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15 貞操帯
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15 貞操帯
カトリーヌが再び実家へ手紙を寄越したのは、その数日後のことだった。
とはいえ、それは義母が望んでいたような“助けて”の一言ではなかった。
便箋は上質で、文字は相変わらず整いすぎていて、内容もまた驚くほど無難だった。体調は落ち着いてきたこと。ロシュフォール家の皆様は変わらず親切であること。ギルベルトは自分を気づかってくれていること。季節の変わり目で少し疲れやすいだけだから心配はいらないこと。
何一つ、不自然な文はない。
だが不自然ではないことそのものが、むしろ不自然だった。
昼の光の差し込む居間でその手紙を読んでいた義母は、最後まで目を通すと、ゆっくり紙を畳んだ。
「また同じ……」
掠れた声だった。
フィオレッタは少し離れた椅子に座っていたが、何も言わなかった。
義母が助けを求めるようにこちらを見る。
「あなたも、そう思うでしょう?」
「ええ」
短く答える。
「これはカトリーヌの言葉ではないわ」
義母は膝の上で手紙を握りしめた。
「じゃあ、やっぱり……」
「少なくとも、自分だけの意思で書いた文ではないと思います」
そこまでは言える。
だが、それ以上を断定するにはまだ足りない。
夫の前で書かされたのか。誰かに添削されたのか。ただ怯えて、自分で勝手に安全な文面へ整えたのか。その違いは大きいようでいて、結局はどれもろくでもない現実へ通じている。
義母は唇を噛んだ。
「もう一度、会いに行くべきかしら」
フィオレッタは首を横に振った。
「今すぐは、逆効果かもしれません」
「でも」
「いま実家が露骨に動けば、ギルベルト様は“妻が余計なことを吹き込んだ”と思うでしょう」
義母の顔が青ざめる。
その可能性にようやく気づいたらしい。
「ではどうすれば……」
「待つしかないのかもしれません」
その言葉は、我ながら冷たく響いた。
けれど貴族社会において、“いま何もできない”という現実は珍しくない。そして、その何もできなさが、一番人を追い詰める。
義母は目を伏せた。
「待つなんて……」
「お義母様」
フィオレッタは静かに言った。
「本当にあの子が助けを求めてきた時に、手を差し出せるようにしておくべきです」
義母は何も言えなかった。
たぶん、そんな日は来ないと信じたかったのだろう。いや、来てほしくないのだ。娘の結婚が間違いだったと認める日なのだから。
その晩、ロシュフォール家からではなく、別筋から妙な話が入った。
王都で装飾品や衣装を扱う商人のもとに、ロシュフォール公爵家付きの女官が極秘で品を注文に来たらしい。しかもそれは、普通の花嫁道具でも、夜会用の装身具でもなかった。
“特注の鍵細工を含む金属具”。
言葉だけ聞けば用途はわからない。
だが、その商人は古くから高位貴族の奥向きに出入りしている者で、扱う品の種類も幅広い。だからこそ、かえって“普通ではない品”が混じると噂になる。
その話をエマから聞いた時、フィオレッタはすぐには反応できなかった。
「……金属具?」
「はい。ただ、商人のほうも口が堅く、詳しくは」
エマは言いにくそうに声を潜める。
「ですが、奥向きで使う女性向けのもので、しかも採寸が必要だったのではないかと……」
そこで言葉を切った。
言いたいことはわかる。
フィオレッタは黙っていたが、胸の奥にじわりと嫌な冷たさが広がっていくのを感じた。
女性向けの金属具。
鍵。
採寸。
まともな想像では、そこへたどり着きたくなかった。
「お嬢様」
エマが不安げに言う。
「まさか、とは思いますが……」
「ええ」
フィオレッタはかろうじて答えた。
「まさかであってほしいわね」
だが、こういう時の“まさか”ほど、後から現実になるものだと彼女は知っていた。
それからさらに五日後、とうとうカトリーヌ本人から、これまでとは違う文が届いた。
それは義母宛ではなく、フィオレッタ宛だった。
差出人の名を見た時点で、フィオレッタは嫌な予感を覚えた。義妹が今このタイミングで自分に手紙をよこす理由など、ろくなものではない。
封を切る。
中には、短い文がたった数行だけ書かれていた。
――お姉様
――以前、お姉様は仰いましたわね。
