの」

 父は深く息を吐いた。

「公爵家同士ならともかく、侯爵家から嫁いだ娘が早々にこういう話を立てられるのは厄介だ」

 あくまで家格と面目の問題として口にするあたりが、父らしかった。

 フィオレッタは少しだけ冷えた目で尋ねる。

「カトリーヌの心配ではなく?」

「それもある」

 父は苛立ったように答えた。

「だが、心配したところでこちらからすぐに口を出せる立場ではない。婚姻が正式に結ばれた以上、あちらの家の内情だ」

 その言葉もまた、貴族社会では正しい。

 正しいが、冷たい。

 もっとも、ここで父に激情を求める気もなかった。

「お前は……婚約中、何か兆しのようなものを感じたことはなかったのか」

 フィオレッタは少し考えてから言う。

「私が他の男性と長く話していると機嫌が悪くなることはありました」

「やはり」

「ですが、私はもともとあまり隙を見せませんでしたし、あの方も私には“手のかかる女”として接していませんでした。だから、ここまで早く露骨になるとは……正直、私も思っていませんでした」

 父は無言になる。

 そこには後悔というより、計算違いへの苛立ちが見えた。

 この婚約者交換で失ったものが、ようやく家の数字に変わって見え始めたのだろう。

 フィオレッタは、それ以上何も言わなかった。

 父が帰ったあと、エマがそっと部屋へ入ってきた。

「旦那様、何と」

「ギルベルト様のことを聞きにいらしたわ」

「今さら……」

 エマは悔しそうに呟く。

「本当に今さらよ」

 フィオレッタは苦くもなく、淡々とそう言った。

「けれど、たぶんこれからもっと今さらなことが増えるわ」

「お嬢様」

「皆、自分が選んだ結果がどういうものか、手にしてからでないと見ないのよ」

 夕方、窓辺に立つと、西の空が淡く赤く染まっていた。

 この屋敷の夕暮れを、あと何度見るのだろう。

 そんなことを思いながら、フィオレッタは胸の内にある感情を確かめる。

 義妹が傷つくかもしれない。

 そのことに、心がまったく痛まないわけではない。

 でも同時に、あれほど欲しがって、奪って、誇らしげに掲げていたものが、もう義妹自身を傷つけ始めているという現実を、どこか冷たく見つめる自分もいた。

 それは残酷だろうか。

 もしかするとそうかもしれない。

 けれど、最初に残酷だったのは誰だろう、とも思う。

 夜になり、アルディシア公国からの新しい便りが届いた。

 フェリクスの文字はいつも通り簡潔だ。

 ――こちらでは今週、初夏の市が立っています。
 ――にぎやかで騒がしいですが、果物の香りが強く、嫌いではありません。
 ――あなたが来る頃には少し落ち着くでしょう。静かな日を選んで、まず庭を案内したいと思っています。

 フィオレッタは、その最後の一文を見つめた。

 まず庭を案内したい。

 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が少しやわらぐ。

 しつけという名の支配が始まろうとしている家と、まず庭を見せようとする家。

 その違いは、あまりにも大きかった。

 窓の外では夜風が木々を揺らしている。

 義妹の選んだ幸福は、もう薄くひび割れ始めていた。
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