――「手に入れたものの責任は自分で取れ」と。
――あの時は、冷たい方だと思いました。
――今は、少しだけ意味がわかる気がします。
そこまで読んで、フィオレッタの指先が止まった。
文は続いている。
――ギルベルト様は、私をとても大切にしてくださいます。
――誰にも触れさせたくないほどに。
――誰にも見せたくないほどに。
――だから私は、これからもっと良い妻にならなければなりません。
――“しつけ”は、そのために必要なのだそうです。
最後の行だけ、字が少し乱れていた。
紙面を見つめるうちに、フィオレッタは胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
しつけ。
前にも義母から聞いた言葉だ。けれど実際に義妹自身がその語を使ったことで、ぼんやりしていた輪郭が急に生々しくなる。
これはもう、単なる粗暴さではない。
夫が妻を“自分の望む形に矯正する権利がある”と思っているのだ。
そして妻の側も、それを受け入れ始めている。少なくとも、そう書かなければならない状況にいる。
最後の一文に、さらに小さな字が添えられていた。
――追伸
――鍵の音が嫌いになりました。
そこを読んだ瞬間、フィオレッタは思わず紙を強く握りしめた。
鍵。
その言葉で、商人の噂がひとつの形を結ぶ。
女性向けの金属具。
採寸。
鍵。
呼吸が浅くなる。
まさか、と思いたかった。だが、文の温度はもう誤魔化しようがなかった。
エマが顔色を変える。
「お嬢様、何と」
フィオレッタは手紙を渡した。
読み進めるうちに、エマの表情も青ざめていく。
「……そんな」
「ええ」
「鍵、というのは」
「たぶん」
フィオレッタは静かに言った。
「想像している通りよ」
エマは口元を押さえた。
「そんなもの……本当に」
「貴族社会に存在しないわけではないわ」
その声は自分でも驚くほど冷静だった。
「でも、あれは逸脱した執着の象徴よ。愛情ではなく、所有の」
エマが震える声で言う。
「では、カトリーヌ様は……」
「ギルベルト様に、自分のものだと印をつけられたのね」
言葉にしてしまうと、かえって現実味が増した。
貞操帯。
その名をここで口にするのも嫌だった。
だが、もはや違う可能性にすがるのは無理がある。鍵の音が嫌いになったという一文が、すべてを告げていた。
その日の夕方、フィオレッタは自ら父の書斎を訪ねた。
「話がございます」
父は執務机の向こうで顔を上げた。疲れの色が濃い。ここ最近、侯爵家の空気はずっと重いままだ。
「何だ」
フィオレッタは義妹の手紙を差し出す。
父は怪訝そうに受け取ったが、読み進めるうちに顔色を変えた。
「……これは」
「カトリーヌからです」
「鍵の音、とは」
「お父様もおわかりになるでしょう」
父は一度目を閉じ、それから低く息を吐いた。
怒りというより、信じたくない現実を無理に飲み込もうとする顔だった。
「ロシュフォール公爵家は、そこまで狂っているのか」
「ギルベルト様が、です」
フィオレッタは修正した。
「家すべてがそうとは限りません。でも、少なくともあの方はそういう人です」
父は手紙を机に置き、こめかみを押さえた。
「……義母には見せたのか」
「まだです」
「見せるべきだ」
「ええ」
だが見せれば、義母はほぼ間違いなく取り乱すだろう。そしてその取り乱しに、いまどれだけの意味があるのかはわからない。
父はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「離婚は無理だ」
その一言は、あまりにもあっさりしていた。
フィオレッタは思わず目を細める。
「まだ、その話ではありません」
「だが考えるだろう。こうなれば」
父の声は重かった。
「しかし婚姻した以上、しかもロシュフォール公爵家が相手だ。身体的な瑕疵でも、不義でもなく、夫が妻を厳しく扱っている程度では、離縁の理由としては弱すぎる」
厳しく扱っている程度。
その言い方に、一瞬だけ怒りが胸を突いた。
けれど父を責めても意味がない。貴族社会の法と慣習がそうなのだ。
夫婦の寝所のこと。
夫の嫉妬。
しつけ。
そうしたものは、よほど露骨に表へ出ない限り、家庭内の問題として封じられる。
父が言う。
「実家としてできるのは、まず事実確認と牽制だ。だが、それでも限界がある」
「ええ」
フィオレッタはうなずいた。
限界がある。
それがいちばん残酷だった。
義妹は自分で望んだ結婚に閉じ込められ、しかも実家でさえ簡単には助けられない。欲しがって手に入れたものが、いまや檻になっている。
書斎を出たあと、義母にも手紙は見せられた。
案の定、彼女は椅子に崩れるように座り込み、何度も「そんな、そんな」と繰り返した。
「鍵なんて……どういうことなの……?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
答えがわかっていても、口にすること自体があまりにも醜悪だったからだ。
やがて義母は、ほとんど泣き崩れるように言った。
「私、あの子をそんなところへ……」
フィオレッタはその姿を見ながら、胸の内に広がる感情を静かに見つめていた。
同情はある。
怒りもある。
けれどそれ以上に、自分の中のどこかがひどく冷めていることにも気づいていた。
今さらなのだ。
義妹が婚約を欲しがり、義母がそれを後押しし、父が家のために通し、自分の人生が差し替えられた時点で、歯車はもう噛み合ってしまっていた。
今、その結果がこういう形で出ているだけだ。
残酷なほど、筋は通っている。
夜、自室へ戻ると、フィオレッタはしばらく机に向かったまま動けなかった。
窓の外は静かで、遠くで夜鳥が鳴いている。
机の上には、カトリーヌの手紙。
そしてその隣には、今日届いたアルディシア公国からの封書が置かれていた。
開けば、フェリクスの整った筆跡が目に入る。
――出立まで、必要な準備があれば遠慮なく申し出てください。
――こちらで整えられるものは、先に整えます。
――不安の多い時期だと思いますが、あなた一人に背負わせるつもりはありません。
フィオレッタは、その最後の一文を見つめた。
あなた一人に背負わせるつもりはありません。
あまりにも対照的で、胸が少し痛くなる。
片方では、妻は夫の支配を背負わされる。
片方では、婚約者に一人で背負わせるつもりはないと言う。
同じ結婚という言葉の中に、こうも違う世界があるのか。
フィオレッタは手紙をそっと閉じた。
貞操帯。
その名をまだ口にはしなかった。けれどもう、義妹の檻は形になってしまっている。
そしていったん閉じられた檻は、そう簡単には開かないのだ。
カトリーヌが再び実家へ手紙を寄越したのは、その数日後のことだった。
とはいえ、それは義母が望んでいたような“助けて”の一言ではなかった。
便箋は上質で、文字は相変わらず整いすぎていて、内容もまた驚くほど無難だった。体調は落ち着いてきたこと。ロシュフォール家の皆様は変わらず親切であること。ギルベルトは自分を気づかってくれていること。季節の変わり目で少し疲れやすいだけだから心配はいらないこと。
何一つ、不自然な文はない。
だが不自然ではないことそのものが、むしろ不自然だった。
昼の光の差し込む居間でその手紙を読んでいた義母は、最後まで目を通すと、ゆっくり紙を畳んだ。
「また同じ……」
掠れた声だった。
フィオレッタは少し離れた椅子に座っていたが、何も言わなかった。
義母が助けを求めるようにこちらを見る。
「あなたも、そう思うでしょう?」
「ええ」
短く答える。
「これはカトリーヌの言葉ではないわ」
義母は膝の上で手紙を握りしめた。
「じゃあ、やっぱり……」
「少なくとも、自分だけの意思で書いた文ではないと思います」
そこまでは言える。
だが、それ以上を断定するにはまだ足りない。
夫の前で書かされたのか。誰かに添削されたのか。ただ怯えて、自分で勝手に安全な文面へ整えたのか。その違いは大きいようでいて、結局はどれもろくでもない現実へ通じている。
義母は唇を噛んだ。
「もう一度、会いに行くべきかしら」
フィオレッタは首を横に振った。
「今すぐは、逆効果かもしれません」
「でも」
「いま実家が露骨に動けば、ギルベルト様は“妻が余計なことを吹き込んだ”と思うでしょう」
義母の顔が青ざめる。
その可能性にようやく気づいたらしい。
「ではどうすれば……」
「待つしかないのかもしれません」
その言葉は、我ながら冷たく響いた。
けれど貴族社会において、“いま何もできない”という現実は珍しくない。そして、その何もできなさが、一番人を追い詰める。
義母は目を伏せた。
「待つなんて……」
「お義母様」
フィオレッタは静かに言った。
「本当にあの子が助けを求めてきた時に、手を差し出せるようにしておくべきです」
義母は何も言えなかった。
たぶん、そんな日は来ないと信じたかったのだろう。いや、来てほしくないのだ。娘の結婚が間違いだったと認める日なのだから。
その晩、ロシュフォール家からではなく、別筋から妙な話が入った。
王都で装飾品や衣装を扱う商人のもとに、ロシュフォール公爵家付きの女官が極秘で品を注文に来たらしい。しかもそれは、普通の花嫁道具でも、夜会用の装身具でもなかった。
“特注の鍵細工を含む金属具”。
言葉だけ聞けば用途はわからない。
だが、その商人は古くから高位貴族の奥向きに出入りしている者で、扱う品の種類も幅広い。だからこそ、かえって“普通ではない品”が混じると噂になる。
その話をエマから聞いた時、フィオレッタはすぐには反応できなかった。
「……金属具?」
「はい。ただ、商人のほうも口が堅く、詳しくは」
エマは言いにくそうに声を潜める。
「ですが、奥向きで使う女性向けのもので、しかも採寸が必要だったのではないかと……」
そこで言葉を切った。
言いたいことはわかる。
フィオレッタは黙っていたが、胸の奥にじわりと嫌な冷たさが広がっていくのを感じた。
女性向けの金属具。
鍵。
採寸。
まともな想像では、そこへたどり着きたくなかった。
「お嬢様」
エマが不安げに言う。
「まさか、とは思いますが……」
「ええ」
フィオレッタはかろうじて答えた。
「まさかであってほしいわね」
だが、こういう時の“まさか”ほど、後から現実になるものだと彼女は知っていた。
それからさらに五日後、とうとうカトリーヌ本人から、これまでとは違う文が届いた。
それは義母宛ではなく、フィオレッタ宛だった。
差出人の名を見た時点で、フィオレッタは嫌な予感を覚えた。義妹が今このタイミングで自分に手紙をよこす理由など、ろくなものではない。
封を切る。
中には、短い文がたった数行だけ書かれていた。
――お姉様
――以前、お姉様は仰いましたわね。
――「手に入れたものの責任は自分で取れ」と。
――あの時は、冷たい方だと思いました。
――今は、少しだけ意味がわかる気がします。
そこまで読んで、フィオレッタの指先が止まった。
文は続いている。
――ギルベルト様は、私をとても大切にしてくださいます。
――誰にも触れさせたくないほどに。
――誰にも見せたくないほどに。
――だから私は、これからもっと良い妻にならなければなりません。
――“しつけ”は、そのために必要なのだそうです。
最後の行だけ、字が少し乱れていた。
紙面を見つめるうちに、フィオレッタは胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
しつけ。
前にも義母から聞いた言葉だ。けれど実際に義妹自身がその語を使ったことで、ぼんやりしていた輪郭が急に生々しくなる。
これはもう、単なる粗暴さではない。
夫が妻を“自分の望む形に矯正する権利がある”と思っているのだ。
そして妻の側も、それを受け入れ始めている。少なくとも、そう書かなければならない状況にいる。
最後の一文に、さらに小さな字が添えられていた。
――追伸
――鍵の音が嫌いになりました。
そこを読んだ瞬間、フィオレッタは思わず紙を強く握りしめた。
鍵。
その言葉で、商人の噂がひとつの形を結ぶ。
女性向けの金属具。
採寸。
鍵。
呼吸が浅くなる。
まさか、と思いたかった。だが、文の温度はもう誤魔化しようがなかった。
エマが顔色を変える。
「お嬢様、何と」
フィオレッタは手紙を渡した。
読み進めるうちに、エマの表情も青ざめていく。
「……そんな」
「ええ」
「鍵、というのは」
「たぶん」
フィオレッタは静かに言った。
「想像している通りよ」
エマは口元を押さえた。
「そんなもの……本当に」
「貴族社会に存在しないわけではないわ」
その声は自分でも驚くほど冷静だった。
「でも、あれは逸脱した執着の象徴よ。愛情ではなく、所有の」
エマが震える声で言う。
「では、カトリーヌ様は……」
「ギルベルト様に、自分のものだと印をつけられたのね」
言葉にしてしまうと、かえって現実味が増した。
貞操帯。
その名をここで口にするのも嫌だった。
だが、もはや違う可能性にすがるのは無理がある。鍵の音が嫌いになったという一文が、すべてを告げていた。
その日の夕方、フィオレッタは自ら父の書斎を訪ねた。
「話がございます」
父は執務机の向こうで顔を上げた。疲れの色が濃い。ここ最近、侯爵家の空気はずっと重いままだ。
「何だ」
フィオレッタは義妹の手紙を差し出す。
父は怪訝そうに受け取ったが、読み進めるうちに顔色を変えた。
「……これは」
「カトリーヌからです」
「鍵の音、とは」
「お父様もおわかりになるでしょう」
父は一度目を閉じ、それから低く息を吐いた。
怒りというより、信じたくない現実を無理に飲み込もうとする顔だった。
「ロシュフォール公爵家は、そこまで狂っているのか」
「ギルベルト様が、です」
フィオレッタは修正した。
「家すべてがそうとは限りません。でも、少なくともあの方はそういう人です」
父は手紙を机に置き、こめかみを押さえた。
「……義母には見せたのか」
「まだです」
「見せるべきだ」
「ええ」
だが見せれば、義母はほぼ間違いなく取り乱すだろう。そしてその取り乱しに、いまどれだけの意味があるのかはわからない。
父はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「離婚は無理だ」
その一言は、あまりにもあっさりしていた。
フィオレッタは思わず目を細める。
「まだ、その話ではありません」
「だが考えるだろう。こうなれば」
父の声は重かった。
「しかし婚姻した以上、しかもロシュフォール公爵家が相手だ。身体的な瑕疵でも、不義でもなく、夫が妻を厳しく扱っている程度では、離縁の理由としては弱すぎる」
厳しく扱っている程度。
その言い方に、一瞬だけ怒りが胸を突いた。
けれど父を責めても意味がない。貴族社会の法と慣習がそうなのだ。
夫婦の寝所のこと。
夫の嫉妬。
しつけ。
そうしたものは、よほど露骨に表へ出ない限り、家庭内の問題として封じられる。
父が言う。
「実家としてできるのは、まず事実確認と牽制だ。だが、それでも限界がある」
「ええ」
フィオレッタはうなずいた。
限界がある。
それがいちばん残酷だった。
義妹は自分で望んだ結婚に閉じ込められ、しかも実家でさえ簡単には助けられない。欲しがって手に入れたものが、いまや檻になっている。
書斎を出たあと、義母にも手紙は見せられた。
案の定、彼女は椅子に崩れるように座り込み、何度も「そんな、そんな」と繰り返した。
「鍵なんて……どういうことなの……?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
答えがわかっていても、口にすること自体があまりにも醜悪だったからだ。
やがて義母は、ほとんど泣き崩れるように言った。
「私、あの子をそんなところへ……」
フィオレッタはその姿を見ながら、胸の内に広がる感情を静かに見つめていた。
同情はある。
怒りもある。
けれどそれ以上に、自分の中のどこかがひどく冷めていることにも気づいていた。
今さらなのだ。
義妹が婚約を欲しがり、義母がそれを後押しし、父が家のために通し、自分の人生が差し替えられた時点で、歯車はもう噛み合ってしまっていた。
今、その結果がこういう形で出ているだけだ。
残酷なほど、筋は通っている。
夜、自室へ戻ると、フィオレッタはしばらく机に向かったまま動けなかった。
窓の外は静かで、遠くで夜鳥が鳴いている。
机の上には、カトリーヌの手紙。
そしてその隣には、今日届いたアルディシア公国からの封書が置かれていた。
開けば、フェリクスの整った筆跡が目に入る。
――出立まで、必要な準備があれば遠慮なく申し出てください。
――こちらで整えられるものは、先に整えます。
――不安の多い時期だと思いますが、あなた一人に背負わせるつもりはありません。
フィオレッタは、その最後の一文を見つめた。
あなた一人に背負わせるつもりはありません。
あまりにも対照的で、胸が少し痛くなる。
片方では、妻は夫の支配を背負わされる。
片方では、婚約者に一人で背負わせるつもりはないと言う。
同じ結婚という言葉の中に、こうも違う世界があるのか。
フィオレッタは手紙をそっと閉じた。
貞操帯。
その名をまだ口にはしなかった。けれどもう、義妹の檻は形になってしまっている。
そしていったん閉じられた檻は、そう簡単には開かないのだ。
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